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2014年11月

2014年11月30日 (日)

石川啄木伝 東京編 307

 啄木小説に特有の冗長さは消え、構想はよく練られていて、緻密である。「五十銭銀貨」という仕掛けには啄木らしい機知が閃いている。その上この「五十銭銀貨」には啄木の金銭感覚の変化・その日常生活への接近が見られる。
 どうやら啄木は小説書きの骨法を会得したようである。
 7月5日の書簡から「葉書」執筆まで、その間は2か月半くらいであろうか。啄木は変わった。
 函館で修復不可能になった節子とカツつまり嫁姑の確執も啄木には自己批判のテコの一つではあったであろう。
 扶養家族のいる日常生活も生業の大切さを学ばせたであろう。東京朝日新聞社には池辺三山・佐藤北江・渋川玄耳・杉村楚人冠・弓削田精一等々すぐれた先輩記者はいくらでもいる。今の「作家啄木」など足下にも及ばない大作家夏目漱石も朝日の社員だ。田舎の新聞にいたときのように鳥無き里の蝙蝠でいられる余地はない。
 かくて、節子の「批判」と相まって、さまざまな要因が働き、父一禎由来の弱点を克服していったのだと思われる。

2014年11月28日 (金)

石川啄木伝 東京編 306

 「汗に濡れつゝ(九)」で「人生の真面目」=「国民生活」を直視できないと、嘆いていたが、こちらはどうか。「人生の真面目」を総体的に直視することはできないながら、小説に「人生の真面目」=「国民生活」の一部を意識して取り入れることには成功している。
 こうして、この小説の作者の中でついに革命が起きたようである。
 主人公甲田は「天才」とは縁もゆかりも無い。もし「天才」石川啄木の分身新田耕助が「葉書」で甲田になったのだとすれば、啄木は完全に自己を他者化し、戯画化したことになる。「卓上一枝」で「ライフイリユージヨン(生活幻像)」の「剥落」にたじろぎ、「どうにか成る」「成る様に成る」という「自然派の小説を読む毎に一種の不安を」感じていた啄木が、甲田をまさに自然主義的人間像に仕立て上げたのだ。
 甲田以外の登場人物も甲田に応じて、まったく普通の人間である。すでに見た様に校長・此木田と合わせて見事なまでの田舎教師である。紅一点福富が若さと新しさとかしこさをそれなりに見せてアクセントになっている。これも女性の近代的職業の担い手としての女教師の現実的姿であろう。高橋次郎吉は、「雲は天才である」の石本俊吉が「浪漫的(ロマンチツク)」で塗り固められていたのに対し、それらすべてが剥ぎ取られている。甲田と好一対のキャラクターとなっている。
 花袋や白鳥の影響をさきに指摘したが、啄木ははじめて自然主義を本格的に摂取でき、自然主義の作家になりきれた、と言えよう。

2014年11月26日 (水)

石川啄木伝 東京編 305

 20世紀初めの東北の田舎小学校を舞台とし、主な登場人物は教師4人と乞食中学生。
二つの小道具が光る。「五十銭」という仕掛け。この仕掛けが書かせた「葉書」。「葉書」をめぐって成立した小心理劇。この小説はこのように捉えることができよう。

 「葉書」に見られる石川啄木の自己変革を確認しておきたい。
 「雲は天才である」と同じ構図の小説であるのに、共通点はなきに等しい。
 あの作品のタイトルの意味は「雲(=天上の住人=詩人=我が輩)は天才である」なのであった。「葉書」ではその天才意識と天才主義がまったく消えている。微塵も無い。「汗に濡れつゝ(八)」ではまだこだわっていた「浪漫的(ロマンチツク)」はフィクションの形ではあれ、ついに投げ捨てられたのだ。フィクション=小説の形でさえ、そぎ落とすのに七転八倒する啄木をわれわれはいやと言うほど見てきた。それがかくも淡々と為されたことにむしろ驚きを禁じえない。

2014年11月24日 (月)

石川啄木伝 東京編 304

 こうして高橋は甲田をだましたことになり、そのため「葉書」にうそを書くはめになった。そして「葉書」のうそがばれ、甲田は二重に「訛(だま)され」たことになった。田舎小学校の職員室の日常に「葉書」をめぐって話の花が咲いた。
 「葉書」をめぐる議論では甲田は結局、老訓導の此木田の意見と「好人物(おひとよし)」校長の意見とを合わせて認めざるをえないのだった。
 「乞食してゐて五十銭も貰つた」ために生じた高橋の心は、夏目漱石の言う「思ひがけぬ心」(「人生」など)に通じている。
 しかし甲田自身は高橋という乞食に同情したこと、嫌悪も感じたこと、その両方の気持から「五十銭」を与えたこと、その結果高橋を嘘つきにしてしまい、「葉書」に至ったのだということを、明確には自覚していない。自分の複雑な心理は忘れ、此木田と校長の意見になんとなく同調してしまうのである。

2014年11月23日 (日)

石川啄木伝 東京編 303

 「甲田は卓の上の葉書を見て、成程あの旅の学生に金を呉れてやつたのは詰らなかつたと思つた。そして、呉れるにしても五十銭は奮発し過ぎたと思つた。」(甲田の結論は此木田の意見+校長の意見である。)
 甲田・高橋の関係を回転させたのは「五十銭銀貨一枚」である。これをもらうまでの高橋はなにもうそを言っていない。したがって甲田もなにも「訛(だま)され」ていない。
 「五十銭」が高橋の気持ちを突然変えてしまったのである。「五十銭」が十銭か二十銭であったなら、高橋は無理をしてあと五里(約二〇キロ)を歩いたであろう。しかしこれまでの四日は道中にある社(やしろ)に泊まっては旅をつづけたのだ。すでに百三十~百四十キロは歩いていようか。
 「五十銭」を握った高橋は歩く気力が萎えてしまい、「日の暮れるまで何処かで寝てゐて、日が暮れてから密(そつ)と帰つて来て」村の木賃宿に泊まったのだろう(福富の推理)。

2014年11月20日 (木)

石川啄木伝 東京編 302

 ところが、乞食は渋民の木賃宿に泊まり、翌朝盛岡に向かったのだった。福富はそれを見て、甲田に知らせる。甲田は「俺は訛(だま)された」と思う。
 その次の29日、高橋次郎吉という差出人から甲田に葉書が届く。
  My dear Sir, 閣下の厚情万謝々々。……御恩は永久に忘れ不申候。昨日御別れ致候後、途中腹痛にて困難を極め、午後十一時漸く当市に無事安着仕候。……末筆ながら I wish you a happy.
     六月二十八日午前六時〇〇市出発に臨みて。

 この「葉書」をめぐって放課後の職員室は話にちょっとした花が咲く。
 此木田は「乞食してゐて五十銭も貰つたら、俺だつて歩くのが可厭(いや)になりますよ」(甲田さんは)「態々(わざわざ)人から借りて呉れてやつて訛(だま)され」たのだと言う。
 甲田はムシャクシャして反論しようとするが、「徒らに目を輝かし、眉をぴりぴりさ」すばかり。
 校長も此木田に応じて「呉れるにしても五十銭は少し余計でしたな」と言う。
 福富はあとで「年老(と)つた人は同情がありませんね」と言って笑い、オルガンのある部屋に賛美歌を歌いにゆく。

2014年11月18日 (火)

石川啄木伝 東京編 301

 福富は師範学校出のクリスチャンで「角張つた顔をした、色の浅黒い」平凡な女教師で
あるが、自立した判断力もありそれなりに魅力的な近代女性である。
 6月27日の放課後、片方の目が小さい、年は20歳くらいの乞食が学校に立ち寄り、休ませてほしいと言う。甲田は小使い室で休ませ話を聞いてやる。
 乞食は××(弘前)中学の3年生で、家庭の事情で茨城の郷里へ、乞食をしながら歩いて帰るところだという。
 甲田は乞食の話を聞きながら「噓を言つてるのではない」(この言葉は2度出てくる)と思う。同情もするが、甲田を同輩扱いする態度や甲田のたばこをむさぼり吸う様子に嫌悪も感じる。
 乞食は今日中に〇〇(盛岡)市まで歩いて行くという。そして今1円持っているがこれは郷里までなるべく使わないようにしたい。「いくらか僕に金を貸してくれませんか?」という。
甲田は「金さえ呉れゝば此奴(こいつ)が帰ると思ふと、うれしいやうな気がし」て、福富から五十銭銀貨を一枚借り、くれてやる。
 乞食中学生は甲田の名前を書きとめて盛岡に向かう。甲田の話を聞いた福富は乞食の後ろ姿をみて「気の毒な人ですねえ。」と言う。

2014年11月16日 (日)

石川啄木伝 東京編 300

 甲田はつぎのような男として描かれる。「何かの拍子で人と争はねばならぬ事が起つても、直ぐ、一心になるのが莫迦(ばか)臭いやうな気がして、笑はなくても可(い)い時に笑つたり、不意に自分の論理を抛出して対手を笑わせたりする。滅多に熱心になることがない。そして、十に一つ我知らず熱心になると、太い眉をぴりぴりさせる。」 正宗白鳥の小説に出てきそうな主人公である。
 こうした甲田像には、無気力で退嬰的な田舎教師を生み出す地方農村部教育界の弛緩したあり様への批判が裏打ちされている。2か月後に書いた「百回通信 二十六」(岩手日報 明42.11.11)の次の一節がこれを示す。
   少壮有為なる青年にして一度師範学校を出で、職に村閭(そんりょ)に赴くに及びて、一年経ち二年経つうちには何時しか曩日(なうじつ)の元気を失ひて、授業半ばに生欠伸も仕かねまじき人間となる。斯くの如きは吾人の随所に見る所、而して其然る所以は実に小学校教育其物の単調にして平凡、毎日同じ様な煩瑣な事を繰返すものたるに由る。……加ふるに俸給は安くして生活難は日に日に昂まり来る。心ある者は去つて他の職業を求め、然らざる者、若しくは事情の許さゞる者は、有耶無耶(うやむや)の間に三年五年を過して遂に一生有耶無耶に終る。
 甲田造型の背後だけにでもこれだけの「国民生活(ナシヨナルライフ)」批判があることは刮目してよい。

2014年11月14日 (金)

石川啄木伝 東京編 299

 「欠席児童の督促」というのは、疲弊した農民たちがわが子を子守りなどの仕事に使うために欠席させるので、出校させるよう教師たちが「督促」してまわるのである。
 たとえば福富の組の子どもの出席率は6割2分である。実に4割ちかい欠席児童である。郡長が郡視学を通じて出席率向上を厳しく督促してくる。教師たちは督促にまわるとともに改善できぬ分は秘かにごまかして「月末報告」する。校長も内緒でその「秘訣」を大いに実行している。
 作者はこうして「足跡」の場合同様、国民皆教育の実像と農民の疲弊をもたくみにえがいてゆく 。
 農村部の郡長・郡視学・校長の低俗さとそれに見合った三者の関係もえぐる。
 数え年22歳の甲田の性欲がさりげなく描かれ、23歳の福富の生理休暇が話題になる職員室の雰囲気、甲田の福富への関心ぶり等が織りなして田舎教師たちの日常が浮き彫りされて行く。
 こうした描写について上田博は、田山花袋の『生』等で実行されている「平面描写論」の影響をうけていると指摘しているが 、その通りであろう。

2014年11月12日 (水)

石川啄木伝 東京編 298

 9月に行こう。この月は小説「葉書」を書いた。中旬前後の執筆と考えられる。
作品内の時間は1906年(明39)6月末、場所は「××村(渋民村)の小学校」。
 最初の小説「雲は天才である」と同じ舞台・ほぼ同じ時期・ほぼ同じモデルを扱っている。
 主な登場人物(かっこ内は「雲は天才である」の人物)は代用教員甲田(代用教員新田耕助)、女教員福富(女教師山本孝子)、田辺校長(田島校長)、此木田老訓導(古山首座訓導)。これに乞食の中学生高橋次郎吉(にわか乞食の石本俊吉)。
 明治39年頃の田舎の小学校の教員室が内容豊かに描かれて行く。これは東北だけではなく日本の田舎の小学校の様子であったろう。
 職場の小学校で「常宿直」を買って出て5円の生活費を倹約する校長。その宿直を臨時に頼まれたときはきっと用事のできる老訓導。6月27日校長が「欠席児童の督促に出掛ける」と言うと、訓導は「家の春蚕(はるこ)が今朝から上蔟しかけてゐると言つてさつさと帰り仕度を」する。かれも蚕を飼うなど副業を営んでいるのだ。代用教員甲田の生活は推して知るべし。
 という風に田舎教師たちの生活ぶりを巧みに浮かび上がらせる。
 

2014年11月10日 (月)

石川啄木伝 東京編 297

 8月の啄木を知るための資料はほとんど無い。13日に書いた平山良子(良太郎)宛書簡が1通と、東京毎日新聞8月31日に載った「氷屋の旗」があるのみである。
 書簡の方は事務連絡に過ぎないので、役に立たない。「氷屋の旗」は執筆が7月の下旬(「汗に濡れつゝ」と同時期)とみなされるので 、8月の啄木を知るための資料とはなりえない。
 しかしこういうことは言えるであろう。7月下旬に始まった啄木の自己批判は8月にも確実に進行したであろう、と。
 啄木にその自己批判を迫ったのが節子の側からの「批判」であろう事はすでに見た。ただ、その「批判」は単にセックスの拒否いう形のみにはに留まらなかったであろう。
 結婚以来、夫は生業を軽んじ、自分一身のみならず家族を養うのにさえ人の懐(借金)を当てにして来た、家族はそのために貧苦と流浪にあえいだ来た、夫の「天才」を信じてきたけれど今は「ゲザ」のたぐいではないか疑っている、もううまい言葉はいらない、家族のことを考えているのなら行動で示して欲しい等々と。
 こういったたぐいの批判がまとまった形であるいは折に触れて、きびしくなされたと思われる。「聴く耳」のできてきた啄木には骨身にしみたはずである。

2014年11月 8日 (土)

石川啄木伝 東京編 296

 このように変わりつつある啄木に青天の霹靂に近い事件が起きた。7月28日森鴎外の「ヰタ・セクスアリス」を掲載した「スバル」7月号が発売禁止になったのである。当時森鴎外は陸軍軍医総監でもあったのだが。「スバル」の「編輯兼発行人」は「石川一」である。啄木のところへも官憲がやってきて発禁を告げたはずである 。「スバル」の出資者であり頼りになる弁護士でもある平出修は高知に行っていて不在であった。啄木は鴎外と連絡を取って、問題を処理したのであろう。  
 自分とは無縁にしておきたかった「国民生活」の一面を「面相(おもてあい)接して直視」せざるを得なくなった。不可避の課題は向こうからやってきた。事件は啄木に個人と国家の関係を深く考えさせることになる。
 7月29日、連載中の「それから」で漱石は有名な日本と日本人批判をおこなう。
  (日本人の)精神の困憊(こんぱい)と身体(しんたい)の衰弱とは不幸にして伴つてゐる。のみならず、道徳の敗退も一所(しよ)に来てゐる。日本(にほん)国中何処を見渡したつて、輝いてる断面は一寸四方も無いぢやないか。悉(ことごと)く暗黒(あんこく)だ。
 漱石による「国民生活」の「真面目」な批判は峻烈であるが、啄木はこれを深いところで摂取しつつある。1年後の「時代閉塞の現状」認識は「それから」抜きには考えられない。

2014年11月 6日 (木)

石川啄木伝 東京編 295

 つづけて言う。「天地人生に対して、予は予の主観の色を以て彩色し、主観の味を以て調理して、以て、空想の外套の中に隠れてゐる自分の弱い心に阿(おもね)つてゐた」と。この「天地人生」観こそ「一元二面観」の「哲学」である。あの宇宙の根本意志(一元)とその発現としての自己拡張・自他融合(二面)なる「哲学」。この「哲学」で粉飾した天才主義。その天才主義の中に現実に対して無力でひ弱な自分の「弱い心」を隠れさせ、わが「天才」意識におもねらせていた、というのである。
 その自分の「弱い心」は「一切が一切に対して敵意なくして戦つてゐる如実の事象」(「人生の真面目」=この三月に獲得した概念を使えば「国民生活」の真面目)を直視できないのだという。函館時代はもちろん今も。
 啄木は「ローマ字日記」であれほども逃げ廻っていた自己の真実の直視という課題を正面に据えるほかに道はないと、観念したことはしたようである。
 節子の「批判」がしだいに効き目を表していると見るべきであろう。

2014年11月 4日 (火)

石川啄木伝 東京編 294

 「汗に濡れつゝ(九)」ではこう書く。
  その頃(函館時代-引用者)は予は、然(さ)うだ、矢張(やはり)若かつたのだ。今も若いがその頃はまだまだ若かつたのだ。それだけに、その頃の事を思出すと何となく恥かしい。と共に懐かしい。
  厳然として充実し、而して、洞然として空虚なる人生の真面目を、敵を迎へた牡獅子の騒がざる心を以て、面相接して直視するといふ事は容易に出来る事ではない。直視するに堪へないからこそ、我等は常に「理想」といふ幻象
(ママ)を描いて欺瞞(ごまか)してゐる。
  その頃、天地人生に対して、予は予の主観の色を以て彩色し、主観の味を以て調理して、以て、空想の外套の中に隠れてゐる自分の弱い心に阿
(おもね)つてゐた。一切が一切に対して敵意なくして戦つてゐる如実の事象を、その儘で自分の弱い心に突きつける事が出来なかつた。――今も出来ない。
 (八)と同じテーマをくりかえし提出したかのようである。しかし、提出された問題は同一ではない。(八)では直視すべきものは「予の浪漫的(ロマンチツク)」つまり啄木の内なるものであった。ところがここで直視すべきものは「人生の真面目」である。つまり、人間の生活(人生)のありのままの姿すなわち「真面目」を直視するという課題が自分には不可避の課題として今やたちあらわれた、と告白しているのである。告白の最初の聴き手(読み手)は、啄木がその天才主義最後の時期をしあわせに過ごした函館の、友人たちである。

2014年11月 2日 (日)

石川啄木伝 東京編 293

 7月25日から函館日々新聞にエッセイ「汗に濡れつゝ」(全9回)の連載が始まった(第9回目は8月5日掲載)。その8回目に啄木の変化を示すくだりが現れる。執筆は7月20日ころと思われる 。つまり啄木の変化は資料的に確認できるところではこのころからはじまったと見なしうる。
 「汗に濡れつゝ(八)」の最後の段落を引こう。
  海が恋しい――これは予の浪漫的(ロマンチツク)である。バザロフは四十幾つになつてヰオロンセロを弾く友人の父を、転げ歩いて笑つた。予も亦予の浪漫的(ロマンチツク)を笑はねばならぬ。投げ捨てねばならぬと思ふ。思ふのは単にバザロフの真似を為ようとするのではない。が唯思ふだけである。悲しいかな唯思ふだけである。
 ツルゲーネフの『父と子』は相馬御風訳でこの3月新潮社から出ている。啄木はこれで読んだのであろう。だれかがシューベルトの「心待ち」をチェロで弾いている。「調べの音(ね)が蜜のやうに心地よく空中に漂うて居る。」 弾いているのが44歳になる「アーカディー」の父だと分かると「バザロフ」は「大声で笑ひこける」。
 23歳だが、妻子と父母を扶養しなければならない一家の主が「天才」にこだわっているのは「アーカディー」の父同様だと自覚したのだ。もうこんなものは「投げ捨てねばならぬと思ふ」と新聞紙上で公言したのである。これは啄木の画期的な変化である。「が唯思ふだけである。悲しいかな唯思ふだけである。」

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