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2015年4月30日 (木)

石川啄木伝 東京編 342

 詩人は「ありとあらゆる悲愁(かなしみ)の外に立」っているがその視点は動いて行く。ある始発の場所から九段下へ九段下から「裏神保町(現在の神保町交差点から三省堂あたりまでとスズラン通りにかこまれた一帯)」へさらにニコライ堂まで。その視線に写る「瞰望(ながめ)」をうたってゆく。

 啄木詩にもどろう。第1連と最後の連は詩人の視点は高所(高台とか丘の上のような)にあって、眼下を「瞰望(はるかに望む)」していることを示している。この場合は「瞰望」に「瞰」の字の意味合い(「みおろす」)を含ませていることになる。
 山本健吉も指摘しているように啄木はこれまでに東京を俯瞰する詩を2度作っている。  「眠れる都」(1904年作)と「東京」(1905年)である。
 「眠れる都」の前書きには「一望甍の谷ありて眼界を埋めたり」とあり、「東京」の詩句には「煙突の鉄の林」と「千よろずの甍」がある。そしてこの無題の詩においても「(甍→)屋根」と「煙突」はキーワードである。
 「屋根又屋根、眼界にとゞく限りを」にはじまる5行は「屋根又屋根」の下の人間の生活の無数の様態を暗示している。そしてここには「屋上庭園」創刊号巻頭を飾った白秋詩「雑草園」からの影響も認められる。白秋はもろもろの雑草を擬人化し「霊(たましひ)の雑草園」をうたった。白秋が雑草に人間を見たように、啄木は屋根に人間を見るのである。
 次の2行。「秋の光が……照りわたつてゐる」は、おそらく「時間の推移」を表し、どんな屋根の下のどんな人間の生活にとっても平等に過ぎて行くことの、喩と思われる。
 第2連。無数の生活が作り出す大都会・東京のとどろき。
 第2連。7年前おそるべき孤独と心細さを抱きつつ小日向台から「瞰望」した「此景色」「この物音」。16歳の少年の「心はおびえた」のだった「都会の底のふかさ」に。
 第4連。今はふるさとをあきらめ東京永住を決心した都市居住者「新らしい都会の帰化人」となってもやはり「心はおびえる」、「都会の底のふかさ」に。
 白秋にとって「景物」にすぎない東京の瞰望は、啄木にとっては無数の何かがうごめき音立て「おびえ」させる場所なのだ。その何かとは何なのか。
 第5連で詩人は「屋根又屋根」つまり無数の「屋根」の中から、一つの「屋根」とその下を選ぶ。学校(おそらくは中学校)の「屋根」とその下である。そこには若い人たちの千差万別の「欲望」が存在し時々刻々変化しているのに、「忠実なる教師」すなわち今の教育は「秋の光」がすべての屋根を平等に照らすのと等しく、「すべての生徒の欲望をひとしなみに」見て、十年一日のごとく「欲望」の平均化に努める。
 この詩のキーワード「欲望」が現れる。
第六連。この連は仕上げられぬままに終わっている。だからとくに難解である。
 花は精液の香をはなちて散り、
 人は精力の汗を流して死ぬ。
 それらは花と人との欲望のすべてか。

 「花」は栗の花であろうか。「香をはなちて」は生命の一つの形・プロセスである。それは死へのプロセスでもある。
「人」が「精力の汗を流」すのも、生命=生活の一つの形・プロセスである。そしてそれはまた死へのプロセスでもある。
 田中王堂は欲望をめぐってこう言っている。「特別に人間に賦与されたる特種の道具を使つて、他の動物と等しく生活を継続せんとする欲望を充(みた)し行かむとする彼れの努力が、即ち人生の実質を造つて居るのである。」(「文芸」)と。
 詩人はこれを受けて、「花」が「精液の香をはな」ち、「人間」が「精力の汗を流」す=働く、ことだけが「生活を継続せんとする欲望」なのではあるまいと言いたいらしい。若い人たちの「欲望」を「精力の汗を流」すことに局限している学校教育を批判しているのであろう。最後の連との関連でこう解釈した。
 最後の連の初めの三行。
 見よ、数へきれぬ煙突!
 その下には死なうとする努力と死ぬまいとする欲望と……
 あゝあの騒然たる物音! 

 「数へきれぬ煙突!」であるから、工場の密集する地帯の煙突群を指す。工場こそ産業革命が完了し、資本主義が全面的に展開し始めた日本のこの時代の「都会」=東京の「欲望」の核心であり記号である。
 その「数へきれぬ」工場の屋根の「下には死なうとする努力と死ぬまいとする欲望と……」。
 前の連の最初の2行に照応する行である。
 先に引用した王堂の言に「欲望」「努力」というキーワードがあった。これを参考にしよう。
「他の動物と等しく生活を継続せんとする欲望」とは、生きようとする欲望即ち「死ぬまいとする欲望」、である。また、生きることは死に向かうことであるから、「欲望を充(みた)し行かむとする彼れの努力」は「死なうとする努力」、ということになる。2行目はこう読むしかあるまい。
 前連に「人は精力の汗を流して」とあったが、詩人のイメージにある工場の屋根の下の人は資本家とその側の人々ではなく、工場労働者ではなかろうか。「百回通信」二十五で、工場法案を論じていたことを思い出す。
 屋根は人間の最上の智慧 !!
 又反抗、又運命である。

 人々の「欲望」と「努力」即ち生活が、それぞれ白日の下にさらされたなら、どんなに惨酷なことだろう。それを隠すのが「屋根」。だから「屋根は人間の最上の智慧 !!」というのではないか。
 さらに「屋根は人間の……又反抗、又運命である」という。「屋根」は「死ぬまいとする欲望(=反抗)」と「死なうとする努力(=運命)」の表現である、というのだろうか。
結局「屋根」の下にあるのは「一切が一切に対して敵意なくして戦つてゐる如実の事象」(「汗に濡れつゝ」)すなわち「生活」、拡大すれば「国民生活」である、と言うのであろう。
その生活の一大戦場を瞰望して詩人は思う。
 あゝ、我は帰らうか? はた帰るまいか?
 あの屋根! 眼界のとゞく限りを
 すき間もなく埋めた屋根の下へ。
 こうして白秋の「瞰望」に触発された新生啄木の詩は、現実と切り結び始めた人の詩として、耽美派白秋の詩とは異質の世界の創造になっている。「百回通信」に見られた広大で深刻で鋭い「国民生活」認識、それを背後にひそめて創造した世界としてのこの詩は、未完ながら日本近代詩に新生面を切り拓いたと言えるであろう。
 山本健吉がこの詩を高く評価したことはすでに触れた。大岡信も精選した啄木詩五二編中の一編にこの詩を選んでいる 。

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