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2014年9月

2014年9月30日 (火)

石川啄木伝 東京編 277

 さて、同じ書簡のなかにこんなくだりがある。
  僕は例の浅草へ行つて寝て来た事があるよ。但しこれは僕が僕自身についての確信を失つた時に限つた事であつた。こゝにまだ一つ未決の問題がある。確信がなくなつた時に一種の自暴気味で行くのでは何だか詰らぬ。自分の生理状態がその要求を感じた時は、何日何時でも平気で行つて来る様でなけれやならんと思つてるが、どういふものか知ら。
 最後のセンテンス、おかしくはないか。妻が同居するようになってすでに24日がすぎている。郁雨はとうに帰った。夫婦の寝室も一往はある。それなのに「生理状態がその要求を感じ」るというのは夫婦間のセックスレスを意味していよう。やはり、妻が夫の要求を拒否しているのだ。
 手紙はさらに金が無い、金が無いと書きまくり、最後に借金を申し込みのための伏線を張りまくっている。そのなかに「一日から出社」の文字が見える。つまり6月いっぱい欠勤して7月1日から出社した、というのだ。郁雨との辛い別れを覚悟しつつ、いやいや上京してきた節子は出勤しない夫を半月間毎日見てくらすことになったのだ。

2014年9月28日 (日)

石川啄木伝 東京編 276

 郁雨は啄木宅を辞して後、盛岡の堀合家に寄り、節子の妹ふき子との縁談を進めた。郁雨は孝子との結婚を希望したらしい。啄木も新婚当時彼女をかわいがり「妹よ(たか子に)」というかなり大きな詩を作って「明星」1905年(明38)7月号に載せている。「君はをさなき妹の、/姉に似たれば、無花果の」と詩中にもあるように孝子は節子によく似ていた。節子の形代を求める郁雨にはうってつけの女性であった。しかし父親の忠操は「順序というものがある」といってふき子との結婚の方を望み、こちらを承諾した 。郁雨は本音を押し殺して忠操の言にしたがった。
 啄木文中の「そんなに気乗りがしなくたつて」はこの間の消息を物語っている。そして節子へのいや増す思慕に悩んでいる郁雨に対して「謂ふ所の失望は女其人に対してゞはない。結婚といふ事実其事に対してだ。」などと能天気なことを言っている。郁雨はふき子との結婚話が進むほどにそして結婚して以後ますます、深刻な沈鬱状態に落ち込む(当時の言葉で言えば強度の神経衰弱といったところか)。ふき子はなんの落ち度もないのに不幸な新婚生活の淵に沈められることになる。

2014年9月26日 (金)

石川啄木伝 東京編 275

 郁雨が帰った後はどうか。19日書簡に見られる夫への嫌悪、7月5日書簡に見られる節子の心身両面にわたる深刻な不調を考えると、節子のセックスの拒否はそのまま続いたと考えられる。それは郁雨への愛の確認でもあり、この1年間の夫の不実特に今も自分と京子を負担視して小言を言う夫への強烈な批判であった。実際こう考えないと次の啄木の書簡が読み解けない。以下は7月9日郁雨宛て書簡の摘録である。 
  盛岡滞在が予定より二日ものびた様だつたね。それなら此方でも少しとめて置くんだつけと後で思つた。敢てヤイた訳でもない。一件は案外手ツ取早くきまりさうとの事。お芽出度う。ナニ君、そんなに気乗りがしなくたつて構はないよ。どうせ世の中に我々をして全力を捧げさせる様な気の利いた事があるものか。結婚だつて同じ事だ。君らの前途はうまく行くだらうよ。あまり気乗りなんかすると、アトの失望も随つて大きいといふものだ。謂ふ所の失望は女其人に対してゞはない。結婚といふ事実其事に対してだ。

2014年9月24日 (水)

石川啄木伝 東京編 274

 こうしたことを十分にふまえておかないと、これから2度勃発する節子の家出騒動の際の啄木の狼狽ぶりと堀合家への異常な警戒は理解できない。節子にはいざとなったら帰るべき実家があったのだ。これを示すのが「ほんとうに盛岡からこなければよかつたと思ふよ。」である。
 そしてこれに続くのは「東京はまつたくいやだ」。6月19日の手紙の「東京はいやだ」に「まつたく」がついている。ここではしかし「いやだ」の重点は文脈上姑にある。
 ところで、6月19日の手紙と7月5日の節子書簡を読むと、ある疑念が生じてくる。啄木夫婦の性生活の問題である。この稿を書き継ぎつつ、このような問題に踏み込むことになろうとはつい最近までわたくしは思わなかった(2012年10月4日現在)。しかしこの問題抜きにしては家族上京の6月からこの年秋の終わりまでの啄木の思想と文学の道筋をたどることはできない。敢えて踏み込む。
 6月16日家族と一緒に上京した宮崎郁雨は1週間位啄木宅に滞在したらしい。もちろん啄木夫妻は真心籠めて歓待したであろう。  
 若い夫婦が1年ぶりで逢ったのならその日から性生活がはじまるのが常態であろう。しかし郁雨の滞在した期間はそれはなっかったであろう。郁雨と啄木が同室で寝たことであろうし、郁雨の同居している時のセックスは節子が拒否したであろうから。

2014年9月22日 (月)

石川啄木伝 東京編 273

 いったんここで切って内容を見てみよう。
 節子の身体の不調はかなり深刻である。函館生活の辛酸が察せられる。夫は上京したての妻に気遣い浅草や銀座に誘うが、「こんなことにだまされてよくなる頭ではない」。どうやら「肋膜炎」らしい 。肋膜炎(胸膜炎)には結核性のものも多い。「私の命も長くあるまひと思ふよ」にはぎくりとする。不吉な言葉だ。
 夫は相変わらず「書く」ことにこだわっているらしく、京子が「あばれるので何も書かれないと云ふてにがい顔ばかりする」と言う。体調不良の節子を助けようとする夫でもないし、姑でもない。自らを不幸と思えば思うほど、反射的に出てくるのは「宮崎の兄さん」だ。郁雨の歌々に詠まれた関係を思えばあまりにも自然なことだが。
 「内のお母さんくらいえじのある人はおそらく天下に二人とあるまいと思ふ」は掛け値なしと思われるが、カツも同様の反論をするかもしれない。
 「ほんとうに盛岡からこなければよかつたと思ふよ。」父親の忠操は士族の出でもあり、子供たちに厳格な人であったが、母トキは(この人も士族の出であるが)「性質は非常におだやかで、……子どもに対しては、何事にもかかわらず物静かに教え」る人であった。忠操との間に三男六女をもうけた。節子は長女で初子であったから「父母はもちろん祖父母、おばたちからもかわいがられた」。
 そのうち年上の三姉妹、節子・ふき子・孝子は非常に仲がよく、互いへの思いやりに満ちていた。母はいざとなったら節子を呼び戻す覚悟ができていたらしいし、妹たちもその時は協力を惜しまぬ気持を持していた。

2014年9月20日 (土)

石川啄木伝 東京編 272

 次に引くのは節子が7月5日付けで盛岡にいる妹ふき子、孝子宛に出した手紙である。摘録する。  
  すまないすまないとは思つて居るけれども、どうも筆を取る気にはなれない、と云ふのは上京以来頭の痛まない日はない。(盛岡でもたいてい痛かつたけれどもまぎれて居たのだ)今はまぎれるものはない。夜になれば浅草とか、銀座通とかに行かうと云ふけれども、決してこんなことにだまされてよくなる頭ではない。其れに盛岡でも御ぜんたべられないと云ふたが今だに一ぜんか少しもまして食べるだけだ。きつとお前たちが見たなら驚くだらうと思ふ。元気はないし、ひどくやせ、かぎりなくねむかつたり、かぎりなく目がさめて、ねむられなかつたりする。多分神経衰弱だらう。こればかりならまだいいが、右の胸が肩からあばらの処まで痛い。これはもう一週間にもならう。一日まして強くなる。呼吸するにもいたい、はじめは夜寝ると痛かつた。少しだから気にもしなかつたが、今はよほどくるしい、なんでも一ね寝て起きると何とも云へない程である。さあそうなると、どうしてもねむれない。し方がなく夜具につつぷして寝る事もある。ああこう云ふふうでいこうものなら、私の命も長くあるまひと思ふよ。……(京子が)あばれるので何も書かれないと云ふてにがい顔ばかりするし、おつ母さんはお二人にお渡し申すつもりで来たからと云ふて少しも見てはくれないし、し方なしに外をつれてだまして居ます。私には少しもひまがない、ほんとうにかみ結ふひまさへ得ることの出来ないあはれな女だ。宮崎の兄さんはよく知つて居る。不幸な女だと云ふて深(ママ)身の同情をよせてくれる。内のお母さんくらいえじのある人はおそらく天下に二人とあるまいと思ふ。……ほんとうに盛岡からこなければよかつたと思ふよ。東京はまつたくいやだ……

2014年9月18日 (木)

石川啄木伝 東京編 271

 郁雨は節子と関係ができてからは、釧路時代から始まる啄木の「放蕩」を節子にあらいざらいしゃべってしまったと思われる。啄木の郁雨宛書簡に特徴的な開放的な内容も、並木武雄らから聞いたここ1年間の生活ぶりも、もちろん浅草の私娼窟通いも。これは節子の背反を強力に助長したことであろう。そして郁雨への愛を強めたであろう。
 郁雨は何日か啄木家に泊まって、帰宅の途についた。途中盛岡によって節子の妹ふきとの縁談を進めた。 
 節子の愛は啄木から郁雨へ完全に移っている。啄木は3人の重荷が「Tsui ni !」同居することになって、”作家生活”の障害だ、と思っている。夫婦間の齟齬は深刻である。そして嫁姑の関係はいっそう深刻であった 。
 6月19日実家の母に出した節子の手紙である。
  東京はいやだ。さびしかるべき夜汽車も兄さんがいらしたので色々お話して夜を明しました海岸線、水戸から先きに故障が出来て小山の方へ廻った為め上野についた時は七時半頃でした、……ほんとうに家に居る時は勝手ばかりしてねーしかし兄さんもたいそう満足して居らっしゃいましたからねー私は深く深く感謝致します……表記の処に参りました理髪所の二階ですが六畳二間でたいそうよい処です家賃は六円ですと。…… くわしくは次便
 冒頭の「東京はいやだ。」はいかにも節子の思いの出た強い筆跡で書かれている。「東京」とはこの場合つづめてしまえば夫啄木のことだ 。「いや」な東京と対照して浮かび出たのが「兄さん」だ。

2014年9月16日 (火)

石川啄木伝 東京編 270

  

 海の風つめたき中にしつかりと握り合ひける手はもつめたし
 親友の妻と夫の親友が手を「しっかりと握り合い」愛を確かめ合う。
  つぎは郁雨が節子と別れ東京から函館に帰ってからの心を詠んだ歌14首のうちから、9首。
 あはれこひし津軽の海のかなたにてわかれ来し人のただに恋しも
 比羅夫丸その名おもへば涙いづ君と乗り行きし船なりしゆゑ

 事情を超えて感動的な相聞である。特に二首目の哀切。
 つぎの三首の欄外には「S」と記してあるという 。
 あなこひし文も書かずてすぐせどもわがこのこころ君をはなれず
 この日頃あひ見ぬひまに老いにたる君かとおもひわれも老いゆく
 目のまへに君の顔見ゆうなだれし君の顔見ゆ声たてて泣く 

 男女の「あひ見」る、は古典の用法では「男女の関係になる」ことを意味する。郁雨の用法については未詳。
 かの時に死なむと言はば君何と答えしけむと泣きつつおもふ
 今一度あひ見ぬかぎりいかでいかで恋死せむやとおもひつめにき

 ここの「あひ見」る、は古典的用法ととらねば、意味をなさないであろう。
  じつとして雨のふる日をおもひゐぬ君と相見し雨のふる日を
   おもしろき海の話を船にゐて共に聞きける君は帰らず

 2首目は一番最初に掲げた「年わかき水夫は」の歌と応じている。
 この2つの歌群にはもう少し節子への相聞があるけれど、これまでにしよう。どの歌も佳い。郁雨の思いが真率だからであろう。ふたりの関係が男と女の関係であることに疑いの余地はないと思われる。

2014年9月14日 (日)

石川啄木伝 東京編 269

 「ローマ字日記」を経た啄木にはもはや「脂汗流して、地獄這いずり廻(まわ)」る余力は無い。この76日間でそれはやり終えた。今後の啄木の行方を見る前に、6月16日の現実にもどろう。
 この日朝、啄木と金田一と岩本は上野駅のプラットホームに宮崎郁雨・母・節子・京子を迎えたのだった。
  
 それよりさらに9日前、節子ら4人は函館を発って、比羅夫丸の船上にあった。比羅夫丸は去年就航したばかりの、最初の青函連絡船である。
 この時を詠んだと推定される郁雨の歌がある。
  年わかき水夫は君とわがために語りつづけき海のはなしを
 「君」はもちろん節子。
  嘆きつつ君とわが立つただ下のキヤビンにありし呪ひの女
 「キヤビン」は船室。郁雨が付き添う旅だからいい船室だったのだろう。そこにいる「呪ひの女」はカツであろう。親友の母を「呪ひの女」とは! カツの「呪ひ」の対象は郁雨・節子の恋だというのであろうか。
  その恋と君をのせける船はなほ津軽の瀬戸を往来すれども
 「往来」はゆききと読むのであろう。
  人住まぬ国に行くべき船ならばうれしからむと嘆きたまひぬ
 夫のもとには行きたくない。あなたと二人だけで暮らせる国に行けるものならば、と節子は嘆く。去年8月27日に手紙を書いた時点と今では二人の関係は次元を異にしている。

2014年9月12日 (金)

石川啄木伝 東京編 268

 「ローマ字日記」のモチーフをもう一度確認しておこう。
 小説が書けないことを思い知らせる日毎の事実がささやく。お前は「天才」ではない、その己が正体を直視せよ、と。この声にだけは従うまいとしてあらん限りの力をふりしぼり、あらん限りのやり方で闘った石川啄木のその心と行動の記録が「ローマ字日記」であった。啄木自身のことばをつかって示すなら、「痛ましき我が姿を白地(あからさま)に見ねばならぬ恐ろしさに、……耳を塞ぎ目を瞑つて逃げ廻つてゐ」た心の記録であった。それは「天才」啄木の断末魔の記録とも要約しうる。
 啄木の文学者・思想家としての生涯の中に位置づけてより総括的に規定するなら、啄木浪漫主義とこれを否定する現実との相克、となろう。「現実」には、小説が書けないという自身内部の現実から、家族という現実そして「国民生活」にいたるあらゆる現実が含まれる。   
 「ローマ字日記」・その作者石川啄木と双璧をなすのは「山月記」・その作者中島敦である。わたくしはこのことを「『山月記』の感動はどこからくるのか――李徴に啄木を代入してみると――」と題して論じたことがある 。
 ここではその小論の最後に引いた井上ひさしの出世作『手鎖心中』の一節によって、啄木の現状を理解したい。
   机の上が血の池地獄で、座る座布団が針の山、おまえにものを書く才などあるものか、と呵々(かか)大笑する閻魔(えんま)の声を頭のどこかで聞きながら、脂汗流して、地獄這いずり廻って、これ以上は自分にはできない、という作を仕上げるほかに、王道(は)……ない。

2014年9月10日 (水)

石川啄木伝 東京編 267

 さて、6月10日の朝、宮崎郁雨と節子の手紙を受けとる。妻と子と宮崎は盛岡に来ているという。
 啄木の感想は「Tsui ni !」である。
 宮崎が送ってくれた15円で、弓町2丁目18番地の新井こう(床屋喜之床)方二階を借りたのである。蓋平館の借金119円余は金田一の保証で、10円の月賦で返済することにする。
  15 nichi no Hi ni Gaiheikwan wo deta.  Nimotsu dake wo karita Uchi ni oki, sono Yo(夜) wa Kindaichikun no Heya ni tomete moratta.  Iyo na Wakare no Kanji wa Hutari no Mune ni atta.  Wakare !
 啄木の才能をもっとも早くに見抜き、信じ、援助を惜しまず、最高の友情を捧げたのは4才年長の金田一京助であった。金田一のいないこの1年間の啄木は考えられない。
 啄木は「別れ!」の一語でなにを言いたかったのであろう。
   16 nichi no Asa, mada Hi no noboranu uchi ni Yo to Kindaichikun to Iwamoto to 3 nin wa Ueno station no Platform ni atta.  Kisha wa 1 jikan okurete tsuita. Tomo(宮崎郁雨), Haha, Tsuma, Ko …………… Kuruma de atarashii Uchi ni tsuita.
 これで「ローマ字日記」は終わる。

2014年9月 8日 (月)

石川啄木伝 東京編 266

さて、20円の行方はどうなったか。岩本の下宿へ行って清水のと2人分13円を払ってやる。それから岩本と浅草に行き活動写真を見て西洋料理を食って、岩本に1円小遣いを与えて別れる。それから若い子供らしい女と寝て、つぎに例の小奴に似た花子と寝る。(Naze ka kono Onna to neru to tanoshii. これが啄木最後の浅草の夜となる。)雑誌5~6冊買って下宿にもどったときは、残金40銭。5月13日までのような痛切さや緊張はない。虚脱感または倦怠感のただよう記述である。
 日記としての日記は事実上この6月1日で終わる。啄木にはもう日記を綴るエネルギーがない。
 ローマ字日記の最後は
       HATSUKA KAN.
   (TOKOYA NO NIKAI NI UTSURU NO KI.)
                         HONGO YUMIICHO 2 CHOME
                                 18 BANCHI ARAI(KINOTOKO)KATA

と題する短い記録である。6月16日朝までのことをまとめて書いてあるが、それでは「二十日間」にはならない。上記住所に引っ越したのは6月16日である。表題の下にこの住所が書き込まれているということは、この記録を新井こう(床屋喜之床)方の二階で書いていることを示す。
 とするならば、啄木は6月の21日ころに6月2日からの20日分をまとめて記録しようとし、16日朝のことまで記して記入を打ちきったのであろう。
   Kami ga bobo to shite, mabara na Hige mo nagaku nari, Ware-nagara iya ni aru hodo yatsureta.  Jochu wa Haibyo-yami no yo da to itta.  Gezai wo mochii sugite yowatta Karada wo 10 ka no Asa made 3 jo-han ni yokotaete ita.  Kako to yu Ki wa do shite mo okoranakatta. Ga, Kindaicui kun to Giron shita no ga En ni natte, iro-iro Bungaku jo no Kangae wo matomeru koto ga dekita.
 精神だけではない、身体の方もまた衰弱しきっている。まるで幽鬼のようである。それでもまだ「書こうという気はどうしても起こらなかった」と記す。6月1日に雑誌を5~6冊買っていることを考えあわせるなら、啄木はまだ「小説」と「天才」に執着している!
 われわれは昨年5月以来の悪戦苦闘を延々と見てきた。ローマ字日記は悪戦の極みであった。啄木にとっては天才意識がいかに抜き去りがたいものであるか、われわれはほとんどあきれてしまうほどである。しかし啄木の頑強強靱な闘いに深い感動をも抱いてしまう。

2014年9月 7日 (日)

9月8日からブログを再開します

長らく休んでいた「石川啄木伝 東京編」。つづきを9月8日から再開します。一旦サボることを覚えると、その楽さ加減に沈淪。すでに5カ月が過ぎました。昨日国際啄木学会東京支部会のあと、支部長の河野有時さんから、「中断はまだ続きますか、時々再開したかどうか確認しています」とのお言葉。恐縮して再開を約束しました。

この5カ月間は去年6月から始めた『最後の剣聖 羽賀凖一』の執筆に没頭。約23万字の原稿になりました。今はこれに手を入れ、刈り込みをし、仕上げに近づいています。こちらの仕事に没頭しながら、いつも思うのは『石川啄木伝』のこと(明治43年3月まで書きました)。残された自分の研究者寿命と「石川啄木伝」の仕上げまでの時間と、とんとんであればいいのですが、間に合わなければ万事休す。ほんとうに焦りながらの日々です。こうして書いている内にも時間が飛んで行きます。加齢とともに1日に使える有効時間は減少の一途。

それではまたこのブログご訪問下さい。できればコメントかTweetでお言葉をください。

                        近藤典彦

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