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2015年4月19日 (日)

石川啄木伝 東京編 331

  それ(節子の帰宅-引用者)から幾日程立つてからであつたか、私が石川君方を訪れると、君は不在だつた。帰らうとすると、母堂が断つて引留められるので、上つて坐ると、節子さんが、先般来の挨拶をされて御茶を入れられた。母堂は差向ひに長火鉢にあたりながら、この間ぢゆう、石川君が辛くあたつたことを私へ訴へ、段々自分で昂奮して涙を出して震ひ乍ら『もうもう私は、どんなことがあつたからつて、どんなことだつて我慢します。私は本当にこの年になつて、あんな辛い、死ぬやうな、死ぬよりも辛い目に逢はされました。気狂ひになつて死んでしまふか、いぢめ殺されてしまふかと思ひました。もう死ぬ迄我慢します。死んだ気になつて我慢します』段々語勢が強くなつて、そこに嫁さんを置きながら、つけつけと其のかどかどを指弾されるに至つて、私が困つてしまふと、母堂は、『だつて私は、お国訛りで、何処へ向いてもお話しが出来ないんですもの、誰に向つて胸の霽らしやうも無いんですもの、悔しいやら、苦しいやら、情ないやら。この年になつて、旅の空へ出で、あなたなればこそ、お話が出来ます。堪へて堪へて、今まで胸に畳んでゐたことを始めて今云ふのですから、どうか聞いて下さいまし。一に云へば一言に叱られます。この人の為にです。この人為に本当に本当にひどい目にあひました。一は、この人さへあれば、母などは死んでも好いのでせう…………』と、おいおい泣かれる。さもさも憎さうに、間々へ痛烈な当てこすりが、刺すやうにとげとげしく出るのに、私は、はらはらして、節子さんはと気遣つて、そつと目をやると、これは又、大理石の像のやう。病気上りの蒼白な顔がぴんと緊まつて、眉毛一本動かさず、頬に昇る血の色ひとつ無く、全く無表情に、何の反応も、しのびやかにさへ、顔へあらはれない、我慢づよさ、その真剣さは、却つてぞつとする程深刻に、雰囲気は緊張する一方だつた。

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