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2015年5月10日 (日)

石川啄木伝 東京編 352

 次に行こう。東京毎日新聞12月13日。

   心の姿の研究(二)   石川啄木 

    起きるな
  
  西日をうけて熱くなつた
  埃だらけの窓の硝子よりも
  まだ味気
(あぢき)ない生命(いのち)がある。

  正体もなく考へに疲れきつて、
  汗を流し、いびきをかいて昼寐してゐる
  まだ若い男の口からは黄色い歯が見え、
  硝子越しの夏の日が毛脛を照し、
  その上に蚤が這ひあがる。

  起きるな、起きるな、日の暮れるまで。
  そなたの一生に涼しい静かな夕ぐれの来るまで。
 
  何処かで艶
(なまめ)いた女の笑ひ声。
 
 「西日をうけて熱くなつた/埃だらけの窓の硝子」は詩人が「味気ない」ものとしてあげるもの。この比喩は、詩の昼寐男のイメージの背景でもある。(山本健吉)
 それよりももっと「味気ない生命」があるという。つぎの連の「若い男」のそれである。この連の5行中もっとも注意すべきは、「考へに」の3文字である。肉体を酷使して「疲れきつた」のではない。考えることに「疲れきつた」のである。何を考えたのか具体的には分からない。が、結局は「味気(あぢき)ない」内容であろうこと、男が「一生」考えても益のない事柄であろうことが詩の全体によって示唆されている。
 無益の「考へに疲れきつて、……昼寐をしてゐる」のだから、定職に就いているのやらいないのやら。ともかく勤めに精を出しているような男ではない、「まだ若い」のに。「黄色い歯」とあるから、歯も磨いていないのかもしれない(昔は歯を磨かない人も多く、そういう人の歯は歯くそで黄色くなっていた)。ますます仕事に出ているのか疑わしい。
 5行目の「夏の日」もこの詩のキーワードである。前に見た啄木のエッセイ「汗に濡れつゝ」の(一)から引こう。
  ……夏の姿は弛廃(ちはい)の姿である。倦怠の姿である、……憐れな人間は肉体の弛みと精神の疲労(けだるさ)を抱いて、懶(ものう)げな手付をして流るゝ汗を拭いてゐる。鈍い眼、たるんだ肉、締りのない口、だらしない其恰好は、融けかゝつた蝋人形の様である。夏の生活は醜い生活だ。
  若しもプツプツと油汗の湧く皮膚の一片をとつて顕微鏡に照して見たなら、其処に倦み疲れた我等の人生の、飾らず偽らざる如実の姿が映るかも知れぬ。――あゝ可厭(いや)なこツた
 このエッセイを挿んで詩にもどると、「夏の日」の「弛廃」と「倦怠」は今「埃だらけの窓の硝子」の外にも内にも普く行きわたり、男を囲繞する。「若い男」の「弛廃」と「倦怠」は、外界と同一化する。
 だから「夏の日が毛脛を照らし、その上に蚤が這ひあが」っても、男は目が覚めないのだ。
 詩人はささやく。起きてもその「肉体の弛みと精神の疲労」を癒やしたり活気づけたりしてくれるものはない。だから「起きるな、起きるな」と。せめて「弛廃」と「倦怠」の「夏の日」の「暮れるまで」は、と。
 しかし詩人はこの若者にまことに手厳しい。つぎの一行にゆこう。「一生」は第1連の「味気ない生命」と同じことと思われる。「生命」とは生きている期間を意味するから。この一行はこうなろうか。「そなたの」「西日をうけて熱くなつた/埃だらけの窓の硝子よりも/まだ味気ない生命」が「弛廃」と「倦怠」から解放される時まで(「涼しい静かな夕ぐれの来るまで」)、つまり死ぬまで、「起きるな」と。
 仕事もしないで無意味無意義に「考へ」てばかりいるいわば非生活者への、生活者詩人からの手厳しいアイロニーの一撃である。
 詩人は最後にもうひとつアイロニーを用意していた。
 何処かで艶いた女の笑ひ声。
 汗を流そうが、日が照りつけようが、蚤が這い上がろうが起きる気配の無い男の「味気ない生命」を刺激し、眼を覚まさせるものがひとつだけあるという。「女」だ。「若い男」に残った最後の刹那的刺激剤、「女」。「女の笑ひ声」は「若い男」への仕上げの一撃である。
 こう読んでくると、われわれは思い起こさずにいられない。たとえば「ローマ字日記」終わりころの啄木を。つい半年ばかり前の6月上旬の何日間かを「髪がボウボウとして、まばらな髭も長くなり……弱った体を、10日の朝まで3畳半に横たえていた」啄木を。  
 前年の11月からは少しでも金を握ると浅草に女を買いに走った啄木だった。
 その意味でこの詩は最近までの啄木自身の自画像という側面も持っている。自然主義を受容できるまでに自己変革した啄木が、自己告白の一面をもつ詩を作るのはごく自然であるが、この詩の「若い男」は単なる自画像ではあるまい。むしろこの詩によって「汗に濡れつゝ」にある「倦み疲れた我等の人生の、飾らず偽らざる如実の姿」を描こうとしたのであると思われる。その傍証となるのものとしてこの詩の「詩稿」がある 。そこでは「味気ない生命」は「味気(あぢき)ない世の中」となっている(「世の中」の左に「いのち」という語も添えてある。決定稿ではこちらをとって「生命(いのち)」としたのであろう)。
 つまりこの詩は「味気ない生命」の向こうに「味気ない世の中」までを見ているのだ。そうするとこれは「国民生活(ナシヨナルライフ)」の一断片でもある。そして松本健一によると、この詩は「大正なかごろになって顕在化する、都会に浮遊する『大衆(マス)』の心象風景」になっている 。とすれば一種の予言的な詩でもあるということだ。
 松本健一の示唆に富む読み方をもう少し引こう 。
  ……尾形亀之助が昭和十七年に発表した「大キナ戦」という散文詩がある。啄木の「起きるな」という詩は、最後の一行を除けば、この「大キナ戦」という大正から昭和にかけての不定職的なインテリゲンチャの詩に、一直線に繋がってゆくところがあるのだ。
と言って「大キナ戦」の全体を紹介し、さらにこう述べる。
  もちろん、この詩には、「大きな戦争」までも日常化してしまおうという、昭和十七年当時の尾形亀之助の意思をよみとることができる。だが、そういった時代的刻印を取り去ってみれば、社会から置き去られたかたちで、都会の安下宿か何かで日がな物思いにとらわれ、はては疲れて眠りにおちてしまう不定職的なインテリゲンチャの情況が、啄木の「起きるな」に酷似してさえいるといえよう。
  ところが、啄木の「起きるな」という詩は、そういった都会に浮遊する知的大衆の生活的現実に密着しつつ、最後の1行に至って、これを鮮やかに反転させるのだ。生きる意思さえあるのかわからないで、眠りこけている青年の、情欲を呼び醒ますかもしれないような「艶いた女の笑ひ声」を登場させるのだ。疲れきって眠っている男と、その女の声との対比は、これまでの啄木詩にはみられないほど、見事な劇的展開になっている。

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