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2015年5月18日 (月)

石川啄木伝 東京編 359

 「柳の葉」と「拳」が東京毎日新聞に載ったのは前述のように12月20日。この日節子は函館の宮崎ふき子に手紙を書いた。その中に「宅(啄木)は私の先日のことがあった以来どうしても新山堂やいずれ私の身内のものには手紙をかくと気げんが悪くてこまります」とある。啄木は節子がふたたび居なくなることを非常におそれている。そして節子にもその気がありそうである。啄木の警戒は死の直前までつづき、節子の家出の気配もまたおさまらず、1年半後に一騒動起きる。
 21日か22日父一禎が野辺地から上京してきた。床屋の2階の6畳間2間に5人家族。23歳の啄木の痩せた双肩に5人の生活がのしかかる。すでに見たように父一禎は「ただ者」ではない。節子の苦労もふえるであろう。ただ一禎がカツと節子の間で緩衝作用をはたしたかも知れない。啄木は一家5人の生活を維持するためますます奮闘するであろう。
 啄木は20日の発表をもって詩の方を中断し、東京毎日新聞に評論「文学と政治」(上下)を発表した(19日と21日)。
 戸川秋骨が国民新聞の12月8日・9日に書いた「文学と政治」という文章に反応したのである。啄木は「文学と政治」の「比較論が人の話頭に上るやうになつたといふのも、文学と実際生活との交渉が余程具体的に考量されるようになつたといふ事を証明するものである」ととらえたのである。そして「斯ういふ傾向は……いつかはそれが一つの重大な勢力となつて、将来の日本の文学の内容にも或る変化を与へる時期があるだらう」と予言する 。
さらに唯物論的な近代文学史の見取り図さえ示す。
  遡つて言ふと、『文学界』の人々及び民友社の一団の文学的運動は、国会開設騒ぎの後であつた。紅露対立の盛時も、天外の写実主義唱道も、樗牛博士を中心にした活動及び其の晩年の一種の革命も、すべてそれらは日清戦争といふ大事件に前後して起つた政治的な出来事の後であつた。(詳しく考へ合して見たら随分面白からうと思ふ)そして、輓近自然主義の運動――日本文学に於ける今日迄の最大の運動は、実に、日本帝国が明治になつて以来の最大の事件であつた日露戦争の後に於て起つたのである。
 「文学と政治」という評論は上田博が指摘するように田中王堂の「文芸に於ける具体理想主義」を手引きにしている 。この箇所もそうである。ただし王堂の論は漱石が評したとおりあまりに内実に乏しい。その論が啄木の手にかかると卓論となって現れるのである。

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