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2015年4月

2015年4月30日 (木)

石川啄木伝 東京編 342

 詩人は「ありとあらゆる悲愁(かなしみ)の外に立」っているがその視点は動いて行く。ある始発の場所から九段下へ九段下から「裏神保町(現在の神保町交差点から三省堂あたりまでとスズラン通りにかこまれた一帯)」へさらにニコライ堂まで。その視線に写る「瞰望(ながめ)」をうたってゆく。

 啄木詩にもどろう。第1連と最後の連は詩人の視点は高所(高台とか丘の上のような)にあって、眼下を「瞰望(はるかに望む)」していることを示している。この場合は「瞰望」に「瞰」の字の意味合い(「みおろす」)を含ませていることになる。
 山本健吉も指摘しているように啄木はこれまでに東京を俯瞰する詩を2度作っている。  「眠れる都」(1904年作)と「東京」(1905年)である。
 「眠れる都」の前書きには「一望甍の谷ありて眼界を埋めたり」とあり、「東京」の詩句には「煙突の鉄の林」と「千よろずの甍」がある。そしてこの無題の詩においても「(甍→)屋根」と「煙突」はキーワードである。
 「屋根又屋根、眼界にとゞく限りを」にはじまる5行は「屋根又屋根」の下の人間の生活の無数の様態を暗示している。そしてここには「屋上庭園」創刊号巻頭を飾った白秋詩「雑草園」からの影響も認められる。白秋はもろもろの雑草を擬人化し「霊(たましひ)の雑草園」をうたった。白秋が雑草に人間を見たように、啄木は屋根に人間を見るのである。
 次の2行。「秋の光が……照りわたつてゐる」は、おそらく「時間の推移」を表し、どんな屋根の下のどんな人間の生活にとっても平等に過ぎて行くことの、喩と思われる。
 第2連。無数の生活が作り出す大都会・東京のとどろき。
 第2連。7年前おそるべき孤独と心細さを抱きつつ小日向台から「瞰望」した「此景色」「この物音」。16歳の少年の「心はおびえた」のだった「都会の底のふかさ」に。
 第4連。今はふるさとをあきらめ東京永住を決心した都市居住者「新らしい都会の帰化人」となってもやはり「心はおびえる」、「都会の底のふかさ」に。
 白秋にとって「景物」にすぎない東京の瞰望は、啄木にとっては無数の何かがうごめき音立て「おびえ」させる場所なのだ。その何かとは何なのか。
 第5連で詩人は「屋根又屋根」つまり無数の「屋根」の中から、一つの「屋根」とその下を選ぶ。学校(おそらくは中学校)の「屋根」とその下である。そこには若い人たちの千差万別の「欲望」が存在し時々刻々変化しているのに、「忠実なる教師」すなわち今の教育は「秋の光」がすべての屋根を平等に照らすのと等しく、「すべての生徒の欲望をひとしなみに」見て、十年一日のごとく「欲望」の平均化に努める。
 この詩のキーワード「欲望」が現れる。
第六連。この連は仕上げられぬままに終わっている。だからとくに難解である。
 花は精液の香をはなちて散り、
 人は精力の汗を流して死ぬ。
 それらは花と人との欲望のすべてか。

 「花」は栗の花であろうか。「香をはなちて」は生命の一つの形・プロセスである。それは死へのプロセスでもある。
「人」が「精力の汗を流」すのも、生命=生活の一つの形・プロセスである。そしてそれはまた死へのプロセスでもある。
 田中王堂は欲望をめぐってこう言っている。「特別に人間に賦与されたる特種の道具を使つて、他の動物と等しく生活を継続せんとする欲望を充(みた)し行かむとする彼れの努力が、即ち人生の実質を造つて居るのである。」(「文芸」)と。
 詩人はこれを受けて、「花」が「精液の香をはな」ち、「人間」が「精力の汗を流」す=働く、ことだけが「生活を継続せんとする欲望」なのではあるまいと言いたいらしい。若い人たちの「欲望」を「精力の汗を流」すことに局限している学校教育を批判しているのであろう。最後の連との関連でこう解釈した。
 最後の連の初めの三行。
 見よ、数へきれぬ煙突!
 その下には死なうとする努力と死ぬまいとする欲望と……
 あゝあの騒然たる物音! 

 「数へきれぬ煙突!」であるから、工場の密集する地帯の煙突群を指す。工場こそ産業革命が完了し、資本主義が全面的に展開し始めた日本のこの時代の「都会」=東京の「欲望」の核心であり記号である。
 その「数へきれぬ」工場の屋根の「下には死なうとする努力と死ぬまいとする欲望と……」。
 前の連の最初の2行に照応する行である。
 先に引用した王堂の言に「欲望」「努力」というキーワードがあった。これを参考にしよう。
「他の動物と等しく生活を継続せんとする欲望」とは、生きようとする欲望即ち「死ぬまいとする欲望」、である。また、生きることは死に向かうことであるから、「欲望を充(みた)し行かむとする彼れの努力」は「死なうとする努力」、ということになる。2行目はこう読むしかあるまい。
 前連に「人は精力の汗を流して」とあったが、詩人のイメージにある工場の屋根の下の人は資本家とその側の人々ではなく、工場労働者ではなかろうか。「百回通信」二十五で、工場法案を論じていたことを思い出す。
 屋根は人間の最上の智慧 !!
 又反抗、又運命である。

 人々の「欲望」と「努力」即ち生活が、それぞれ白日の下にさらされたなら、どんなに惨酷なことだろう。それを隠すのが「屋根」。だから「屋根は人間の最上の智慧 !!」というのではないか。
 さらに「屋根は人間の……又反抗、又運命である」という。「屋根」は「死ぬまいとする欲望(=反抗)」と「死なうとする努力(=運命)」の表現である、というのだろうか。
結局「屋根」の下にあるのは「一切が一切に対して敵意なくして戦つてゐる如実の事象」(「汗に濡れつゝ」)すなわち「生活」、拡大すれば「国民生活」である、と言うのであろう。
その生活の一大戦場を瞰望して詩人は思う。
 あゝ、我は帰らうか? はた帰るまいか?
 あの屋根! 眼界のとゞく限りを
 すき間もなく埋めた屋根の下へ。
 こうして白秋の「瞰望」に触発された新生啄木の詩は、現実と切り結び始めた人の詩として、耽美派白秋の詩とは異質の世界の創造になっている。「百回通信」に見られた広大で深刻で鋭い「国民生活」認識、それを背後にひそめて創造した世界としてのこの詩は、未完ながら日本近代詩に新生面を切り拓いたと言えるであろう。
 山本健吉がこの詩を高く評価したことはすでに触れた。大岡信も精選した啄木詩五二編中の一編にこの詩を選んでいる 。

2015年4月29日 (水)

石川啄木伝 東京編 341

 ここでは重要な2編をとりあげる。「無題(秋の夕べの重くるしさ……)」と「無題(屋根又屋根……)」である。「詩稿」(したがって『石川啄木全集』第二巻)ではこの順であるが、制作順は逆であると思われる(要函館で調査)。白秋詩の影響が明白・濃厚なのは後者であり、のちにつくられる「心の姿の研究」に直接するのは前者であるから。
    
  無 題
  
 屋根又屋根、眼界のとゞく限りを
 すき間もなく埋めた屋根!
 円い屋根、高い屋根、おしつぶされたやうな屋根、
 おしつぶされつして、或ものは地にしがみつき、
 或は空にぬき出ようとしてゐる屋根!
 その上に忠実な教師の目のやうに、
 秋の光がほかほかと照りわたつてゐる。

 とらへやうもない、
 然し乍ら魂の礎石までゆるがすやうな
 あゝ、あの都会のとゞろき……

 初めてこの都会に来て此景色を眺め
 この物音をきいた時、
 弱い田舎者の心はおびえた――
 広さ、にではない、高さに、ではない、又
 其処にいとなまるゝ文明の尊さにでもない、
 あのはかりがたい物音の底の底の――
 都会の底のふかさに。

 今また此処に来て此景色を眺め、
 そしてこの物音をきいて、
 よわく、新らしい都会の帰化人の心はおびえる――
 獅子かひが獅子の眠りに見入つた時の心もて、――
 あのとらへがたき物音の底の底の――
 入れども入れどもはかりがたき都会の底のふかさに。
 
 すべての生徒の欲望をひとしなみにみる
 忠実なる我が教師よ、
 そなたはそなたの欲望と生徒の欲望を
 またひとしなみに見るか?

 花は精液の香をはなちて散り、
 人は精力の汗を流して死ぬ。
 それらは花と人との欲望のすべてか。
 教師よ、そなたの愛は、――
 雨とふり日とそゝぐそなたの愛は、
 人の………

 見よ、数へきれぬ煙突!
 その下には死なうとする努力と死ぬまいとする欲望と……
 あゝあの騒然たる物音! 
 人間は住居の上に屋根を作つた。
 その上に日が照る。
 屋根は人間の最上の智慧 !!
 又反抗、又運命である。
 そして
 その上に日が照る。

 あゝ、我は帰らうか? はた帰るまいか?
 あの屋根! 眼界のとゞく限りを
 すき間もなく埋めた屋根の下へ。

 7つの連からなる未完の口語自由詩である。山本健吉はこの詩をめぐってこう評価する。「推敲も不十分だし、表現の完璧性からはほど遠いが、彼が口語自由詩の気息を、すでに自家薬籠中のものにしてしまっていることを、これは物語っている」と 。
 山本の注釈を参考にしつつ、この未完の難解な詩を解釈してみよう。
 「屋上庭園」の白秋詩「東京景物詩『瞰望』『露台』」のうちの「瞰望」を意識しての作であることは明らかなので、参考までにその一部を引こう。
    
  瞰 望   
  
 わが瞰望は
 ありとあらゆる悲愁
(かなしみ)の外に立ちて、
 東京の午後四時過ぎの日光と色と音とを怖れたり。
 
 七月の白き真昼
 空気の汚穢(けがれ)うち見るからにあさましく、
 いと低き瓦の屋根の一円は卑怯に鈍く黄ばみたれ、
 あかあかと屋上園に花置くは雑貨の店か、
 (新嘉坡の土の香は莫大小
(メリヤス)の香とうち咽ぶ。)
 また、青ざめし羽目板の安料理屋の窓の内、
 ただ力なく、女は頸
(うなじ)かたむけて髪梳る。
 (私生児の泣く声は野菜とハムにかき消さる。)
 洗濯屋
(せんだくや)の下女はしび時に物干の段をのぼり了り、
 男のにほひ忍びつつ、いろいろのシヤツをひろげたり。

 九段下より神田へ出づる大路には
 しきりに急ぐ電車をば四十女の酔人(よひどれ)の来て止めたり。
 斜かひに光しは童貞の帽子の角か。
 ……

2015年4月28日 (火)

石川啄木伝 東京編 340

 「浪漫的(ロマンチツク)」が解体したことは啄木の思想的足場が解体したことであった。啄木は見てきたように、今「生活」を最重要視し、自分と家族の生活のために必要な実践をすべてに先行させている。啄木自身の表現を用いれば「読書を廃し、交友に背き、朝から晩まで目をつぶつたやうな心持でせつせと働いて」いるのである 。こうした生活態度の支えとなる思想を、今の啄木は求めているのである。ここに入りこんだのが田中王堂のプラグマティズムであった。(後述)
 さて、すでに触れたが「百回通信」を10月1日以来28回にわたって執筆してきた啄木は、11月19日執筆(21日掲載)の第(二十八)回をもって中止する。中止の理由は不明である。朝日新聞社ではこの11月から二葉亭全集の校正の仕事が増えている(それは収入増にもつながるが)。そのため肉体的負担の軽減の必要、自由になる時間の確保などが理由としてあったのかもしれない。
 「百回通信」の執筆送稿をやめたことで、20日から出勤前の数時間が自由になった。
啄木がこの時間を得て、まず始めたのは「屋上庭園」を取り出し、これと正対することであったと思われる。
 なかでも白秋の文語自由詩3編にとくに刺激され、口語自由詩の試作をおこなったのが11月20日以後の約10日間と推定される。
 その試作品とみなされるのが「渡鳥(未完)」「無題(昼は落葉をのせ……)」「無題(秋の夕べの重くるしさ……)」「若き主人の留守(未完)」「無題(屋根又屋根……)」の5編である 。いずれも函館市中央図書館所蔵の「暗い穴の中へ 外七編及詩稿」中の「詩稿」に収められている。

2015年4月27日 (月)

石川啄木伝 東京編 339

 啄木が論じた「工場法案」は『職工事情』(農商務省商工局、1903年)という調査報告書と深くかかわるが、この報告書について大河内一男はこう解説している 。
   ……後進国日本が日清戦争に勝利を収めた後、輸出産業の急速な躍進の波に乗りながら、技術の改善、産業規模の拡大、雇傭の増大、政府の保護などを受けながら、もっぱら「富国強兵」の旗幟の下に、非合理的で酷薄な労使関係を繰りひろげて敢てかえりみなかった時期の記録である。明治十五年前後から日本に近代産業が移植されはじめた当時から、工場法ないし職工条例のごときものを準備することの必要が一部にさけばれていたいかかわらず、一部の官僚を除いては、産業界は全くこれに耳を藉すことなく……工場法実現の提案を一蹴し去ってきたのである。……また日本の産業構造の中で輸出産業が圧倒的な比重を占めていたこと、而もこれらの輸出産業の中ではまた綿糸紡績、生糸、織物のような繊維産業が中心であり、そこに集められた「労働力」は、……九割以上が農村からの「出稼ぎ工女」であった、等の理由によって、……「労働力」の喰い潰しも、……容易に克服清算することが出来なかった。そして、ことの深刻さに気付いて対策が講ぜられ始めたとき(明治四十四年、工場法)は、すでに事態は取りかえしのつかない程に悪化してしまっていたのである
 こうして、先の政井みねの死をめぐる一文は『職工事情』の膨大な内容を凝縮するものとなっている。その死は時代の基底を象徴的に垣間見せる悲劇なのである。
 さて、11月8日頃からの約10日間に啄木は田中王堂のものをまとめて読んだらしい。先の「文芸に於ける具体理想主義」の外に「具体理想主義は如何に現代の道徳を理解するか」(文章世界、09年1月号)「岩野泡鳴氏の人生観及び芸術観を論ず」(中央公論、09年〈明42〉9月号)を読んだと推定される 。おそらく「島村抱月氏の自然主義」(明星、08年〈明41〉8月号)も再読しているだろう。(以下においては、それぞれの論を「文芸」「道徳」「泡鳴氏の」「抱月氏の」と略記する。)
 啄木が王堂の思想を受容したのには訳がある。

2015年4月26日 (日)

石川啄木伝 東京編 338

 「百回通信」は19日稿の第二十八回を以て中断される。その翌日の20日ひとりの若い工女が死んだ。啄木とは全く無関係の死である。しかし「工場法案」や「社会主義」を論ずる啄木には今「労働者」への関心が満ち潮となって高まっている。すでに渋民への移住時代の1906年(明39)3月に社会主義に惹かれ、3000字もついやして「一元二面観」を押し出すことで関心に封印した啄木であった。昨年1月小樽で西川光次郎の演説を聴き、再び関心がよみがえったが、これも釧路生活以後には封印した。
 今年秋、直視する人となった啄木はその封印を切る。
 その1909年(明42)の大日本帝国の基底が見える一文を先に引こう。山本茂美『ああ、野麦峠』の一節である 。
   明治四十二年十一月二十日午後二時、野麦峠の頂上で一人の飛騨の工女が息を引きとった。名は政井みね、二十歳、信州平野村山一林組の工女である。またその病女を背板(せいた)にのせて峠の上までかつぎ上げて来た男は、岐阜県吉城(よしき)郡河合村角川(つのかわ)の政井辰次郎(三一)、死んだ工女の兄であった。
  角川といえば高山からまだ六里余(約二四キロ)、奥飛騨と、越中(富山)との国境に近い、宮川沿いの小さな部落である。ここから岡谷まで七つの峠と三十数里の険しい山道を、辰次郎は宿にも泊まらず夜も休みなしで歩きとおして、わずか二日で岡谷の山一林組工場にたどりついた。
  「ミネビヨウキスグヒキトレ」という工場からの電報を受け取ったからである。
  しかし辰次郎は病室になっている物置きの中へ入ったとたん、はっとして立ちすくんだ。美人と騒がれ、百円工女ともてはやされた妹みねの面影はすでにどこにもなかった。やつれはててみるかげもなく、どうしてこんな体で十日前まで働けたのか信じられないほどだった。
  病名は腹膜炎、重態であった。工場では辰次郎を事務所に呼んで十円札一枚を握らせると、早くここを連れだしてくれとせきたてた。工場内から死人を出したくないからである。辰次郎はむっとして何かいいかけたが、さっきいったみねの言葉を思い出してじっとこらえて引きさがった。
  「兄
(あん)さ、何もいってくれるな」
  みねはそういって合掌した。飛騨へ帰って死にたがっているのだと辰次郎はすぐ察した。みねはそういう女だった。
  準備して来た背板に板を打ちつけ座ぶとんを敷き、その上に妹を後ろ向きに坐
(すわ)らせ、ひもで体を結(ゆわ)えて工場からしょい出した。作業中で仲間の見送りもなく、ひっそりと裏門から出た。辰次郎は悲しさくやしさに声をあげて泣き叫びたい気持をじっとこらえて、ただ下を向いて歩いた。しかし、みねは後ろ向きに負われたままの姿で、工場のほうに合掌していた。その時、
  「おお、帰るのか、しっかりしていけよ、元気になってまたこいよ!」
  あとを追ってきた門番のじいさんが一人だけ泣いて見送ってくれた。
  ……
 辰次郎はみねを背負い、幾夜も重ねて歩き続けた。
 ……野麦峠の頂上
(つじ)にたどりついたのが十一月二十日の午後であった。
  その間みねはほとんど何もたべず、峠にかかって苦しくなると、つぶやくように念仏をとなえていた。峠の茶屋に休んでソバがゆと甘酒を買ってやったが、みねはそれに口をつけず、「ああ飛騨が見える、飛騨が見える」と喜んでいたと思ったら、まもなく持っていたソバがゆの茶わんを落として、力なくそこにくずれた。
  「みね、どうした、しっかりしろ!!」辰次郎が驚いて抱きおこした時はすでにこと切れていた。

2015年4月25日 (土)

石川啄木伝 東京編 337

 鹿野政直は言う。この「百回通信」において
   啄木は、生活への関心のふかまりを、政治思想化し経済思想化する視点を確立したようにみえる。それは、社会主義思想としてはまだ結晶していないけれども、一文学者ないし一ジャーナリストあるいは一人間の時評としては、おどろくべく視野のひろいものである。政治・経済・外交・社会などの問題へのふかい関心が随所に示されており、文芸問題すら政治・社会問題の一局面としてとりあつかわれている。その関心は、イギリスの政治、中国問題、東北振興問題、地租軽減問題、工場法の問題、教育問題などにわたり、かつてのような高踏的超越的な近代批判はかげをひそめ、現実へふみこんでゆこうとする姿勢がいちじるしい。
と。

 「洞然として空虚なる人生の真面目を、敵を迎へた牡獅子の騒がざる心を以て、面相接して直視するといふ事は容易に出来る事ではない」と「人生の真面目」を前にたじろいでいた啄木が「直視する人」となったとき「おどろくべく視野のひろ」さを示す。かれの全資質が徐々に全面的に開花しはじめたのである。 

2015年4月24日 (金)

石川啄木伝 東京編 336

 しかしこの道を歩みつづける決意はすでに固まっている。ただ、この道を歩むための思想的根底はまだ無い。
 しかも、詩から小説に移ったとはいえ、白秋・杢太郎らの「屋上庭園」につづいて泡鳴の言までが詩人啄木の心を揺さぶる。自分はいかなる詩を今後創作すべきなのか、歌は、小説は……、創作のための理念がなくては。そのためにも根底となるべき思想が欲しい。
 11月15日「百回通信」(二十五)を執筆。「工場法案」を論じ、また社会主義に触れる。
  ……同案の一大眼目たるべき労働時間の如きは何等の制限を設けず、但十六歳未満の男子及び一般女子に対して、八時間以上十二時間てふ、あれども無きに等しき範囲を附し、十二歳以下の小児の労働を禁じ、外に傷病者扶助、休息時間、誘拐雇人の予防、傭使の方法、工場の構造設備等の事項を規定してあるに過ぎざる者の如く候。
  ……
  夫
(そ)れ一般近世政治思想の根本的特色は、人類の生活を担保し、安心して之を改善せしむるにあり。此の傾向を最も端的に代表する者は善意に所謂社会主義にして、其思想的経路は近世文明を一貫する解放運動に繋がり、即ち人類の現状を生活の圧迫其物より解放せんとするものにして、其学術的基礎は、人生に対する経済学的研究を成就するに在り。
 ここで問題にしているのは「人類の生活」の「改善」である。ナショナルの結界を超えてグローバルな生活の改善に眼が届いている。しかもその改善が社会主義(社会政策)と結びついて発想されていることに注目したい。

2015年4月23日 (木)

石川啄木伝 東京編 335

 社会主義には1906年(明39)春以来惹きつけられているが、極力これを直視すまいと努めてきたのであった。小樽時代に失業してヤケになっているとき西川光次郎の社会主義に接近したが、ふたたび避けたのだった。以来久々に社会主義への関心を示している。
 11月11日「百回通信」(二十二)を執筆。
 これは11月10日岩手日報に載った「泡鳴来(きたる)」に反応したものである 。岩野泡鳴が樺太で蟹の缶詰業に失敗し帰途盛岡に立ち寄った。インタビューしたのが大信田落花であった。泡鳴はインタービュー後半で中央文壇の小説を論じ、末尾近くで「新体詩では三木露風などは見込があるだらう、然し若いから石川啄木などのやうにだめにならねばいいが………。」と言う。三面のトップで盛岡の人々に向かってこう書かれて啄木もつらかったであろう。「夜半夢覚めて眠りをなし難」くなり起き出して、この「二十二」を綴るのである。その大半は泡鳴賛美の文である。否泡鳴宛の手紙になっている。(新渡戸仙岳もそれを知って、こちらの掲載を一日早めたのであろう 。)終わり近くでこう述べる。
  君は予を目して若くして老いたりと謂へりと。然り、恐らくは予の心(予の浪漫的)は老いたるべし。枯れたるべし。……予は今暗き穴の中に入りて、眼の次第に慣れ来るを待つが如き気持にて、静かに予の周囲と予自身を(注目!)眺めつゝあり。君は積極的の現実に生くる人にして、予は(浪漫的の予は)消極的の現実に死せんとす。
 泡鳴の「積極的の現実」とは「理想の現実」のことである、と啄木は言う。泡鳴は今もその「積極的の現実」に生きていると言う。泡鳴の生き方と作品に敬意と羨望を抱くとともに、正反対の道を歩む自分を思う。啄木自身の「消極的の現実」とは「あるがままの現実」である。自分の「浪漫的(ロマンチツク)」という「理想」は今、「あるがままの現実」に死んでゆこうとしている。こう思うと「利己の涙」が湧く、というのだ。

2015年4月22日 (水)

石川啄木伝 東京編 334

 啄木が「感服し」た「具象理想論」とは「趣味」5月号掲載の「文芸に於ける具体理想主義」であろうか。「具象理想論」は高山樗牛が『近世美学』で紹介した概念であって田中の言葉ではない。田中の「具体理想主義」に触発された啄木は『近世美学』の「具象理想論」を援用して荻原守衛の「労働者」を観ていると思われる。その鑑賞の卓越性 については今は措く。
 2点だけを確認しておきたい。1つは自分の思想的根底として田中王堂の具体理想主義を選びつつあること。もう1つは第4回文展の数ある作品中で日本資本主義の基層をなす新興階級「労働者」の像に刮目したこと。
 11月10日「百回通信」(二十三) を執筆。
  ……友邦英国の社会主義的予算案は、数日前大過半数を以て下院を通過致し候。
  ……由来保守的なる英国にして此事あるは、何人も多大の興味を感じたる所なるべく候。

 啄木が取り上げたのはロイド・ジョージ蔵相が1909年に提出した、富者の負担を急増する予算案である。(この画期的予算案は貴族院と大衝突を引き起こしたが翌年成立。)
  世には社会主義とさへ言へば、直(すぐ)に眉をひそむる手合多く候。然し乍ら、既に立憲政体が国民の権利を認容したる以上、其政策は国民多数の安寧福利を目的としたるものならざる可(べか)らざる事勿論に候。此第一義にして間違ひなき限り、立憲国の政治家は、当然、社会主義と称せらるゝ思想の内容中、其実行し得べきだけを採りて以て、政策の基礎とすべき先天の約束を有する者と可申候。……
 若し之に反して、其政策が少数富豪貴族を利するに偏する様の事ともなれば、啻に立憲の趣旨に戻
(ママ)るのみならず、治国の真諦を没し、従つて国民全般に対して其国民としての義務を尽すを要求する能はざる理論上の破綻に到着致すべく、延いては其破綻が単に理論上の破綻たるに止まらざるに到るべきものに候。
 この場合の「社会主義」とは、内容的にはのちのいわゆる社会政策を意味する。しかし当時にあって、民主主義の根本を把握しかつそれを武器として、堂々と「社会主義」を論じた啄木の見識には驚きを禁じえない。このような知見は元々あったのだが、金を握ると浅草に走り、あるいはローマ字の海にあえいでいたときには、これを論ずべき内的な要求は無かった。足場の無い(思想的根底の無い)生活にあっては無用の代物でしかなかった。
 「生活者」になってはじめて政治・経済等を含むトータルな「国民生活」がかれの眼前に立ち現れた。

2015年4月21日 (火)

石川啄木伝 東京編 333

 11月6日「百回通信」(二十)を執筆。
 永井荷風の「新帰朝者の日記」に見られる「欧米心酔思想」とそこからする当代日本文明批判に痛罵を浴びせたのちこう言う。国を「真に愛する能はずんば去るべきのみ。真面目に思想する者にとりては実に死活の問題たり。既に去る能はずんば、よろしく先づ其国を改善すべし。然り而して一国国民生活の改善は、実に自己自身の生活改善に初まらざるべからず」と。荷風の「所謂非愛国的傾向」を批判する中で啄木は「修身斉家治国平天下」的発想に依って、個人の生活改善と「一国国民生活の改善」とを統一的に考えようとする。
 この時点の啄木には「回心」を根柢から支えるべき思想がない。思想家石川啄木はそれを模索している。
 八日に出した金田一宛絵はがき(荻原守衛の「労働者」)は啄木が一人の思想家を見出したことを知らせる。
  いくら見ても飽きぬは此男のツラに候。田中氏の具象理想論に感服したる小生はかういふツラを見て一方に英気を養はねばならず候。
 「田中氏」は王堂田中喜一。五月、かれの「近世文壇に於ける評論の価値」を読んで啄木が評論の価値に目覚め「胃弱通信」を書いたことはすでに見た。今書いている「百回通信」もその延長線上にある。

2015年4月20日 (月)

石川啄木伝 東京編 332

 「誰に向つて胸の霽らしやうも無い」カツが「あなたなればこそ、お話が出来ます」とはじめて人に語った心中。無表情の節子。この「雰囲気」が二人の間を今後も流れる底流である。夫の自己変革、12月20日の一禎の上京・同居などが時々の緩衝材になったとしても。
それにしても先の節子の手紙は、夫婦の関係が好転しつつあることを語っているようである。
 11月5日執筆の「百回通信」十九は発禁問題を取り上げる。
拝啓。文芸取締に関する論議は既に幾年となく繰返されたる処、而して未だ何等の適当なる解決を与へられざる処に御座候。曩(さき)に生田葵山君あり。一作を成す毎に其筋の忌諱(きゐ)に触れて遂に病躯を法廷に立たしめらるるに至り、今は念を文芸に絶ちて美夫人と共に横須賀に匿れ居候。理窟は別として同情すべき事に御座候。以前は発売禁止といふ事は珍らしき出来事として喧伝せられたるものに候ひしが、近頃にては月として雑誌若くは単行の其厄に罷らざる月なき有様に候。医学文学の二博士を兼ね、身陸軍々医総監として陸軍省医務局長たる森氏の作物の如きも亦同じ運命に逢ひ候。社会現象としては随分矛盾ある出来事と可申候。……
 生田葵山の「都会」を掲載した「文芸倶楽部」が発禁になったのは1908年(明41)2月であった。「以前は発売禁止といふ事は珍らしき出来事」だったのに、「近頃にては」毎月雑誌や単行本の発禁がある、と政府の言論弾圧の異常を認識・指摘している。そして森鴎外の「ヰタ・セクスアリス」とこれを掲載した「スバル」7月号までが発禁になったと言う。が、国家権力の理不尽を批判するするわけではない。「国家とか何とか一切の現実を承認して……」 というのがこの時期の啄木の立場なのである。
 そうは言っても「スバル」の編集兼発行人である啄木の「スバル」発禁で受けた異常な衝撃の消えるはずが無い。この通信執筆こそがその証拠である。

2015年4月19日 (日)

石川啄木伝 東京編 331

  それ(節子の帰宅-引用者)から幾日程立つてからであつたか、私が石川君方を訪れると、君は不在だつた。帰らうとすると、母堂が断つて引留められるので、上つて坐ると、節子さんが、先般来の挨拶をされて御茶を入れられた。母堂は差向ひに長火鉢にあたりながら、この間ぢゆう、石川君が辛くあたつたことを私へ訴へ、段々自分で昂奮して涙を出して震ひ乍ら『もうもう私は、どんなことがあつたからつて、どんなことだつて我慢します。私は本当にこの年になつて、あんな辛い、死ぬやうな、死ぬよりも辛い目に逢はされました。気狂ひになつて死んでしまふか、いぢめ殺されてしまふかと思ひました。もう死ぬ迄我慢します。死んだ気になつて我慢します』段々語勢が強くなつて、そこに嫁さんを置きながら、つけつけと其のかどかどを指弾されるに至つて、私が困つてしまふと、母堂は、『だつて私は、お国訛りで、何処へ向いてもお話しが出来ないんですもの、誰に向つて胸の霽らしやうも無いんですもの、悔しいやら、苦しいやら、情ないやら。この年になつて、旅の空へ出で、あなたなればこそ、お話が出来ます。堪へて堪へて、今まで胸に畳んでゐたことを始めて今云ふのですから、どうか聞いて下さいまし。一に云へば一言に叱られます。この人の為にです。この人為に本当に本当にひどい目にあひました。一は、この人さへあれば、母などは死んでも好いのでせう…………』と、おいおい泣かれる。さもさも憎さうに、間々へ痛烈な当てこすりが、刺すやうにとげとげしく出るのに、私は、はらはらして、節子さんはと気遣つて、そつと目をやると、これは又、大理石の像のやう。病気上りの蒼白な顔がぴんと緊まつて、眉毛一本動かさず、頬に昇る血の色ひとつ無く、全く無表情に、何の反応も、しのびやかにさへ、顔へあらはれない、我慢づよさ、その真剣さは、却つてぞつとする程深刻に、雰囲気は緊張する一方だつた。

2015年4月18日 (土)

石川啄木伝 東京編 330

 さて、11月になった。2日せつ子は郁雨の新妻になった函館のふき子に手紙を書く 。
  私が居ないあとでおつ母さんをいぢめたさうです。そして家事はすべて私がする事になりました。六十三にもなる年よりが何もかもガシヤマスからおもしろくないと云ふておこつたさうです。おつ母さんはもう閉口してよわりきつて居ますから、何も小言なんか云ひません。くわしい事はいつか兄さんに書かうと思ひます。
  着京そうそう医者に見てもらひました。其の後気分もサツパリして心地よいやうです。
 啄木が期待したように「雨ふつて地堅まるの結果に立至」ったようだが……。
 以下は、金田一京助の20数年後の記憶であるが、かれはこの家出事件にもっとも深く関わっているのでその思い出は貴重である。後年の金田一特有の思い込みと「創作」があるとはいえ、諸資料と照らし合わせるなら、その後の嫁姑関係の雰囲気を充分に伝えている。

2015年4月17日 (金)

石川啄木伝 東京編 329

 暗殺者を擁護する啄木の論理はこうなるであろう。
 伊藤は日本帝国の利益の代表者として韓国の植民地化を推進した。日本人の側の目から見る限り、その伊藤は韓国においても大政治家としての生涯の一ページを記したのである。しかし亡ぼされつつある韓国の人々には正反対の言い分がある。インドやポーランドという亡国の民の場合と全く同じに。この国を亡ぼそうとする国(日本)を、人間(代表が伊藤)を、かれらは絶対に許さない。啄木はこの立場を認める。韓国の側に立てばさらに、その言い分を実行する権利がある、実行の中には要人暗殺もふくむありとあらゆる闘争形態がありうる、ということになる。
 啄木はこうした立場を認めるからこそ、「其損害は意外に大なりと雛ども、吾人は韓人の愍(あはれ)むべきを知りて(韓人が気の毒だとは思っても―近藤訳)、未だ真に憎むべき所以(ゆゑん)を知らず。」と書いたのである。

ブログ再開のご挨拶

 今年3月に『最後の剣聖 羽賀凖一』という本を同時代社から出しました。23、4歳のころから、大剣道家羽賀凖一先生のことを、本にして後世に遺せたらどんなにいいだろうと思っていました。わたくしが啄木研究など夢想もしなかったころからの、ひそかな志でした。
 この度素志が実現しました。剣道に興味をもつ啄木研究者・愛好者は稀と思います。もしもご興味を持った方は、同時代社のHPで『最後の剣聖 羽賀凖一』の目次などご覧下さい。
 この本は半年長くても1年で書き終える予定でした。1年間だけ啄木伝執筆を中断しよう。これは76歳のわたくしには非常に不安な決断でした。その1年間のために石川啄木伝が未完に終わったら、どうしよう。
 実際は1年どころか2年かかってしまいました。今わたくしは76歳です。健康寿命はともかく、研究者頭脳がこれから2年間存続できるだろうか。不安です。
 5月から石川啄木伝執筆にもどろうと思います。啄木1910年(明治43年)3月~1912年4月までの分が残っています。これを書き上げてこそ「それを仕遂げて死なむと思ふ」です。
 その前に長い間連載しまた中断もした、この「ブログ石川啄木伝」を終わらせようと思います。1909年末までの分をこれから掲載し、そこで中断しようと思います。
 1910年(明治43年)1月~1912年4月分は『石川啄木伝』という本の終わりの方でご覧いただけるよう、力を尽くしたいと思います。
 
 あと2年間研究者寿命があるよう祈りつつ。  近藤典彦
 

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