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2015年5月 3日 (日)

石川啄木伝 東京編 345

 「きれぎれに心に浮んだ感じと回想」を見てみよう。
 自分の生活は「二重の生活」だと気が付いてゐながら、我々にはそれを統一せねばならぬといふ一大事を考へずにゐる場合が多い。さうして全く疲れ果てて了ふまで、二重三重の生活に何処までも沈んで行く。 
 「さうして全く疲れ果てて了ふ」様をわれわれはロ-マ字日記の6月の条に見た。啄木は今「二重の生活」を「理想」によって「統一」すべく奮闘している。
 他方で啄木は同じ評論で王堂をはるかに超える次元の問題提起をする。
  問題がより大きい時、或は其問題に真正面(まとも)に立向ふ事が其時の自分に不利益である時、我々は常に、何等かの無理な落着を拵へて自分の正直な心を胡麻化し、若くは回避しようとする。止むを得ない事ではあらうが、一度、「自己の徹底」とか「生活の統一」とかいふ要求を感じて来た時に見れば、それは言ふ迄もなく一種の恥づべき卑怯である。
 自分自身の昨日を省み、新聞、雑誌、著書等によつて窺はれる日本現代の思潮に鑑み、私は今特に此一事を千倍万倍に誇張して言ひたいやうな心持がする。

 直視が怖くて自己の真実と「人生の真面目」から目を逸らし「胡麻化し」つづけた8年間への真摯な自己批判を踏まえた提言である。とくに「自己の徹底」に注目したい。「自己の徹底」とは「時々刻々自分の生活(内外の)を豊富にし拡張し、然して常にそれを統一し、徹底し、改善してゆく 」ことを意味するようである。「生活の統一」とならんで今後しばらく啄木のモットーとなる。
 この「自己の徹底」は長谷川天渓の「現実主義の諸相」(「太陽」1908年6月)を批判する中でうちたてられていった。(「自己の徹底」とは、自己の内的生活=思想・作品の豊富化・拡充、その外的生活への拡大・拡充、と規定してよいであろう。)
 天渓はこの評論で「自我は、何処まで拡大し得るものであらうか」と自問し、「此の自我を日本帝国といふ範囲まで押し拡げても、毫も現実と相離れ、或は矛盾するやうのことは無い」という。昨年の生田葵山「都会」裁判以来、発禁また発禁の憂き目を見ている自然主義文学の、代表的論客長谷川天渓のこの言である。
 発禁になった自然主義の諸作品にくらべると、理性と知性によって統御された?外の「ヰタ・セクスアリス」およびその掲載紙「スバル」7月号さえ、国家によって発禁にされたのはつい最近のことである。その「スバル」の編輯兼発行人は当の啄木であった。
 啄木は天渓に向かって論難する。 
 長谷川天渓氏は、嘗て其の自然主義の立場から「国家」といふ問題を取扱つた時に、一見無雑作に見える苦しい胡麻化しを試みた。(と私は信ずる。)謂ふが如く、自然主義者は何の理想も要求もせず、在るが儘を在るが儘に見るが故に、秋毫も国家の存在と牴触する事がないのならば、其所謂旧道徳の虚偽に対して戦つた勇敢な戦も、遂に同じ理由から名の無い戦になりはしないか。従来及び現在の世界を観察するに当つて、道徳の性質及び発達を国家といふ組織から分離して考へる事は、極めて明白な誤謬である――寧ろ、日本人に最も特有なる卑怯である。
 啄木の言い分はこうである。日本における「道徳の性質及び発達」は「日本帝国」という「国家」と不可分の関係にある。自然主義者の自我が「旧道徳の虚偽」と確執をかもしたのであれば、これと不可分の関係にある「国家」とも確執をかもす可能性がある。天渓はこれを恐れて「道徳の性質及び発達を国家といふ組織から分離し」た。そして「自然主義者は……秋毫も国家の存在と牴触する事がない」ともっていった。これは「日本人に最も特有なる卑怯」である。
 こう論難しながら、啄木は自らを抜き差しならぬ場へと押し出す。自分がもし「卑怯」でないというのなら、「国家の存在と牴触する」場合はこれと確執をかもすことを辞さない、ということになるのだから。
 「ヰタ・セクスアリス」・「スバル」の発禁という経験は、直視する人石川啄木の中で、今「国家との確執」の思想として醸成されつつある。

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