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2014年12月

2014年12月30日 (火)

石川啄木伝 東京編 321

 10月10日盛岡高等小学校時代の恩師・現在岩手日報客員の新渡戸仙岳宛に啄木は手紙を書いた。この手紙は岩手日報に掲載させてもらった「百回通信」の稿料振り込みへのお礼からはじまっていて、それから妻家出の事情、家出直後の自分の苦悩を記してゆく。  
 以下は先に引いた部分「……殺さんとまで思ひ候ひき。」のつづきである。
  昨夕に至り、先生のお手紙と同便にて返事参り候。病気がなほつたら帰ると言つてまゐり候。
 金田一の手紙と啄木自身の手紙(それに父堀合忠操の説得?)等によって、節子は帰宅を決心したらしい。この決心は意外に早くなされ、啄木はひと安堵したことであろう。
 つづく。
  弱るには非常に弱つてをり候へど、行く二三日前から顔色などは殆んど健康体の如かりし筈。無理な言分かも知れず候へ共、娘を貧乏させたくなさの先方の親達の心が、更に何日何十日この私にかゝる思ひをさせる積りにかなど怨まれ候。
 「行く二三日前から顔色」がよかったのは実家に帰る見通しが立ったからではないか。「先方の親達の心」は娘を姑との確執から少しでも長く解放してやりたいのであって「貧乏」の方は二の次であろう。もっとも結婚以来約四年間ひどい貧乏をさせたものだ。啄木の切ないが虫のいい怨みの向こうに見えるのは、堀合家との今後の確執である。
  過去一年間の全く一切の理想を失へる生活より、漸々この頃心を取り直してこの身のつゞく限りは働かむと思立ちたる折も折の此打撃に御座候。
  「一年」前と言えば、去年の11月1日はじめて塔下苑で女を買い、掏摸に金をすられた日だ。

2014年12月28日 (日)

石川啄木伝 東京編 320

 7月20日頃「汗に濡れつゝ(九)」に「人生の真面目を……面相接して直視するといふ事は容易に出来る事ではない」と記した時はまだまだ甘かった。
 「この心持をそらすやうないかなる方法もとりたくありません」という啄木。この心を持ったとき「人生の真面目」を「直視する」啄木が誕生した。啄木の「回心」(井上ひさし) である。
 盛岡中学5年生以来8年間の啄木の心を支えたのは天才意識であった。
 今日以後の啄木の心を支えるのは直視の精神である。啄木には自分や他者の心理のひだからナショナルな、果てはグローバルなことどもまで視る目を持っているのであった。現在の事どものみならず、未来も歴史も見える人なのであった。
 以後啄木は、それらすべてを直視しようとするであろう。直視したすべてを総合する天才は生まれ持っている。だが、残り人生はわずかに2年半。

2014年12月26日 (金)

石川啄木伝 東京編 319

 彼女の心を掴んでいる点で絶対的な自信をもってきたのである。まさか妻が自分を「ゲザのたぐい」かも知れぬと疑っていようとは思ってもみなかった。
 啄木は上京後の節子に腑に落ちぬものを感じていたのは確かである。いや彼女の言動に自分への「批判」を感じたからこそ、あそこまで自己変革したのだ。そしてこの変革をつづけて行けばきっと彼女の愛をふたたび取り返せると思っていたに違いない。
 その彼女が自分を捨ててしまうとは! 彼女に自分を捨て得る心があったとは! 永遠に戻ってこない恐れもありうるとは! 
 啄木は根底から自分と節子のこれまでを見つめ直したことであろう。一点のごまかしも無く。節子をここまで追い込んだ自分の問題点を隅々まで点検したであろう。余すところ無く。

2014年12月24日 (水)

石川啄木伝 東京編 318

 金田一京助は10月2日のことをこう記している 。
   この時ばかりは、石川君も、地べたへ取つて投げられたやうに吃驚し、取るものも取りあへず、蓋平館の私の許へ飛んで来た。
  『かかあに逃げられあんした』と頭を掻いて、坐つたなり、惘然として、すぐには、あとの口を利かなかつたので、私も、本当やら冗談やら、『え?』と云つたまゝ、あいた口が塞らなかつた。やがて君が、重い口調で、しみじみと始めて母堂との不和のいきさつを詳しく話し、『あれ無しには、私は迚も生きられない』と自白し、……節子にもどってくれるよう手紙を出して欲しいと懇願した。

 金田一は引き受け、さっそく節子に宛てて「長い長い手紙を、仕舞には……自分でぼろぼろ涙を落しながら書いて出した。」
 啄木は自分では書けないから金田一に書いて欲しいと言ったのに、堪えきれず自分でも節子宛の手紙を書いて出した。そして10月7日次の手紙を金田一にしたためた。
  まだ返事は来ませんでせうか。私は私から手紙を出したことを、若しやあなたに全幅の信任を捧げることが出来なかつた為と思はれはしないかと心配してゐます。帰るでせうか、帰らぬでせうか。
  私には新しき無言の日が初まりました。私はこの、一寸のひまもなく冷たい壁に向つてゐるやうな心持に堪へられません。然しこの心持をそらすやうないかなる方法もとりたくありません。誰とも話はしたくもないが、あなたには逢ひたい。

 妻の家出は啄木23年の人生で最大のショックであった。かれを苦悩の深淵に沈めた。

2014年12月23日 (火)

石川啄木伝 東京編 317

 この間に、木下杢太郎・北原白秋・長田秀雄の三人がパンの会の機関誌「屋上庭園」(季刊)を創刊した。
 表紙は黒田清輝の二色刷の少女(?)の裸体画、目次には北原白秋の詩「雑艸園」「瞰望」「露台」が見える、杢太郎の戯曲「温室」詩「六月の市街の情緒」「五月の情緒」がある、長田秀雄の詩「未だ生れざる帝国劇場」散文「文楽座印象記」がある。
 「……雑誌そのものが既に美術品である。そこには絵画と文学とのハアモニイがあって、これを文章だけで紹介するのは殆ど困難だと云つてよい」(野田宇太郎)
 発行の日付けは「明治四十二年十月一日」。10月1日前後に、啄木のところにも1部届いたことは疑いない。1日かその前に届いたのであれば、さっそく目を通したであろう。目を通したときの衝撃は察するにあまりある。ますますかれらと遠く離れたが、それにしてもなんというこのたびの達成か。

2014年12月20日 (土)

石川啄木伝 東京編 316

 盛岡中学5年生以来8年間の啄木の心を支えたのは天才意識であった。
 今日以後の啄木の心を支えるのは直視の精神である。啄木には自分や他者の心理のひだからナショナルな、果てはグローバルなことどもまで視る目を持っているのであった。現在の事どものみならず、未来も歴史も見える人なのであった。
 以後啄木は、それらすべてを直視しようとするであろう。直視したすべてを総合する天才は生まれ持っている。だが、残り人生はわずかに二年半。
 10月10日盛岡高等小学校時代の恩師・現在岩手日報客員の新渡戸仙岳宛に啄木は手紙を書いた。この手紙は岩手日報に掲載させてもらった「百回通信」の稿料振り込みへのお礼からはじまっていて、それから妻家出の事情、家出直後の自分の苦悩を記してゆく。  
以下は先に引いた部分「……殺さんとまで思ひ候ひき。」のつづきである。
  昨夕に至り、先生のお手紙と同便にて返事参り候。病気がなほつたら帰ると言つてまゐり候。
 金田一の手紙と啄木自身の手紙(それに父堀合忠操の説得?)等によって、節子は帰宅
を決心したらしい。この決心は意外に早くなされ、啄木はひと安堵したことであろう。

2014年12月18日 (木)

石川啄木伝 東京編 315

 妻の家出は啄木23年の人生で最大のショックであった。かれを苦悩の深淵に沈めた。
 彼女の心を掴んでいる点で絶対的な自信をもってきたのである。まさか妻が自分を「ゲザのたぐい」かも知れぬと疑っていようとは思ってもみなかった。
 啄木は上京後の節子に腑に落ちぬものを感じていたのは確かである。いや彼女の言動に自分への「批判」を感じたからこそ、あそこまで自己変革したのだ。そしてこの変革をつづけて行けばきっと彼女の愛をふたたび取り返せると思っていたに違いない。
 その彼女が自分を捨ててしまうとは! 彼女に自分を捨て得る心があったとは! 永遠に戻ってこない恐れもありうるとは! 
 啄木は根底から自分と節子のこれまでを見つめ直したことであろう。一点のごまかしも無く。節子をここまで追い込んだ自分の問題点を隅々まで点検したであろう。余すところ無く。
 7月20日頃「汗に濡れつゝ(九)」に「人生の真面目を……面相接して直視するといふ事は容易に出来る事ではない」と記した時はまだまだ甘かった。
 「この心持をそらすやうないかなる方法もとりたくありません」という啄木。この心を持ったとき「人生の真面目」を「直視する」啄木が誕生した。啄木の「回心」(井上ひさし) である。

2014年12月16日 (火)

石川啄木伝 東京編 314

 金田一京助は10月2日のことをこう記している 。
   この時ばかりは、石川君も、地べたへ取つて投げられたやうに吃驚し、取るものも取りあへず、蓋平館の私の許へ飛んで来た。
  『かかあに逃げられあんした』と頭を掻いて、坐つたなり、惘然として、すぐには、あとの口を利かなかつたので、私も、本当やら冗談やら、『え?』と云つたまゝ、あいた口が塞らなかつた。やがて君が、重い口調で、しみじみと始めて母堂との不和のいきさつを詳しく話し、『あれ無しには、私は迚も生きられない』と自白し、……
節子にもどってくれるよう手紙を出して欲しいと懇願した。
 金田一は引き受け、さっそく節子に宛てて「長い長い手紙を、仕舞には……自分でぼろぼろ涙を落しながら書いて出した。」
 啄木は自分では書けないから金田一に書いて欲しいと言ったのに、堪えきれず自分でも節子宛の手紙を書いて出した。そして10月7日次の手紙を金田一にしたためた。
  まだ返事は来ませんでせうか。私は私から手紙を出したことを、若しやあなたに全幅の信任を捧げることが出来なかつた為と思はれはしないかと心配してゐます。帰るでせうか、帰らぬでせうか。
 私には新しき無言の日が初まりました。私はこの、一寸のひまもなく冷たい壁に向つてゐるやうな心持に堪へられません。然しこの心持をそらすやうないかなる方法もとりたくありません。誰とも話はしたくもないが、あなたには逢ひたい。

2014年12月14日 (日)

石川啄木伝 東京編 313

  

実は本月二日の日、私の留守に母には子供をつれて近所の天神様へ行つてくると言つて出たまゝ盛岡に帰つて了ひ候。日暮れて社より帰り、泣き沈む六十三の老母を前にして妻の書置(かきおき)読み候ふ心地は、生涯忘れがたく候。昼は物食はで飢を覚えず、夜は寝られぬ苦しさに飲みならはぬ酒飲み候。妻に捨てられたる夫の苦しみの斯く許りならんとは思ひ及ばぬ事に候ひき。かの二三回の通信(「百回通信」の三と四-引用者)は全く血を吐くより苦しき心にて書き候。私よりは、あらゆる自尊心を傷くる言葉を以て再び帰り来らむことを頼みやり候。若し帰らぬと言つたら私は盛岡に行つて殺さんとまで思ひ候ひき。
 家出の直接的原因は姑カツとの異常な確執にあった。夫への愛があればがまんもできたであろう。しかし夫への愛の喪失と引き替えに得たのが郁雨への愛であり、そのことがまたカツとの確執を引き起こしていた 。盛岡の妹ふきは10月の下旬宮崎家の郁雨に嫁ぐことになっていた。家出は複雑な要因を孕んでいた。

2014年12月12日 (金)

石川啄木伝 東京編 312

 この間に、木下杢太郎・北原白秋・長田秀雄の三人がパンの会の機関誌「屋上庭園」(季刊)を創刊した。
 表紙は黒田清輝の二色刷の少女(?)の裸体画、目次には北原白秋の詩「雑艸園」「瞰望」「露台」が見える、杢太郎の戯曲「温室」詩「六月の市街の情緒」「五月の情緒」がある、長田秀雄の詩「未だ生れざる帝国劇場」散文「文楽座印象記」がある。
 「……雑誌そのものが既に美術品である。そこには絵画と文学とのハアモニイがあって、これを文章だけで紹介するのは殆ど困難だと云つてよい」(野田宇太郎)
 発行の日付けは「明治四十二年十月一日」。一〇月一日前後に、啄木のところにも一部届いたことは疑いない。一日かその前に届いたのであれば、さっそく目を通したであろう。目を通したときの衝撃は察するにあまりある。ますますかれらと遠く離れたが、それにしてもなんというこのたびの達成か。
 二日以後に届いたのであれば、それどころではなかったであろう。どちらにせよ、二日以後「屋上庭園」はしばらく啄木の関心外に吹っ飛んでしまう。
 一〇月二日、節子は京子をつれて家出し盛岡に帰ってしまったのである。八日後(一〇月一〇日)新渡戸仙岳に宛てた啄木の手紙には、生々しく痛々しいその間の事情が書かれている。

2014年12月10日 (水)

石川啄木伝 東京編 311

 節子に対するこれまでの自己の8年間と無責任とを徹底的に直視し自己批判することであろうか。「国民生活」の「真面目」を直視する立場を獲得することであろうか。
 思想家としての石川啄木は今思想上の立場を喪失している。天才主義は解体し、「天才」意識は清算された。自然主義のエキス(自己凝視・自己告白・実生活表現)はもう摂取した。ナショナルかつグローバルな視野を持ち、歴史感覚にも優れた啄木にとって自然主義はあまりに狭く・低く・鈍である。
 取って代わるものはまだ無い。これこそがいまの啄木に遺された最大の課題である。
 夫のそうした変化・自己変革にも節子の心は動かされなかったようだ。

2014年12月 8日 (月)

石川啄木伝 東京編 310

 「葉書」とこの書簡は、父親譲りの弱点がほとんど克服されたことを示している。ローマ字日記時に最もよく現れたそれら弱点の根深さが2か月ほどで克服されたのは一見あっけないようである。しかしローマ字日記末尾の「髪がボウボウとして、まばらなヒゲも長くなり……」に至る悪戦苦闘が啄木の「浪漫的(ロマンチツク)」をほぼ焼き尽くしていたと考えるとこうしたあっけなさは整合的に理会できる。
 このたびの自己変革の源泉はローマ字日記の悪戦苦闘の中に生まれた。その源泉を開いて清水を汲み出した最大の力が節子の「批判」であった、と言えようか。
啄木は生活人としては新生した。次の課題はなんであろう。

2014年12月 6日 (土)

石川啄木伝 東京編 309

 そう言えば「スバル」9月号に白秋の「哀調」42首が載るが、中に次の一首がある。
  わかき日の君ならずして誰か知る才ある人のかかるかなしみ(啄木君を思ふ)
 天才が天才を慕い呼びかけているのだ。「スバル」の編輯兼発行人の啄木は当然読んでいる。今やかの日々に還ることは不可能だ。短期間の内に別の道を歩み始めた啄木はかれらと遠く離れてしまった。
 手紙にもどろう。「近頃は元気恢復」の近頃は「葉書」を構想したと思われる九月の初めころであろうか。啄木にとっては至高の難敵「浪漫的(ロマンチツク)」をかなり克服できたということでもあろう。
 最も注目されるのは「やるだけの事はやつて見る気を起し候」のくだりである。これは文脈からいって家族の生活費を、特に節子の医療費を意欲的に稼ごうという決意がついにできたということである。それにしても節子の病気は心身症的なものなのだろうか、結核性ものなのだろうか。郁雨への愛と引き替えになった夫への愛の喪失・夫への不満・姑との確執等、病因は身心双方にありそうである。
  以前は困れば借金するを何とも思はぬものに候ひしが、近頃それは出来るだけ罷め居候為、寧ろ滑稽に近き事件毎日の様に家庭内に起り候、さればと言つてまとまつた創作などは一定の社の方の務めあれば却々(なかなか)出来申さず、それで色々勘考仕り候ふ上にて思付き候ふは、毎日通信を書いて送ることにして地方の新聞いくらか貰ふ工夫あるまじきかとの一案に御座候、
 借金をできるだけせぬように心がけ、創作よりも社の務めの方を優先し、家計のために副業まで考えている。
 父親譲りの弱点のうちの借金癖・生業の軽視・家族扶養義務の軽視が基本的に克服されたことを示す文言である。

2014年12月 4日 (木)

石川啄木伝 東京編 308

 9月28日(「葉書」執筆直後)の、新渡戸仙岳宛て書簡は啄木の変革の確かさを語っている。摘録しよう。
  気も張りも脱けたやうな一夏を過して、小生も近頃は元気恢復、やるだけの事はやつて見る気を起し候、唯困り候ふは、荊妻上京以来殆んど一日として健康なりし事なく、先(せん)の医者は胃腸が悪いと申し候ひしが、薩張(さつぱり)捗々(はかばか)しからぬ為別の医者に見せ候所、局所の肋膜炎とかの由、老母が居り候故炊事の方の心配はなく候へど、薬餌の料は足らず、子供は暴れる、誠に早や致方なく御座候、
 「気も張りも脱けたやうな一夏」はだいたいローマ字日記時の5月中旬からこの8月中旬ころまでを指していようか。8月と言えば「スバル」8月号巻頭を吉井勇の「夏の思ひ出」百首が飾っている。「スバル歌壇を背負った第一人者」「当時の享楽耽美の一体を代表する歌人」 吉井勇の傑作群である。初めの数首を抜いてみよう。  
 夏は来ぬ相模(さがみ)の海の南風(なんぷう)にわがこころ燃ゆわが瞳燃ゆ
 夏の帯沙
(いさご)のうへにながながと解きてかこちぬ身さへ細ると
 君がため瀟湘湖南の少女らはわれと遊ばずなりにけるかな
 君が間に酒のにほひはただよひぬ今人来
(き)なば何と云ふらむ
 砂山は墓のごとくにきづかれぬ君の墓なりわれの墓なり
 海風
(かいふう)は君がからだに吹き入りぬこの夜抱かばいかに涼しき
 ほんの数ヶ月前までは、なけなしの金ではあったが、妻子老母に送るべき金ではあったがそれらをつぎ込んでは勇や白秋らとささやかながら耽美的な生活をしていたのに、今は勇らの生活となんとへだたったことか。パンの会もますます盛んだ。啄木一人別の道を歩んでいる。

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