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2015年5月24日 (日)

石川啄木伝 東京編 362

 さて、自然主義が「出歯亀主義」なる別名をいただくほどになると、世間の自然主義バッシングもひどくなった。個人主義的思潮の勃興を警戒する国家権力は自然主義狩りに乗り出した。
 その端緒が1908年(明41)2月の生田葵山「都会」を風俗壊乱の作と断じて、掲載誌「文芸倶楽部」を発禁にした事件である。権力はこれを発禁にとどめずに異例の告訴におよんだ。裁判の結果は罰金刑(生田葵山20円、編集兼発行責任者石橋思案40円)であった。
 「都会」事件以後発禁は激増した。啄木が「百回通信 十九」で「以前は発売禁止といふ事は珍らしき出来事として喧伝せられたるものに候ひしが、近頃にては月として雑誌若くは単行の其厄に罷らざる月なき有様に候。」と書いたのはすでに見た。
 自然主義の中心的存在田山花袋・島村抱月・長谷川天渓等は亀のように首を引っ込めてなすところを知らなかった。
 田山花袋は「都会」の発禁に際して、世間では島崎藤村・国木田独歩・佐藤紅緑・生田葵山そして自分を「往々同一視してゐる。……私はこれに対して不快で堪らない。全体私などにいはせると紅緑君や葵山君などは余りに肉を多く書きはしないかと思はれる」と言って、発禁の厄に遭った葵山をかばうどころか異分子扱いした。こうすることで花袋自身「官憲による自然派小説の抑圧という事件の本質」から目を逸らせ、表現の自由を求める闘いを回避したのである。
 自然主義の理論的支柱と目されていた島村抱月は葵山・紅緑等といっそう距離をおき、権力の弾圧を避けるために、自然主義の積極的要素を骨抜きにする理論的企てを展開した。08年(明41)5月号「早稲田文学」に発表した「自然主義の価値」がそれである。この論は09年がそれをめぐる無駄な議論であけくれたといわれる「観照と実行(あるいは実行と芸術)」論争の発端の一角を形づくることにもなった。
 この論争の火付け役の一人が長谷川天渓であり、「自然主義と本能満足主義の別」(「文章世界」08年4月号)を書いて「観照と実行(あるいは実行と芸術)」論争の口火を切っていた。さらに「現実主義の諸相」発表し(「太陽」08年6月号)、発禁を強行し表現の自由を抑圧する国家に媚びを呈する様を、啄木がこれを批判する様を、われわれはすでに見ている。
 こうした事態は自然主義の派手で一見勇ましい標語の奥にある実体が姿を現した結果に過ぎない。

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