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2015年5月11日 (月)

石川啄木伝 東京編 353

 東京毎日新聞一二月一六日発表の詩に行こう。

   心の姿の研究(三)   石川啄木
   
    事ありげな春の夕暮
  
  遠い国には戦があり………
  海には難破船の上の酒宴
(さかもり)………

  質屋の店には蒼ざめた女が立ち、
  燈火
(あかり)にそむいてはなをかむ。
  其処を出て来れば、路次の口に
  情夫
(まぶ)の背を打つ背低い女――
  うす暗がりに財布を出す。

  何か事ありげな――
  春の夕暮の町を圧する
  重く淀んだ空気の不安。
  仕事の手につかぬ一日が暮れて、
  何に疲れたとも知れぬ疲(つかれ)がある。

  遠い国には沢山の人が死に………
  また政庁に推寄せる女壮士のさけび声………
  海には信天翁
(あはうどり)の疫病………

  あ、大工の家では洋燈(らんぷ)が落ち、
  大工の妻が跳び上る。

  小川武敏は詩編「無題(秋の夕べの重くるしさ……)」の「主題は、二度繰り返される〈秋の夕べの重くるしさ〉であり、それは一九〇九年秋の作者を囲繞する生の重苦しさの反映にほかなるまい。しかも、これが詩篇『心の姿の研究』各詩の発想の原型となり、ここから湧いたイメージが各詩へ分化発展していったようなのである」と論じた 。
 「事ありげな春の夕暮」が「秋の夕べの重くるしさ」に発しているのはたしかと言えよう。しかし「春の夕暮」ではなく「秋の夕暮」であれば、どうしても三夕の歌などに典型的な日本人共通の「秋の夕暮」という磁場が強力に働いてしまう。また啄木自身にこの詩を「秋」から引き離したかったという事情もあろう。
 さて、作品を読んでゆこう。

 第1連は2行であるが、奇抜である。
 「遠い国では戦」という大きな〈事件〉がある、という。「遠い国」のイメージの反射は〈この国〉であるが、そこでの〈事件〉はふれられぬままだ。
 〈この国〉からはよその国はみな海のかなたにある。とくに「遠い国」であれば間に横たわる海は果てしない。
 その海には「難破船」。「難破」は座礁などによるものではなく、何らかの故障で漂流を余儀なくされた船、の意であろう。船の人々の明日はどうなるのか、まったく分からない。どこかに漂着できなければ、食料の尽きると共に全員の死がまっている。それなのに船の上では「酒宴………」。
 今井泰子は「難破船の上の酒宴」に「かつての啄木も含めて頽唐派詩人達が人生態度を託して歌った船ないし難破船や酒宴の詩を想起してよいかもしれない。」と言う 。第四連に出て来る「信天翁」とも関連して参考になる。啄木はパンの会の耽美派詩人歌人をダブらせていると思われる。こう理解すると、すでに見た「食ふべき詩(六)」に際だった耽美派の詩人歌人批判がこの詩にも貫かれていることになる。パンの会は画家・詩人たちの「酒宴)」でもあった。日比谷・松本楼の大会はつい先日のことであった。
 この見地から見ると、「海」は別の意味合いも帯びてくる。それは第二連・第四連との「関連の中から出て来る。

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