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2015年1月

2015年1月20日 (火)

石川啄木伝 東京編 328

 五つ目のセンテンス(唯吾人は……)の「事に当る者」とは伊藤を暗殺した「韓人」を取り調べ、処罰するであろう当局者を指すのだろう。当局者に「其途を誤る」ことのないように、つまり苛酷な処分をしないようにと、訴えているのである。なぜなら「韓人の心事」は十分に了解できるのだから。
 啄木の伊藤への尊敬の念は正真正銘最上級である。しかも今哀悼の極みにいるのである。しかしその啄木が伊藤を殺した「韓人」に対して「未だ真に憎むべき所以(ゆゑん)を知らず」という。亡国のポーランド人・インド人への篤い同情は、日本という母国によって名実ともに亡ぼされつつある韓国の人々にたいしても変わることはないのだ。

2015年1月18日 (日)

石川啄木伝 東京編 327

 啄木はすでに見てきたようにナショナリストでありかつインターナショナリストであった。28日午前稿の第十七回の記事にこの啄木の面目が輝く。
  独逸の建国はビスマークの鉄血政略に由る。然り、而して新日本の規模は実に公の真情によりて形作られたり。吾人は『穏和なる進歩主義』と称せらるゝ公の一生に深大の意義を発見す。然り、而して吾人の哀悼は愈々深し。唯吾人は此哀悼によりて、事に当る者の其途を誤る勿らん事を望まずんば非ず。其損害は意外に大なりと雛ども、吾人は韓人の愍(あはれ)むべきを知りて、未だ真に憎むべき所以(ゆゑん)を知らず。寛大にして情を解する公も亦、吾人と共に韓人の心事を悲しみしならん。

2015年1月16日 (金)

石川啄木伝 東京編 326

 妻が帰宅した10月26日、伊藤博文暗殺の報が日本に届いた。日本人の受けた衝撃は大変なものだったが、啄木もまた驚愕し痛哭した。そして岩手日報への通信記事「百回通信」の十六、十七、十八を伊藤博文追悼に当てた。
 27日稿第(十六)回の記事。
  十月二十六日、天曇る。午後三時を過ぐる霎時(せふじ)、飛報天外より到りて東京の一隅には時ならぬ驚愕を起したり。……
  噫(ああ)、伊藤公死せり!
  今朝(こんてう)東京の各新聞は殆んど其全紙面を挙げて公が遭難の報を満載したり。而して今や遂に何の疑ふべきなし。何等の不幸ぞや。公は二十六日午前九時哈爾賓(はるびん)ステーシヨンに着し、車を下りて出迎の諸人と歓を交はしつゝある間に突如として韓国革命党青年の襲ふ所となり、腹部に二発の短銃丸を受け、後半時間にして車室の一隅に眠れる也。偉大なる政治家偉大なる心臓――六十有九年の間、寸時の暇もなく、新日本の経営と東洋の平和の為に勇ましき鼓動を続け来りたる偉大なる心臓は、今や忽然(こつぜん)として、異域の初雪の朝、其活動を永遠に止めたり。
 日本人と啄木の受けた衝撃の大きさ、激しさ、深さが伝わってくる。

2015年1月14日 (水)

石川啄木伝 東京編 325

 10月24日ふき子は宮崎郁雨の妻となるべく盛岡を発って函館に向かった。
 10月26日早朝節子は帰ってきた。啄木はその日の午前に書いた「百回通信」十五にこう記す。
   拝啓。障る事ありて業を休むこと五日。今日家人を迎へんが為に、昧爽車を駆つて上野停車場に到り候。
 ……
 朝の東京は、……実に隅より隅まで生活の元気充満す。すべての人の心に、すべての家の中に、すべての路の上に、ライフの生色澎湃として流れわたるを見る。小生は久振りにて此永遠に清新なる人生の活光景に接したるを喜び候。草々。

 妻を迎えた啄木の喜びが躍っている。「百回通信」四が妻の目に触れてくれることを願って書いたとすれば、この一文は新渡戸仙岳への感謝と報告とを兼ねている。

2015年1月12日 (月)

石川啄木伝 東京編 324

 10月18日執筆の「百回通信」(十一)に注目すべき考え方が現れる。
  大した失策なき限り、国民は黙つて彼等(桂首相や政友会-引用者)に世帯の〆括りを任せて置いて然るべく、而して人々唯々一意自己の生活の改善を計るべく候。
 政治は政治家に任せておいて人々はまず「自己の生活の改善」をはかるべきだ、と。妻の帰りをまって生活改善に取り組む啄木の姿そのものである。「国民生活」は度外に置かれている。
 10月23日、日比谷の松本楼で「パンの会」の大会が催された。啄木はこの会の創立期の会員のひとりであり、かれがローマ字日記を書きはじめた時期の4月10日には永代亭で初の大会が開かれ、大いに盛り上がったことはすでに見た。(啄木はそのころローマ字日記の中にもっとも衝撃的な告白を記していたのであった。)松本楼での秋の大会はいっそう盛り上がった。啄木と白秋・杢太郎らの歩む道はますます隔たりつつある。

2015年1月10日 (土)

石川啄木伝 東京編 323

 小川武敏が指摘したように「〈ある事柄〉といえば代助と友人平岡・三千代の三角関係に他なるまい。」  啄木は郁雨をも疑ってはいるのだ。しかし親友中の親友にそんなことを確かめることはできない。確かめるすべも無い。妻の自律性と情熱と決断力のゆたかさは十分に知っている。そこから考えれば疑いうる。しかし妻に確かめるすべも無い。聞いても言うはずがない。聞いただけで(疑ったのだから、もし二人が無実の場合は)妻との関係も親友との関係も崩れるだろう。口外は出来ない問題なのだ。苦痛であろう。ふたりの関係を掴んでいるであろうカツの方がもっと苦痛であろう 。

2015年1月 9日 (金)

石川啄木伝 東京編 322

 妻の家出の原因にふれた部分にはこうある。
  妻の家出の第一の原因は、私の老母との間柄に存するものゝ如く候。それについては私は時代の相違てふことの如何に悲しきかを感じ居候。然しそれも母も毎日泣いてゐるうちに早く帰つてさへ呉れゝば、雨ふつて地堅まるの結果に立至るべきを確信いたし居候。
 啄木はずいぶん母を責めたらしい(後述)。母は「毎日泣いてゐる」というが、嫁に悪かったと泣いているのではない。最愛の息子にあまりに厳しく叱責されるからである(後述)。
 新しい啄木は「百回通信」を書き送りつづけた。欠勤もしなかったようだ(当たり前だが)。
 東京朝日新聞連載の漱石の「それから」は10月14日に終わった。この日の前後に啄木は「それから」に関する無題の評論断片を書いている。
   私は漱石氏の『それから』を毎日社にゐて校正しながら、同じ人の他の作を読んだ時よりも、もつと熱心にあの作に取扱はれての成行に注意するやうな経験を持つてゐた。……

2015年1月 1日 (木)

迎春

 以下に私の今年元旦の賀状を掲載し、新春のご挨拶とさせていただきます。

 あ け ま し て お め で と う ご ざ い ま す

 『最後の剣聖 羽賀凖一』1月下旬出版の運びとなりました(同時代社、、約400ページ、予価2500円)。羽賀門下の兄弟子初め多くの方々に支えられ、23歳の志が50余年の後に実現することになりました。
 国民詩人と大剣道家を同様に研究する自分がわれながら不思議でした。七十代半ばになってそんな自分が分かりはじめ(!)ました。
 学生時代は左翼運動などほどほどにして、秋山虔先生のご指導の下源氏物語研究に専心し、剣道も修行すればよかったのだ、と。春の日の夢です。
 みなさまにはご平安の新年でありますよう。

   2015年 元旦        

 

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