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2015年4月26日 (日)

石川啄木伝 東京編 338

 「百回通信」は19日稿の第二十八回を以て中断される。その翌日の20日ひとりの若い工女が死んだ。啄木とは全く無関係の死である。しかし「工場法案」や「社会主義」を論ずる啄木には今「労働者」への関心が満ち潮となって高まっている。すでに渋民への移住時代の1906年(明39)3月に社会主義に惹かれ、3000字もついやして「一元二面観」を押し出すことで関心に封印した啄木であった。昨年1月小樽で西川光次郎の演説を聴き、再び関心がよみがえったが、これも釧路生活以後には封印した。
 今年秋、直視する人となった啄木はその封印を切る。
 その1909年(明42)の大日本帝国の基底が見える一文を先に引こう。山本茂美『ああ、野麦峠』の一節である 。
   明治四十二年十一月二十日午後二時、野麦峠の頂上で一人の飛騨の工女が息を引きとった。名は政井みね、二十歳、信州平野村山一林組の工女である。またその病女を背板(せいた)にのせて峠の上までかつぎ上げて来た男は、岐阜県吉城(よしき)郡河合村角川(つのかわ)の政井辰次郎(三一)、死んだ工女の兄であった。
  角川といえば高山からまだ六里余(約二四キロ)、奥飛騨と、越中(富山)との国境に近い、宮川沿いの小さな部落である。ここから岡谷まで七つの峠と三十数里の険しい山道を、辰次郎は宿にも泊まらず夜も休みなしで歩きとおして、わずか二日で岡谷の山一林組工場にたどりついた。
  「ミネビヨウキスグヒキトレ」という工場からの電報を受け取ったからである。
  しかし辰次郎は病室になっている物置きの中へ入ったとたん、はっとして立ちすくんだ。美人と騒がれ、百円工女ともてはやされた妹みねの面影はすでにどこにもなかった。やつれはててみるかげもなく、どうしてこんな体で十日前まで働けたのか信じられないほどだった。
  病名は腹膜炎、重態であった。工場では辰次郎を事務所に呼んで十円札一枚を握らせると、早くここを連れだしてくれとせきたてた。工場内から死人を出したくないからである。辰次郎はむっとして何かいいかけたが、さっきいったみねの言葉を思い出してじっとこらえて引きさがった。
  「兄
(あん)さ、何もいってくれるな」
  みねはそういって合掌した。飛騨へ帰って死にたがっているのだと辰次郎はすぐ察した。みねはそういう女だった。
  準備して来た背板に板を打ちつけ座ぶとんを敷き、その上に妹を後ろ向きに坐
(すわ)らせ、ひもで体を結(ゆわ)えて工場からしょい出した。作業中で仲間の見送りもなく、ひっそりと裏門から出た。辰次郎は悲しさくやしさに声をあげて泣き叫びたい気持をじっとこらえて、ただ下を向いて歩いた。しかし、みねは後ろ向きに負われたままの姿で、工場のほうに合掌していた。その時、
  「おお、帰るのか、しっかりしていけよ、元気になってまたこいよ!」
  あとを追ってきた門番のじいさんが一人だけ泣いて見送ってくれた。
  ……
 辰次郎はみねを背負い、幾夜も重ねて歩き続けた。
 ……野麦峠の頂上
(つじ)にたどりついたのが十一月二十日の午後であった。
  その間みねはほとんど何もたべず、峠にかかって苦しくなると、つぶやくように念仏をとなえていた。峠の茶屋に休んでソバがゆと甘酒を買ってやったが、みねはそれに口をつけず、「ああ飛騨が見える、飛騨が見える」と喜んでいたと思ったら、まもなく持っていたソバがゆの茶わんを落として、力なくそこにくずれた。
  「みね、どうした、しっかりしろ!!」辰次郎が驚いて抱きおこした時はすでにこと切れていた。

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