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2015年5月 5日 (火)

石川啄木伝 東京編 347

 さて、自己の閲歴を踏まえた詩論は「食(くら)ふべき詩(五)」から展開される。要旨は以下のようである。
 「食ふべき詩」の主張。それは「両足を地面(ぢべた)に喰(く)つ付けてゐて歌ふ詩」「実人生と何等の間隔なき心持を以て歌ふ詩」である。「珍味乃至(ないし)は御馳走ではなく、我々の日常の香の物の如く、然(しか)く我々に『必要』な詩といふ事である」。これは自然主義がすでに主張し実行している「口語詩」に通じてゆく。
 では、詩人はいかなる人であるべきか。資格は三つある(「食ふべき詩(六)」)。
 詩人は先第一に「人」でなければならぬ。第二に「人」でなければならぬ。第三に「人」でなければならぬ。さうして実に普通人の有つてゐる凡ての物を有つてゐるところの人でなければならぬ。
 詩人は徹頭徹尾生活者でなければならぬ、と言う。ではこれまでの「詩人」はどう評価されるのか。
 自己の弱点を抉り出した刃は、そのまま「屋上庭園」や「スバル」等に拠る詩人歌人に向けられる。
  ……今迄の詩人のやうに直接詩と関係のない事物に対しては、興味も熱心も希望も 
 有つてゐない――餓えたる犬の食を求むる如くに唯々詩を求め探してゐる詩人は極力排斥すべきである。

 「明治四十一年日誌」の9月10日の条にこうあった。
  謂つて見ようなら、北原君などは、朝から晩まで詩に耽つてゐる人だ。故郷から来る金で、家を借りて婆やを雇つて、勝手気儘に専心詩に耽つてゐる男だ。詩以外の何事をも、見も聞きもしない人だ。乃ち詩が彼の生活だ。

 批判の矛先が向けられているのは白秋一人ではなかろう。しかし真っ先に批判の対象として念頭にあるのは白秋と思わざるをえない。ずいぶん酷な批判である。
 意志薄弱なる空想家、自己及び自己の生活を厳粛なる理性の判断から回避してゐる卑怯者、劣敗者の心を筆にし口にして僅かに慰めてゐる臆病者、暇ある時に玩具を玩ぶやうな心を以て詩を書き且つ読む所謂愛詩家、及び自己の神経組織の不健全な事を心に誇る偽患者、乃至は其等の模倣者等、すべて詩の為に詩を書く種類の詩人は極力排斥すべきである。
 勇、杢太郎、秀雄等からはじまって、果ては永井荷風や上田敏や与謝野夫妻までが念頭にあるようだ。批判は酷に過ぎる、的を外している面もある。現に白秋詩を読むとすぐにこれにうたれ、触発されて試作した無題の二編があったことはすでに見た。
 しかし「生活者詩人」石川啄木誕生の宣言であることはまちがいない。

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