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2015年5月16日 (土)

石川啄木伝 東京編 358

     

 おのれより富める友に愍(あはれ)まれて、
 或はおのれより強い友に嘲られて
 くわつと怒
(いか)つて拳を振上げた時、
 怒らない心が、
 罪人のやうにおとなしく、
 その怒つた心の片隅に
 目をパチパチして蹲
(うづくま)つてゐるのを見付けた――  
 たよりなさ。

 あゝ、そのたよりなさ。

 やり場にこまる拳をもて、
 お前は
 誰
(たれ)を打つか。
 友をか、おのれをか、
 それとも又罪のない傍らの柱をか。 

 
 この詩には2つの詩稿が残されている。より完成形に近い詩稿との間にも様々な異同がある。だが決定的なちがいは1箇所だけといってよい。詩稿には(もう一つの詩稿にも)第1行目の「おのれより富める友に愍まれて、」がない。詩稿は「おのれより力ある友に嘲られて、」で始まる。
 この方が「くわつと怒つて拳を振上げた時」へのつながりはずっと良い。「富める友に愍(あはれ)まれて」「拳を振上げた」りするのは不自然である。清書・送稿直前の追加とみられる。
 この追加によって、「くわつと怒つて拳を振上げ」るのは動作ではなく心の動きの、表現となる。しかし第一行が加わったことで、「怒り」の陰翳は深まる。
 詩はこんな構造になっている。 
 自尊心を傷つけられて怒る心が生じた「おのれ」(これを我Ⅰとしよう)。
 我Ⅰは「拳を振上げ」る。
 その瞬間に「怒らない心」(相手の富や力にへつらう卑屈な心)が生じたことに気づく(「罪人のやうにおとなしく、/目をパチパチして蹲つてゐる」)。
 2つの心の間で動揺する(たよりない)我が出現する(われⅡ)
 「あゝ、そのたよりなさ。」
 次の瞬間に第3の我が出現して、我Ⅱの行動を観察する。
 2つの心をめぐる3つの自我のドラマをこの短い詩で描いたのである。まさに「心の姿の研究」として傑作と言えよう。このような「我」の刹那の姿をより簡潔に多様に描くことになるのが、3、4か月後に創始される啄木短歌である。
 しかしこの詩の評価は従来低い。山本健吉は「心の姿の研究」五編の中では「いちばん低調である」と言った 。松本健一も「気がききすぎて、易きに流れている」と評する 。
 木股知史が「分裂した心の動きの視覚化が試みられているが、散文的な描写によってそれが行われるため、理に落ちた説明を聞くようである」と言い、「内面の『たよりなさ』、すなわち自我のもろさという主題は、きわめて新しいものであった」と評価した 。
 たよるべき自我の喪失、このテーマは百年後の今も新しい。もう一度読み直されてよいのではないか。

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