« 石川啄木伝 東京編 261 | トップページ | 石川啄木伝 東京編 263 »

2014年4月 2日 (水)

石川啄木伝 東京編 262

 さて、王堂田中喜一の談話を読んだ啄木に戻ろう。
 地方新聞に行けば、仕事の中心になるのは評論であろう。その評論に対して王堂はきわめて高い位置を与えている。いま、自分が放り出したいとまで思う小説と同じレベルに、放り出してのち取り組もうとする評論をおいているのである。これは逃げ場を求める啄木への力強い援護射撃である。
 さらに王堂のいう評論の意義が今の啄木のつぼにまさにぴたりとはまるではないか。評論とは「実際に存する人生」「生ける社会其のもの」の批判である、という。「実際に存する人生」「生ける社会其のもの」を「国民生活(ナシヨナルライフ)」と読み替えるなら、評論とは「国民生活(ナシヨナルライフ)」の批判Criticismなのである。王堂の自然主義への要求もいい。小説もまた評論の精神によって働きかつ戦うのだと。小説もまた「実際に存する人生」「生ける社会其のもの」の批判であるべきだ、というのである。それは「国民生活」の批判であるべきだと、読み替えうることでもある。
 王堂を読んで啄木は、闇の中に沈んでいる自分の文学観のつぼが、一瞬光に照らし出されたように感ずる。“ National life ! ” sore da.
 どん底にあって啄木は評論の可能性・国民生活(ナシヨナルライフ)という思想と文学の対象・自然主義批判の方向という、モメントをつかんだ。

« 石川啄木伝 東京編 261 | トップページ | 石川啄木伝 東京編 263 »

文化・芸術」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/533861/59373684

この記事へのトラックバック一覧です: 石川啄木伝 東京編 262:

« 石川啄木伝 東京編 261 | トップページ | 石川啄木伝 東京編 263 »