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2015年5月 6日 (水)

石川啄木伝 東京編 348

 宣言はつづく。
 即ち真の詩人とは、自己を改善し、自己の哲学を実行せんとするに政治家の如き勇気を有し、自己の生活を統一するに実業家の如き熱心を有し、さうして常に科学者の如き明敏なる判断と野蛮人の如き率直なる態度を以て、自己の心に起り来る時々刻々の変化を、飾らず偽らず、極めて平気に正直に記載し報告するところの人でなければならぬ。
 今自分がそうあろうとしている詩人像を真剣に描いている。そして主張すればするほど、強調すればするほど、これまでの詩人仲間・諸先輩からは遠ざかってゆく。
 「自己の心に起り来る時々刻々の変化」はわかりにくいが、王堂の「現実」概念を参考にするとなんとか理解できよう。
  ……現実は何物に限らず、凡べて意識に顕はれ、思想を動かし、行為を決する所のものであるとすることである。併しあらゆる意識とあらゆる思想と、あらゆる行為とは、生活を持続するが為めにのみ、出現し、動作して居るものであつて、又是等のものが是の役目を充たすには、過去に組織された経験に依つて、新たに生ずる刺激を支配することを唯一の方法として居るのであるから、如何なる場合に於ても時々刻々に生ずる直接経験が現実の心核と成つて居る……
 啄木は「自己の心に起り来る時々刻々の変化」を「意識に顕はれ」た「現実」と考え、これを表現するのが自分の詩であると考えたのであろう。すでに昨年7月小田島理平宛書簡で短歌は「複雑なる近代的情緒の瞬間的刹那的の影を歌ふに最も適当なる一詩形」ととらえていた啄木が、このたびは王堂をヒントに短歌観の発展としての現代詩観を提出したのであろう。この1年半で啄木の現実認識は大飛躍を遂げているから、かれの「心に起り来る時々刻々の変化」すなわち「現実」の姿は、あの時とは比較にならぬ深さと広さを内包した「心」の姿すなわち「心象」 のはずである。
 これを「飾らず偽らず、極めて平気に正直に記載し報告する」詩であるべきだという。
「食ふべき詩(一)」では『あこがれ』時代の自分の詩作についてこう述べていたのであった。
 それは、実感を詩に歌ふまでには、随分煩瑣な手続を要したといふ事である。譬へば、一寸した空地に高さ一丈位の木が立つてゐて、それに日があたつてゐるのを見て或る感じを得たとすれば、空地を広野にし、木を大木にし、日を朝日か夕日にし、のみならず、それを見た自分自身を、詩人にし、旅人にし、若き愁ひある人にした上でなければ、其感じが当時の詩の調子に合はず、又自分でも満足することが出来なかつた。
 こうした「手続」を用いずに「現実」を「極めて平気に正直に」詩にすることを主張しているのである。これは「食(くら)ふべき詩(七)」の以下の詩論と内容的に重なる。
 詩は所謂詩であつては可けない。人間の感情生活(もつと適当な言葉もあらうとは思ふが)の変化の厳密なる報告、正直なる日記でなければならぬ。従つて断片的でなければならぬ。――まとまりがあつてはならぬ。(まとまりのある詩即ち文芸上の哲学は、演繹的には小説となり、帰納的には戯曲となる。詩とそれらとの関係は、日々の帳尻と月末若くは年末決算との関係である。)
 詩は「まとまりがあつてはならぬ」はどう考えたらよいか。詩は「自己の心に起り来る時々刻々の変化」をうたうものだ、の一節を想起すればよかろう。これは啄木の詩論の前提である。詩の「まとまり」はその前提においてすでに省かれているのである。
 ……我々の要求する詩は、現在の日本に生活し、現在の日本語を用ひ、現在の日本を了解してゐるところの日本人に依て歌はれた詩でなければならぬ……。
 「現在の日本に生活し」は「国民生活(ナシヨナルライフ)」の不可欠の一環を生きている、の意であろう。「現在の日本語を用ひ」は「口語」の使用を指していよう。「現在の日本を了解してゐる(「現在の」にこめられた意味は大きい。あの「百回通信」はその「了解」の一端である。

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