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2014年10月

2014年10月30日 (木)

石川啄木伝 東京編 292

 7月1日からは会社勤めをはじめた(あたりまえだが)。その日の東京朝日新聞には夏目漱石の新連載小説「それから」の第5回目が載っていた。その校正は以後啄木が主として担当することになったであろう。漱石の原稿には独特の癖があり、これを読み・校正するには啄木が最適だったであろうから。
  連載が進むにつれて啄木は妙な気になったに違いない。主人公代助、親友平岡とその妻三千代。代助は三年前三千代を愛していたのに自分の心を偽って平岡との結婚を周旋した。平岡は新妻の三千代を伴って地方の銀行に就職し新婚生活をそちらで送った。平岡はそこでの生活に失敗し、夫婦は東京に戻ってきた。平岡は荒んでいた。上京しても就職口はなかなか見つからず、外に酒と女を求め、妻にはつらく当たり、生活費もろくに渡さなかった(なんだか啄木と節子に似てきた)。代助の三千代への同情は愛に変わりはじめ、三千代も代助への愛を復活させてゆく(節子と郁雨に似てきた)。
 啄木はおそらく平岡に自分を見ていたに違いない。それは夫としての自分の反省を促したはずである。また節子・郁雨への疑惑が重なってくるのをもてあましたことであろう。

2014年10月28日 (火)

石川啄木伝 東京編 291

 批判は郁雨が東京を発ったと思われる6月の下旬からはじまった。いやすでに函館にいる時にはじまっていた。節子の夫へ愛と信頼は失せ、それは郁雨に移ってしまったのだから。この責任が啄木にあることはすでに見た。啄木にとって致命的な批判がひそかに行われていたのだ。
 そして郁雨の離京後の7月9日現在も節子は夫の性的要求拒否の形で「批判」しているらしいこともすで見た。節子は身心の不調を理由に拒否したのであろうが、その裏側には郁雨への愛と「貞節」が動いていた。これがあるから夫の要求に対する拒否には生理的な拒否感覚が伴っていたと思われる。
 啄木はたじろぎ、不審をおぼえ、怒り、金さえあれば浅草で女を買おうとさえした。「ローマ字日記」の啄木と同じである。
 しかし、妻の強い思いがけない「批判」は、啄木に自己批判を促さずにはいなかった。俊敏な啄木である。妻の「批判」が自分の何に向けられているかは具体的に分かって行った。生業(会社勤め)の軽視・家族扶養義務の軽視はすぐに思い当たっであろう。結婚以前からそのことで節子にどれだけ辛い思いをさせてきたことか。啄木自身この4月15日「ローマ字日記」に書いた。「節子はまことに善良な女だ。世界のどこにあんな善良な、やさしい、そしてしっかりした女があるか?」と。また書いた「人の妻として世に節子ほどかあいそうな境遇にいるものがあろうか !?」と。

2014年10月26日 (日)

石川啄木伝 東京編 290

 さて、その啄木はこうした父親譲りの弱点を「ローマ字日記」以後の7月9日現在でも克服できていないのである。
 今後いかにして、肉を抉るような激痛に耐え、魂の変革を為し遂げるのであろうか。そこにはどんな力がはたらくのであろうか。
 啄木は「ローマ字日記」にみたように凄惨なまでの悪戦苦闘をおこなったのであった。それでも自己変革すなわち自己の直視ができないでいる。だれかが何かが啄木を根底から批判しなければ、啄木は変われない。批判はその金銭感覚・生業(会社勤め)の軽視・家族扶養義務の軽視・「天才」意識に向けられねばならない。啄木のこれらの根源的弱点を批判できるのはだれか。妻節子しかいない。
 節子の上京以後4か月にわたる批判とそれによって変革されて行く啄木とを見て行こう。

2014年10月24日 (金)

石川啄木伝 東京編 289

 息子は父よりはるかに純真で、本気の浪漫主義者・天才主義者だった。われわれは天才主義を貫き、実現するために、健闘する啄木を見た。それは日本社会の現実に圧迫されて次第に滑稽な事態を生み出しもした。そして天才主義は現実の前に崩落した。しかし啄木は一禎と同じく天才主義を説き論じていたとき主義と自分との乖離を見ようとしなかった。主義が事実上消滅した今も、ありたい自分と現実の自分の乖離をどうしても直視できない。そこで一禎と同様の仕方で、「天才」という「ロマンチツクの影」(08年4月21日大島流人宛)の後ろに隠れる。こうして自己を欺き人を欺く。そのもっとも生々しい様をわれわれは「ローマ字日記」で見たばかりである。
 啄木が直視できないのは自己だけではない。「国民生活」も直視できない。「国民生活」の諸側面のうち自分と関係ないものについては論じる。小樽日報の三面記事も、釧路新聞のすぐれた諸論説も振り返ってみると「国民生活」を書いたもの、と言える。最近では「国民生活」ということを意識して「胃弱通信」(岩手日報)を書いた。しかし啄木は「国民生活」の深刻な事象の直視を恐れている。それと自分の人生とを結んで考えることを避けているのである。もしも結んで考えるならば、自分は「国民生活」に責任を負わなければならないと考えるからである。06年(明39)3月渋民村に再移住したとき、社会主義者の電車賃値上げ反対の闘いに刺激を受け、社会主義思想に惹かれた。啄木はこれに引き込まれまいと、3000字を費やして社会主義を否定し、「一元二面観」に拠ったのをわれわれは見ている。同様の弱みを啄木は今もかかえている。

2014年10月22日 (水)

石川啄木伝 東京編 288

 五つ目、責任と直視の回避
 僧一禎は本山に納めるべき宗費を流用した。そして住職を罷免された。しかもその113円を弁償できないままに、啄木の提案にしたがって復職運動を始めた。復職の基本条件は113円の宗費をまず納めることであろう。そんな金の入りどころは無い。それでも復職運動をしたということは、自分が流用した金を檀信徒にふたたび出してもらおうという魂胆であるとしか考えられない。前住職としての責任の念がまったく感じられない。郁雨のいう「寺育ちという特殊な生態の生んだ自助心の希薄」である。
 責任感の希薄は、自己省察の希薄と表裏をなす。僧としての一禎は檀信徒の生活用心として修証義の内容を説いているのである。説教と自身の所行の乖離はあまりにはなはだしい。しかもその乖離を誠実に直視するならば、説法などできないはずのものである。一禎は自己の真実を直視できないし、しない人であった。しかし檀信徒の前でありがたい教えをもっともらしく、おそらくとても上手に、説く人であった。こうして自分自身の本質をありがたい教えの陰に隠すのである。

2014年10月20日 (月)

石川啄木伝 東京編 287

 四つ目、人間観。
 寒村の寺の僧一禎にとって最も重要かつ恒常的な人間関係は当然檀信徒との関係であった。きわめて俗な一禎であったが頭がよく、仏教・曹洞宗・高祖道元等に関しても知識があり、檀信徒に対してある種の権威を帯びて振る舞う立場にあった。僧一禎にとって檀信徒=「人間」はいわば教化の対象なのであった。
 啄木の高踏的な立場、「人間」を教化の対象と考える観念の祖型は無意識のうちに一禎の影響下に形作られたと見られる。高山樗牛の「文明思想家としての文学者」を全身全霊で受け止めたのもこの素地があったからなのである。見てきた様に啄木のこれまでの人間観は高踏的・エリート的であった。だから自然主義は受け入れきれなかったのだ。自然主義以外の立場を求めたにしても、元の立場(自己賛美の垂れ流し)にもどるか、「天鵞絨」のように絵空事に流れるか、どのみち小説は書けないのである。

2014年10月18日 (土)

石川啄木伝 東京編 286

 三つ目、家族扶養義務の軽視。
 これは生業(会社勤め)軽視の必然の結果である。両親のもっていた少々の家財は新婚早々居食いした。あとは生業に就くしかない。なのに生業を軽視するのであるから、妻そして母の苦しみは大変である。苦労のさまは本稿でもその片鱗を見た。小説が書けなければ書けないほど家族は重荷となり、厄介者となる。それだけ無責任にさえなる。これも「ローマ字日記」でつぶさに見た。啄木の家族扶養義務の軽視は、さかのぼると生業・労働を生活圏外のこととみなした一禎に行き着く。

2014年10月16日 (木)

石川啄木伝 東京編 285

 二つ目、生業(会社勤め)の軽視 。
 出家が「一般の社会生活とくに経済生活とは完全に無縁になる」ことはブッダの時代以来の戒律であるが 、これはもちろん道元にも引き継がれている。「学道の人衣糧(えりやう)を煩ふこと莫れ。只仏制を守(まもり)て、世事(せじ)を営むこと莫れ」と。また言う。木の実・草の実・托鉢による食物・信者の寄せる布施物は「皆是れ清浄食(しやうじやうじき)なり。其の余の田商士工の四種の食(じき)は、皆不浄の邪命食なり。出家の食分にあらず。」と。「田商士工」は農・商・武士・工匠の四民である。出家がこれらの経済活動をして得た「食(じき)は、皆不浄の邪命食」であって、出家の食分ではない、と。
 一禎はかれ流にこの教えを守った。しかしそれは「学道」のためではなかった。生活の糧を得る方法として農耕その他の労働あるいは職務に従事することを回避する理由としてこれを守ったのである。啄木や光子の父の思い出には掃除や草むしりをする父さえ出てこない。本を読んでいるか、和歌を作っているか、来客を接待しているか、庫裏で家族と過ごしているか。
 その子の一が幼少期に早くも白沢スワに「あねえつこ、俺は筆で飯を食ってみせる」と、言ったのだった(本稿その1)。結婚後も働こうとせず、「思索」ばかりしていたことは小説断片「連想」で本人も認めるごとくであり、ようやく渋民小学校の代用教員になったのは、父母の扶養義務を振り落とすためであった。そして騒ぎを起こして、クビに。函館では腰の定まらぬ就職をしているうち大火に遭い、小樽では渋民同様騒ぎを起こして退職そして無収入に、釧路では働かずにものを書く生活一本に絞りたくて(東京病)、仕事に嫌気がさし、とうとう逃げ出した。そして念願の働かずにものを書く生活に入った。
 これらは一禎の感化があまりに深く魂にしみこんだ結果である。

2014年10月14日 (火)

石川啄木伝 東京編 284

 (郁雨は)またこうも書いている 。
  次々と借金を重ねて行った彼の無反省的行動の裏には、実際には必須の事情が伏在したのだけれども、こうした彼の処世観念と、寺育ちという特殊な生態の生んだ自助心の希薄とが大きく影響して居たのではあるまいか。
 郁雨は一禎的金銭感覚が啄木の「根強い特殊の性格」になったこと、「借金」もその一環であったこと、それどころか啄木天才主義(「啄木の生活観念」「自助心の希薄」)の根柢にも「寺育ちという特殊な生態」を観ていたことは特筆に値する。きわめて貴重な指摘である。ただ、啄木のために弁護するなら、啄木は全借金の返却を真面目に考えていたのであった。いわゆる「借金メモ」こそその最良の証拠である。金田一京助は啄木の「借金」返済への思いに深い理解を示している 。この点では父一禎の金銭感覚とはまったく異なる。ここには母カツの影響を見なければなるまい。

2014年10月12日 (日)

石川啄木伝 東京編 283

 一つ目、金銭感覚。
 一切が空なのだから、布施もまた空である。一禎とその家族の経済的基礎は布施である。その布施を受けとることにはなんの負い目も感じなかった。そして受けとった布施は「空」なのだから、これに執着(しゆうじやく)してはならないのである 。道元も言う。「仏の言(のたまは)く、衣鉢(えはつ)の外は寸分も貯へざれ、……設(たと)ひ受け来るとも寸分も貯ふべからず」と 。
 だから一禎は金を持つと後先構わず遣う人であった。 。
 その上一禎の足跡(大仙院→常光寺→宝徳寺)には宗費滞納・流用・横領等の金銭にまつわる悪しき風聞がつきまとう 。
 こんな一禎の金銭感覚を石川一は幼少期からたっぷり吸い込んで育ったのである。啄木の代名詞ともいうべき借金も同じ土壌から生え育ったのである。啄木にもっとも多額の金銭的援助をしたのは言うまでもなく宮崎郁雨であるが、その郁雨が書いている 。
   私は少年の頃に聞き知った「坊主に金貸せあ家鴨に卵。かえす心はさらに無い」という俗謡を、今も覚えて居る。これはその時代の寺門の人達の貸借観念の超越ぶりを諷歎したものであったろうが、啄木の生活観念の何処かにそれと一脈相通のものがある様に私は観察して居た。私は彼の天分に対してもそうであるが、彼のお寺という環境によて育成された(と考えられる)根強い特殊の性格に対しても惜しみなく驚嘆する。

2014年10月10日 (金)

石川啄木伝 東京編 282

 一禎という人は数え年五つ(満でいえば三つか四つ)で母から離され寺に預けられたのであった。そして1905年(明38)3月2日宝徳寺を退去するまでの約50年間は、僧侶としての生活がすべてであった(常光寺住職と兼任で公立日戸小学校教員をしていたことなどもあったが)。したがってその生活感覚は寺の生活から生じ、寺の生活によって育てられた。一禎という人の一生を通観すると、高潔な僧になろうなどという志は無く、僧であることは生きる手段であった。だから妻帯し、子をなし、酒を好み、文学ことに和歌を愛好した。性的にも野放図なところがあった。息子が極めて優秀であったので、僧侶にすることはまったく考えず、その立身出世に賭けた。それは曹洞宗の本山から神童の息子に乗り換えることであった。この結果が宗費滞納・息子の学費への流用である。
 一禎はこういう人(はっきり言えば生臭坊主)であったから、般若心経も道元の教えも自分に都合よく解釈して、恬としていられた。以下はその体現ぶりである。

2014年10月 8日 (水)

石川啄木伝 東京編 281

 7月9日現在の石川啄木はローマ字日記の時と何も変わっていない 。金銭感覚・生業(会社勤め)の軽視・家族扶養義務の軽視・「天才」意識。
わたくしは旧著『国家を撃つ者 石川啄木』第二章において、これらを「自己の生活様式として習慣化した天才主義の名残り、別言すれば啄木の精神の底に沈殿した天才主義の滓(おり)」と規定したのだった 。
 今はもっと根深い、もっと本源的なものだと思うようになった。それは幼少年期に魂の一部を形成してしまい、今になって取り除こうとすれば、肉を抉るような激痛を伴う。それは父一禎の感化だった。

2014年10月 6日 (月)

石川啄木伝 東京編 280

 時間さえあれば金になる小説が書けるのだが、今月は間に合わなかったと言わんばかりだ。大嘘だ。ついさっきの文でも「書けぬ」と言っているではないか。『あこがれ』出版頃までの「信念」に基づいて借りていた昂然とした心の姿はまったくない。郁雨の啄木の才能への信頼と寛容な性質とにつけ込んでウソをついてでも金を恵んでもらおうとする。さもしい根性が透けている。
 そしていよいよ手紙を最初から狙っていたツボに落とす。
  今二十円あると今月はそれで済む。来月からはその月の月給でどうやらゴマカシテ行けるのだ。かう面(ツラ)の皮が厚くなつては誠に自分で自分に恥かしいが、これを最後のお頼みに叶へて貰へまいか。何しろ何から何まで現金買ひなんだから仕末が悪い。
 「恥かしい」「お頼み」にはおまけが付く。
  今までの様子で行くと人間が食ふだけにはサツパリかゝらぬもんだ。人を一人や二人とめて置いても三円か四円しか違はぬよ。屹度。兎も角八月は岩崎君をよこすべしだ。そのうちに君フアザーへ素的に念を入れた礼状をあげようと思つてる。
 さんざん持ってまわって、金が無いので20円恵んでくれと言い、その言葉の下から「人を一人や二人とめて置いても三円か四円しか違はぬよ」だから岩崎正を上京させろとは、どんな神経をして言っているのか。常人の感覚ではない。
 さらに末文の嫌みはどうだ。相手によっては、潜んでいる「天才」意識がその嫌らしい(この期に及んでは嫌らしい)顔を見せる。

2014年10月 4日 (土)

石川啄木伝 東京編 279

 手紙はさらにわるいことを書き連ねる。右のつづきである。
 一昨晩だつたか、母と妻に散々小言を言つて見たが、それでも不愉快が消えツこはない。十時頃フイと飛出したが、浅草に行くにしても宿屋へとまるにしても金がない。こんな時金のないのが一番癪に障るよ。そして回数券だけはあるから一時間半許りアテなしに電車に乗つて方々廻つて歩いた。しまひに日比谷公園へ行つて、雨の降る真暗な中で小便して来た。今から書いたところで今月は間にあはぬ。
 「浅草」の2文字は時間が10時を過ぎているのだから、塔下苑のことだ。金があったら、また女を買うつもりだったのだ(これも夫婦仲の現在を示唆している)。しかし金がなかったので、買えなかった。そこでこの事情を金を恵んでもらうための口実に使おうとしている。伏線の最後はこうだ。「今から書いたところで今月は間にあはぬ。」

2014年10月 2日 (木)

石川啄木伝 東京編 278

 半月何をしていたのか。郁雨の接待であろう。郁雨が帰った後は。同じ七月九日の手紙が語っている。
  それで僕の仕事の方はどうかと言ふと、書けぬ。毎晩書かう書かうと思つてるが書けぬ。
 
なぜ書けぬか。
 われわれは理由をいやと言うほど知っている。ローマ字日記がいやと言うほど語っていた。それなのに啄木はこう言って自らを欺き、妻と郁雨をも欺く。
  下宿になれぬせいだらう。京子には手こずつてる。そしてそれ、御存知の通り感情の融和のちつとも無い家庭なんだからね。
 書けないのは、下宿のせいだ(赤心館でも蓋平館でも書けなかったくせに)、京子のせいだ(自分はその父親だろう)、母と妻の仲がわるいからだ(その主な責任は函館に1年間も放っておいた自分にあるだろう)。
 選りに選って決して言ってはいけない相手に向かってあぶない事をしゃべっている。郁雨はますます啄木に批判的になり、節子に同情し恋慕の情を強めるだろう。ふき子への愛情はいっそう湧きにくくなるだろう。

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