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2015年5月

2015年5月30日 (土)

石川啄木伝 東京編 365

 これらの自然主義評価において、啄木にはめずらしいほどの錯誤をおかしている。しかしつぎのくだりには新生啄木の面目が躍如としている。
   以上は実に過去一年間に於ける日本文学の主潮の推移の意味である、と私は見る。斯くの如き推移は、決して彼の観照と実行に関する論議の如く、風の如く消え去るべきではない。新らしい反省の後には新らしい開眼と新らしい活動が出来なければならぬ。私は此の推移の前途に対して、少くとも、彼の第二十六議会に於ける地租軽減論の運命とか、工場法実施後に於ける一般労働者の思想上の変化とかに対すると同一の熱心と興味とを以て注意するものである。
 錯誤の上にたつとはいえ「日本文学の主潮(自然主義)の推移」を、「地租軽減論の運命」「一般労働者の思想上の変化」に「対すると同一の熱心と興味とを以て注意する」とはなんという文学者であろう! 
 「文学上に於ける自然主義の運動」を「時代精神の要求に応」じた運動と見なす啄木は、その「時代の精神は、休みもせず、衰へもせず、時々刻々進み且つ進んでゐる」と楽観する。そして
   ……彼此考へ合せて目を瞑ると、其処に私は遠く「将来の日本」の足音を聞く思ひがする。私は勇躍して明治四十三年を迎へようと思ふ。
と記す。12月22日夜である。となりの部屋ではほろ酔いの父一禎が軽やかないびきをたてているかも知れない。

2015年5月28日 (木)

石川啄木伝 東京編 364

 以後自然主義は前記の「観照と実行(あるいは実行と芸術)」論争の中で支離滅裂となり、自己崩壊してゆく。そして1909年(明42)の文壇も「この『実行と芸術』論議で明け暮れた」 。
 さて、こうしたことを踏まえて啄木の「一年間の回顧」にもどろう。
 啄木は明らかに誤認している。1909年(明42)末になってもまだ、自然主義に望みを託しているのである。
 その外的証拠として、文芸革新界という反自然主義組織の結成をあげる。すなわちこれが今の「停滞弛緩の傾向」にある自然主義にとって「一の新らしい刺戟」になるというのである。そしてこうつづける。
  右の事実は、永井荷風氏の作物が自然派非自然派を通じて一般読書界から異常な歓迎を享けた事実、森田、小宮、阿倍諸氏――一新聞記者の所謂青年大学派の崛起した事実、及び過去一年間に起つた色々の事実と共に、明治四十二年に於ける教養ある日本人が――も少し狭く言へば明治の日本人の最初の哲学の萌芽であるところの自然主義的精神が、更に一層其反省を深くせねばならぬ必要があつた事と、然して其新らしい反省が漸く始められた事とを外部(仮に)から暗示するものである。
と。
 啄木はさらに別の二、三の兆候を挙げて「すべて其等の新らしい傾向は、内部(仮に)から同一の事を暗示するものである」と言う。

2015年5月26日 (火)

石川啄木伝 東京編 363

 加藤周一のつぎのような指摘は日本の自然主義の本質を突いている。
  ……ゾラの小説は、第一に、生物学的方法をふまえ、第二に、広大な社会的視野をそなえ、したがって作者その人を主人公とせず、第三に、市民社会を対象とする。この第一点は、彼の《naturalisme》の特徴だが、第二点は早くもバルザックの行ったところであり、第三点は一般に一八世紀以来の多くの小説に共通である。しかるに藤村や白鳥等の仕事は、以上の三点を全く欠く。科学的方法とは何の関係もなく、―― 一九世紀末二〇世紀初めの日本には科学主義はなかった――、小説の世界は極度に狭く、作者の身辺雑事に限られ、しかも主題は市民社会内部の矛盾ではなく、市民社会の未成熟にもとづく紛争を主としていた。英訳でゾラの一部を読んだ日本の小説家は、ゾラを誤解したのだろうか。おそらくそうではあるまい。彼らはゾラの裡に《naturalisme》を読んだのではなく、一九世紀の西洋の小説一般を読んだ。ゾラの小説のなかに、ゾラに固有の性質をではなく、トルストイやドストエフスキーにさえも共通し、しかしたとえば馬琴の勧善懲悪小説や紅葉・露伴の美文からは遠く隔っていたところの、人生の「真相」の「露骨な描写」を見つけたのである。彼らは日常生活のなかで自分がどう生きるかに苦労していたから、社会の全体を考える暇はなかった。
 
このような「自然主義」の小説群と長谷川天渓らの評論を、折衷的に取り込んで、日本の自然主義を理論化しようとしたのが島村抱月であった。かれは約三年半の洋行を終えて帰朝したが(05年9月)、日本の自然主義と出会ってこれを支持するようになりつつも、自然主義の行く手には「神秘的象徴的」文学さらには「宗教的」文学が待っていると考えていた。この見地と相まってかれの根本にあるのは若いころから一貫する「観照論」であった 。それは社会とのましてや国家権力との確執など無縁の境地であった。
 この「観照論」という坩堝に現実の自然主義作品を溶かし込んだ抱月的自然主義論が前掲「自然主義の価値」と「芸術と実生活の界に横たはる一線」(早稲田文学、08年9月)である。自然主義がもっていた積極的要素はそれらの中で溶け去り、自然主義は理論的に変容を遂げてしまった。

2015年5月24日 (日)

石川啄木伝 東京編 362

 さて、自然主義が「出歯亀主義」なる別名をいただくほどになると、世間の自然主義バッシングもひどくなった。個人主義的思潮の勃興を警戒する国家権力は自然主義狩りに乗り出した。
 その端緒が1908年(明41)2月の生田葵山「都会」を風俗壊乱の作と断じて、掲載誌「文芸倶楽部」を発禁にした事件である。権力はこれを発禁にとどめずに異例の告訴におよんだ。裁判の結果は罰金刑(生田葵山20円、編集兼発行責任者石橋思案40円)であった。
 「都会」事件以後発禁は激増した。啄木が「百回通信 十九」で「以前は発売禁止といふ事は珍らしき出来事として喧伝せられたるものに候ひしが、近頃にては月として雑誌若くは単行の其厄に罷らざる月なき有様に候。」と書いたのはすでに見た。
 自然主義の中心的存在田山花袋・島村抱月・長谷川天渓等は亀のように首を引っ込めてなすところを知らなかった。
 田山花袋は「都会」の発禁に際して、世間では島崎藤村・国木田独歩・佐藤紅緑・生田葵山そして自分を「往々同一視してゐる。……私はこれに対して不快で堪らない。全体私などにいはせると紅緑君や葵山君などは余りに肉を多く書きはしないかと思はれる」と言って、発禁の厄に遭った葵山をかばうどころか異分子扱いした。こうすることで花袋自身「官憲による自然派小説の抑圧という事件の本質」から目を逸らせ、表現の自由を求める闘いを回避したのである。
 自然主義の理論的支柱と目されていた島村抱月は葵山・紅緑等といっそう距離をおき、権力の弾圧を避けるために、自然主義の積極的要素を骨抜きにする理論的企てを展開した。08年(明41)5月号「早稲田文学」に発表した「自然主義の価値」がそれである。この論は09年がそれをめぐる無駄な議論であけくれたといわれる「観照と実行(あるいは実行と芸術)」論争の発端の一角を形づくることにもなった。
 この論争の火付け役の一人が長谷川天渓であり、「自然主義と本能満足主義の別」(「文章世界」08年4月号)を書いて「観照と実行(あるいは実行と芸術)」論争の口火を切っていた。さらに「現実主義の諸相」発表し(「太陽」08年6月号)、発禁を強行し表現の自由を抑圧する国家に媚びを呈する様を、啄木がこれを批判する様を、われわれはすでに見ている。
 こうした事態は自然主義の派手で一見勇ましい標語の奥にある実体が姿を現した結果に過ぎない。

2015年5月22日 (金)

石川啄木伝 東京編 361

 自然主義の標語の奥には「自己告白の要求」「自己凝視の姿勢」があり、それらは啄木が「時代の精神」と呼ぶ個人主義の表現であった。個人主義は約20年間にわたる産業革命とその結果としての日本資本主義の成立がもたらした、前近代的人間関係の個人への分解の産物であった。
 個人主義はまさに「時代の精神」なのである。この精神をもっとも体現しているのは言うまでもなく若い世代である。したがって時代は「世代間の緊張」をはらんでいた 。
 この主潮をいち早くとりこみ、一つの文学運動にまで展開したのが自然主義であった。啄木は自然主義を「文学と現実の生活とを近(ちかづ)ける運動」であると考えたので、「仮令此の運動にたづさわらなかつた如何なる作家と雖も、遂に此運動を惹起したところの時代の精神に司配されずにゐる事は出来なかつた」と評価した。
 これは事実である。鷗外といえど、漱石といえど自然主義運動から深い影響をこうむった。  ジェイ・ルービンが「自然主義革命」と呼ぶ所以である 。
 しかし現実の自然主義は時代受けする標語とはほど遠い内実であった。かれらの言う「現実」・「人生」・「道徳」等々は皮相で卑小であった。自然主義者の多くが「自己凝視」の結果もっとも痛切に「発見」したのは「性欲」の問題であった。それが「自己告白」の重要課題ともなった。07年(明40)9月15日の読売新聞に秀湖生の「肉欲細叙の傾向」などが現れる。「傾者文壇の一部に肉情、衝動の細叙に力を致さんとする現(ママ)著なる傾向あり」と。
 しまいには森鷗外が「ヰタ・セクスアリス」でこう言うまでになった。「金井君は自然派の小説を読む度に、その作中の人物が、行住坐臥造次転沛、何に就けても性欲的描写を伴ふのを見て、人生は果してそんなものであらうかと思ふと同時に」云々。
 08年3月の猟奇殺人事件「出歯亀事件」さえも「自然主義に連絡をつけられる。出歯亀主義という自然主義の別名ができる」(「ヰタ・セクスアリス」)始末である。
 「肉欲」に「自然」を見て、これを描くことに集中して行く傾向に自然主義の内実の「低さ」が象徴的に出ている。

2015年5月20日 (水)

石川啄木伝 東京編 360

 啄木は続けて自然主義の運動が益のない論争(「観照と実行」論争)に時を費やし、運動本来の目的を忘れている、と批判する。自然主義は今や解体・衰亡期に入っているのだが、ほんの2、3か月前にようやく自然主義の摂取に成功した啄木にとっては、まだ脈のある運動に見えているらしい。
 だから、12月22日夜には自然主義論を書いて「スバル」に寄稿する。「一年間の回顧」(「スバル」1910年1月号)である。
  自然主義は文学を解放した。少くとも、しようとした。これは近数年間に於ける日本文学上の一大事業である。
 この評価は今日から見ても正しい。しかし
  一度解放された文学の主潮は、然し乍ら色々の理由から、まだ行くべき処まで行かずに、途中で停滞し、弛緩しようとする傾向を作つた。
という。
 自然主義は1906年(明39)から08年前半にかけて、排技巧、形式打破、旧道徳・旧思想・旧習慣への反抗、排理想、現実暴露、幻滅の悲哀、無解決等の標語を掲げて自己を主張し、文壇を席巻する運動となった。これらの標語を額面通りに受け止めるなら、太田正雄が「『太陽』記者長谷川天渓氏に問ふ」で言ったようなことになる。自然主義は「唯文芸上の問題ではなくて、人間活動の全般に亘つた新しい運動を指すものである。……然らば此の主義で観照せられ、批判せらるるものは、単に文芸の問題のみならず、宗教、哲学、倫理及び現今の科学、其他百般の精神活動であらねばならぬ」と 。
 啄木が「最近数年間の自然主義の運動を、明治の日本人が四十年間の生活から編み出した最初の哲学の萌芽」(「弓町より」)と呼ぶのは標語とその展開した運動を額面通りに受け止めているからなのである。

2015年5月18日 (月)

石川啄木伝 東京編 359

 「柳の葉」と「拳」が東京毎日新聞に載ったのは前述のように12月20日。この日節子は函館の宮崎ふき子に手紙を書いた。その中に「宅(啄木)は私の先日のことがあった以来どうしても新山堂やいずれ私の身内のものには手紙をかくと気げんが悪くてこまります」とある。啄木は節子がふたたび居なくなることを非常におそれている。そして節子にもその気がありそうである。啄木の警戒は死の直前までつづき、節子の家出の気配もまたおさまらず、1年半後に一騒動起きる。
 21日か22日父一禎が野辺地から上京してきた。床屋の2階の6畳間2間に5人家族。23歳の啄木の痩せた双肩に5人の生活がのしかかる。すでに見たように父一禎は「ただ者」ではない。節子の苦労もふえるであろう。ただ一禎がカツと節子の間で緩衝作用をはたしたかも知れない。啄木は一家5人の生活を維持するためますます奮闘するであろう。
 啄木は20日の発表をもって詩の方を中断し、東京毎日新聞に評論「文学と政治」(上下)を発表した(19日と21日)。
 戸川秋骨が国民新聞の12月8日・9日に書いた「文学と政治」という文章に反応したのである。啄木は「文学と政治」の「比較論が人の話頭に上るやうになつたといふのも、文学と実際生活との交渉が余程具体的に考量されるようになつたといふ事を証明するものである」ととらえたのである。そして「斯ういふ傾向は……いつかはそれが一つの重大な勢力となつて、将来の日本の文学の内容にも或る変化を与へる時期があるだらう」と予言する 。
さらに唯物論的な近代文学史の見取り図さえ示す。
  遡つて言ふと、『文学界』の人々及び民友社の一団の文学的運動は、国会開設騒ぎの後であつた。紅露対立の盛時も、天外の写実主義唱道も、樗牛博士を中心にした活動及び其の晩年の一種の革命も、すべてそれらは日清戦争といふ大事件に前後して起つた政治的な出来事の後であつた。(詳しく考へ合して見たら随分面白からうと思ふ)そして、輓近自然主義の運動――日本文学に於ける今日迄の最大の運動は、実に、日本帝国が明治になつて以来の最大の事件であつた日露戦争の後に於て起つたのである。
 「文学と政治」という評論は上田博が指摘するように田中王堂の「文芸に於ける具体理想主義」を手引きにしている 。この箇所もそうである。ただし王堂の論は漱石が評したとおりあまりに内実に乏しい。その論が啄木の手にかかると卓論となって現れるのである。

2015年5月16日 (土)

石川啄木伝 東京編 358

     

 おのれより富める友に愍(あはれ)まれて、
 或はおのれより強い友に嘲られて
 くわつと怒
(いか)つて拳を振上げた時、
 怒らない心が、
 罪人のやうにおとなしく、
 その怒つた心の片隅に
 目をパチパチして蹲
(うづくま)つてゐるのを見付けた――  
 たよりなさ。

 あゝ、そのたよりなさ。

 やり場にこまる拳をもて、
 お前は
 誰
(たれ)を打つか。
 友をか、おのれをか、
 それとも又罪のない傍らの柱をか。 

 
 この詩には2つの詩稿が残されている。より完成形に近い詩稿との間にも様々な異同がある。だが決定的なちがいは1箇所だけといってよい。詩稿には(もう一つの詩稿にも)第1行目の「おのれより富める友に愍まれて、」がない。詩稿は「おのれより力ある友に嘲られて、」で始まる。
 この方が「くわつと怒つて拳を振上げた時」へのつながりはずっと良い。「富める友に愍(あはれ)まれて」「拳を振上げた」りするのは不自然である。清書・送稿直前の追加とみられる。
 この追加によって、「くわつと怒つて拳を振上げ」るのは動作ではなく心の動きの、表現となる。しかし第一行が加わったことで、「怒り」の陰翳は深まる。
 詩はこんな構造になっている。 
 自尊心を傷つけられて怒る心が生じた「おのれ」(これを我Ⅰとしよう)。
 我Ⅰは「拳を振上げ」る。
 その瞬間に「怒らない心」(相手の富や力にへつらう卑屈な心)が生じたことに気づく(「罪人のやうにおとなしく、/目をパチパチして蹲つてゐる」)。
 2つの心の間で動揺する(たよりない)我が出現する(われⅡ)
 「あゝ、そのたよりなさ。」
 次の瞬間に第3の我が出現して、我Ⅱの行動を観察する。
 2つの心をめぐる3つの自我のドラマをこの短い詩で描いたのである。まさに「心の姿の研究」として傑作と言えよう。このような「我」の刹那の姿をより簡潔に多様に描くことになるのが、3、4か月後に創始される啄木短歌である。
 しかしこの詩の評価は従来低い。山本健吉は「心の姿の研究」五編の中では「いちばん低調である」と言った 。松本健一も「気がききすぎて、易きに流れている」と評する 。
 木股知史が「分裂した心の動きの視覚化が試みられているが、散文的な描写によってそれが行われるため、理に落ちた説明を聞くようである」と言い、「内面の『たよりなさ』、すなわち自我のもろさという主題は、きわめて新しいものであった」と評価した 。
 たよるべき自我の喪失、このテーマは百年後の今も新しい。もう一度読み直されてよいのではないか。

2015年5月15日 (金)

石川啄木伝 東京編 357

 「食ふべき詩(七)」にあった「我々の要求する詩は、現在の日本に生活し、現在の日本語を用ひ、現在の日本を了解してゐるところの日本人に依て歌はれた詩でなければならぬ」はみごとに実現されている。
 つぎは「心の姿の研究(四)」(東京毎日新聞12月20日)。これは2編の詩からなる。「柳の葉」と「拳」と。

   心の姿の研究(四)  石川啄木
   
    柳の葉

 電車の窓から入つて来て、
 膝にとまつた柳の葉――

 此処にも凋落がある。
 然り。この女も
 定まつた路を歩いて来たのだ――

 旅鞄を膝に載せて、
 やつれた、悲しげな、しかし艶かしい、
 居眠を初める隣席
(となり)の女。
 お前はこれから何処へ行く?

 電車通りの柳といえば、啄木の通勤電車が走る銀座の柳が浮かんでくるが、それはさておき、「電車の窓から入つて来」た柳の葉は、あたかも詩人の目を引こうとするかのように「膝にとまつた」。元の樹の一つの枝のそのうちの一本の小枝から凋落し、風に乗って来たのである。詩人は「柳の葉」に人間の来歴を見る気がする。
 第2連の「此処」は同じ電車の中である。「この女」に故郷と家族から離れ東京にやってきた女の来歴を見る。それも「凋落」した(落ちぶれた)女の来歴を思う。「この女」も新都市居住者の一人である。こう解釈する根拠は「定まつた路を歩いて来たのだ――」の1行である。
 「旅鞄を膝に載せて」いるが、今上京したばかりなのではあるまい。電車の中で居眠りをするのだから。上京後の生活がどのようなものだったかは「やつれた、悲しげな」が知らせている。「艶かしい」はいくつかの意味があるが、ここでは「あでやかで上品な美しさがある」(新潮現代国語辞典)の意味であろう。ローマ字日記(4月26日)に浅草の新松緑の「美しくて品のいい(ことばも品のいい)たま子」という女性が出て来る。この女性は店に入ったときは40円の借金だったのに、女将の罠にはまって借金は100円になっている。なんとかこの店を出たいという。そんなくだりがあった。この女性はあれからどうなったであろう。「隣席(となり)の女」は「居眠を初め」た。「お前はこれから何処へ行く?」
 凋落の果ての女たちの悲しい姿を、啄木は浅草で、そこの塔下苑で、たくさん見ている。Masaのような女性もいた。女性は特に生きにくい時代である。
 詩は「国民生活」の一断面をたしかに切り取っている。

2015年5月14日 (木)

石川啄木伝 東京編 356

 さて以上を踏まえて詩を読み返してみよう。
 この詩の骨格はこうである。
  一、遠い国には事件・海には難破船上の酒宴(耽美派批判)
  二、この国の市井の一角の貧しい生活者点描
  三、春の夕暮れの町を覆う不安と疲れ
  四、遠い国には事件・海には信天翁の疫病(耽美派批判)
  五、大工の家では火の入った洋燈が落ちる
 詩の中核は真ん中の連である。ここにこの詩における詩人の「心の姿」の中核すなわち表現すべき「心」そのものがある。この町・この都市・この国を覆う得体の知れない不安と説明のつかない疲れ。
 これを詩化するのに用いたのが「散文的脈絡を無視したイメージの直接的提示という斬新な詩法」 なのである。
 木股知史はこの詩について技法についてつぎのように解析する(木股は1・4連を「内部の幻景」、2・5連を「外部の印象」ととらえている)。
 内部の幻景と外部の印象が交錯し、場面の並列(並列に傍点)ではなく、転換(転換に傍点)の技法が獲得されている。また、イメージを提示する部分(一、二、四、五聯)と「仕事の手につかぬ一日が暮れて、/何に疲れたとも知れぬ疲がある。」という情調の説明部分(三聯)が、はっきりわかたれているので、詩の世界が立体的に感じられる。話法も単一でないため、だれかが語っているのではなく、言葉そのものが提示されるという印象をつくりだすことに成功している。最後の「あ、大工の家では洋燈が落ち、/大工の妻が跳び上る。」という2行は、間投詞の使用によって、描写でなく、声によるイメージの提示という転調の役割を果たしている。
 このような技法の下に、前述のような内容が盛り込まれているのである。凝縮度の極めて高い詩となっている。
 「遠い国には」大きな事件があって、〈この国〉には大事件がないのではない。つい最近では伊藤博文暗殺事件があった。啄木も震撼したのである。しかし啄木のアンテナはより重大な事件を予感するかのように、この詩をうみだした。
 詩人村野四郎の有名な鑑賞を引こう。
  この詩の作られたのが、明治四十二年十二月であり、幸徳秋水らの大逆事件が発覚したのが、翌四十三年の五月である。この作品のイメージにあらわれた悪寒と戦慄の異常な危機感は、そうした切迫した社会情勢を反映して、すさまじい詩的現実感をもりあげている。これは、いかなる思想の説明でも演技でもない。
 補いたい。この年の11月3日夜、宮下太吉は試作した爆裂弾を明科の大足山中で投擲し、爆発に成功した。後日を期して明治天皇に向かって投げつけようとする爆裂弾である。宮下はさっそく幸徳秋水・管野須賀子・新村忠雄のいる千駄ヶ谷の平民社に手紙を出した。その中には「赤児ノ泣声カ非常ニ大キクテ驚イタ」の文言があったという。啄木が「事ありげな春の夕暮」を発表したのが12月16日、宮下が爆裂弾の材料をもって、上京したのは、暮れの31日。平民社に直行した。
 昨年6月の赤旗事件に端を発した明治天皇暗殺計画はこうして不気味な現実性を帯びてきた。このような計画を生み出すほどに国家権力が時代を閉塞させていたのである。啄木の預言者的資質はこれまでも見てきたが、まさに時代の異常に「重く淀んだ空気の不安」を感じていたのであろう。

2015年5月13日 (水)

石川啄木伝 東京編 355

 第4連。
 「遠い国には沢山の人が死に………」単なる幻想ではなく、日々目にする新聞から吸収した情報が、閃いているのであろう。
 「(遠い国には)また政庁に推寄せる女壮士のさけび声………」。今井泰子は早くに指摘した。「この一行は、当時の欧米の婦人参政権運動の中でも、特に戦闘的、急進的であった、エメリン・パンクハーストが指導するサフラジェットと呼ばれる女達の姿の点描である。つまり『女壮士』とは文字通り女権運動家、『政庁』はイギリスの首相官邸ないし議事堂を意味している」 と。
 「遠い国には」にはこうして大きな事件が起こっている。
 「信天翁の疫病」についても今井泰子の示唆に富む指摘がある。当時の詩壇には上田敏の訳詩集『海潮音』所収の「信天翁(おきのたゆう)」(ボードレール)という規範が君臨していて、「その詩の中でこの鳥は、理想に向かう折には輝かしい栄光に包まれながら、現実生活に適応できない詩人の象徴物とされている。……つまり当時の了解では『信天翁』とは、芸術至上の詩歌人が詩的情動を託すにふさわしい鳥であった。そこで、そうした世界との訣別を宣言した啄木としては、『疫病』というネガティヴなイメージを重ねずにはいられないのであろう」と。こうして今井は第二連の「難破船の上の酒宴」にも、「頽唐派詩人達」の「人生態度」を見たのである。
 啄木はたしかにパンの会に拠る詩歌人たち(ついこの3月までは親しかった)の耽美主義を「病んでいる」と批判しているのだ、「食ふべき詩」で批判したように。となるとここの「海」も新しい意味を帯びる。第2連や第5連に登場する貧しい人々からすれば、パンの会の連中の世界は遠い海の上ほどにも遠い世界だというのであろう。
 「あ、大工の家では洋燈が落ち、
 大工の妻が跳び上る。」
 通常自然に「洋燈が落ち」るということはあり得ない。「大工の妻」が火を入れたランプを、たとえば吊り下げようとして、あやまって落としたというのであろう。下は板の間であろう。落ちたランプのホヤはこわれ(石油のツボもこわれ?)る。足元におそるべき危険物が落ちたので「大工の妻」は「跳び上る」。ランプを使っていた時代の人はだれでも知っている。石油がこぼれ、板の間にひろがり、それに火が燃え移る怖さを。この2行は、まだ出現していないけれど、めらめらと燃え上がる炎さえ、見せている。
 「遠い国には」戦・沢山の人の死・女権拡張運動高揚という「事件」があるが、〈この国〉の「春の夕暮の町」では火の入った「洋燈が落ち」るという「事件」が。これはあまりに小さな市井の一「事件」のようでもあるが、どんな大火にもつながりかねない「事件」でもある。

2015年5月12日 (火)

石川啄木伝 東京編 354

 第2連に行く。
 場面は一転して質屋の内そして外である。白秋の「瞰望」に学んだらしく詩人の内なる視点は移動する。
 「質屋」はここに通わないと生活できない貧乏生活者たちの交差点。「蒼ざめた女」は肺病やみか。質の受け渡しをめぐって悲しいことがあるらしい。「燈火にそむいてはなをかむ」のは涙をかくす所作でもあろう。詩人の視線は移動して質屋を出る。路次(大通などから入った、家と家との間の狭い通路)の出口に向かう。そこには「背低い女」が「情夫」の背を打って、質屋で金を工面してきたことを知らせる。「背低い女」は、魅力に乏しい女を意味しよう。だから「情夫」に貢ぐのだ。
 「遠い国」でも「海」の上でもない〈この国〉の「質屋」の一光景は、〈この国〉の市井の貧乏生活者たちの象徴でもある。啄木一家はこの明治42年も翌年も質屋と縁が切れない。節子の質屋通いはつづいた。しかし啄木の収入は少ない方ではない。債務(蓋平館)や病院代、啄木の金遣いのあらさ、などが家計を苦しくしたとしても、啄木一家の収入は当時の市井では中流には入るだろう。「背低い女」はもっと貧しい。
 つまり第2連は〈この国〉の大都市の大多数を占める貧しい生活者の光景なのだ。
 ここから第2連を読み返してみよう。
 第2連の人達からすると、パンの会の人たちの、西洋にあこがれ、パリにあこがれ、「酒宴」を享楽する生活は別世界だ。つまり「海」の上の世界だ、とも詩人は言っているようである。
 第3連で主題が展開する。
 「何か事ありげな――/春の夕暮の町を圧する/重く淀んだ空気の不安。」
 「何か事ありげな」はどこにかかるのか。タイトルでは「春の夕暮」に直接かかっているが、詩ではダッシュがあるから、もっと後ろにかかってゆく。かといって「不安」にまではおよんでいない。「何か事ありげな」はすでに「不安」の内容の一部である 。「空気」にかかると読むべきだろう。「空気の不安」は「空気が醸し出す不安」であろう。
 「町を圧する……空気」は、単に「町」を圧するのではない。詩の構造は「遠い国」があって「海」があり、したがって〈この国〉があっての「町」なのである。「町を圧する……空気」はやがて〈この国〉の町々=都市を圧する空気でもある。(漱石『それから』の「不安」に通う。)
 残りの2行。「仕事の手につかぬ一日が暮れて、」には作者の生活が顔を出している。勤め人や職人などにとって「仕事の手につかぬ一日が暮れ」ることはあまりに特殊な事情である。むしろ文筆を事とする人間が想定されている。しかし「町」が単に「町」でないように、「何に疲れたとも知れぬ疲」は〈この国〉の都市生活者の「疲(つかれ)」の表現でもあろう。

2015年5月11日 (月)

石川啄木伝 東京編 353

 東京毎日新聞一二月一六日発表の詩に行こう。

   心の姿の研究(三)   石川啄木
   
    事ありげな春の夕暮
  
  遠い国には戦があり………
  海には難破船の上の酒宴
(さかもり)………

  質屋の店には蒼ざめた女が立ち、
  燈火
(あかり)にそむいてはなをかむ。
  其処を出て来れば、路次の口に
  情夫
(まぶ)の背を打つ背低い女――
  うす暗がりに財布を出す。

  何か事ありげな――
  春の夕暮の町を圧する
  重く淀んだ空気の不安。
  仕事の手につかぬ一日が暮れて、
  何に疲れたとも知れぬ疲(つかれ)がある。

  遠い国には沢山の人が死に………
  また政庁に推寄せる女壮士のさけび声………
  海には信天翁
(あはうどり)の疫病………

  あ、大工の家では洋燈(らんぷ)が落ち、
  大工の妻が跳び上る。

  小川武敏は詩編「無題(秋の夕べの重くるしさ……)」の「主題は、二度繰り返される〈秋の夕べの重くるしさ〉であり、それは一九〇九年秋の作者を囲繞する生の重苦しさの反映にほかなるまい。しかも、これが詩篇『心の姿の研究』各詩の発想の原型となり、ここから湧いたイメージが各詩へ分化発展していったようなのである」と論じた 。
 「事ありげな春の夕暮」が「秋の夕べの重くるしさ」に発しているのはたしかと言えよう。しかし「春の夕暮」ではなく「秋の夕暮」であれば、どうしても三夕の歌などに典型的な日本人共通の「秋の夕暮」という磁場が強力に働いてしまう。また啄木自身にこの詩を「秋」から引き離したかったという事情もあろう。
 さて、作品を読んでゆこう。

 第1連は2行であるが、奇抜である。
 「遠い国では戦」という大きな〈事件〉がある、という。「遠い国」のイメージの反射は〈この国〉であるが、そこでの〈事件〉はふれられぬままだ。
 〈この国〉からはよその国はみな海のかなたにある。とくに「遠い国」であれば間に横たわる海は果てしない。
 その海には「難破船」。「難破」は座礁などによるものではなく、何らかの故障で漂流を余儀なくされた船、の意であろう。船の人々の明日はどうなるのか、まったく分からない。どこかに漂着できなければ、食料の尽きると共に全員の死がまっている。それなのに船の上では「酒宴………」。
 今井泰子は「難破船の上の酒宴」に「かつての啄木も含めて頽唐派詩人達が人生態度を託して歌った船ないし難破船や酒宴の詩を想起してよいかもしれない。」と言う 。第四連に出て来る「信天翁」とも関連して参考になる。啄木はパンの会の耽美派詩人歌人をダブらせていると思われる。こう理解すると、すでに見た「食ふべき詩(六)」に際だった耽美派の詩人歌人批判がこの詩にも貫かれていることになる。パンの会は画家・詩人たちの「酒宴)」でもあった。日比谷・松本楼の大会はつい先日のことであった。
 この見地から見ると、「海」は別の意味合いも帯びてくる。それは第二連・第四連との「関連の中から出て来る。

2015年5月10日 (日)

石川啄木伝 東京編 352

 次に行こう。東京毎日新聞12月13日。

   心の姿の研究(二)   石川啄木 

    起きるな
  
  西日をうけて熱くなつた
  埃だらけの窓の硝子よりも
  まだ味気
(あぢき)ない生命(いのち)がある。

  正体もなく考へに疲れきつて、
  汗を流し、いびきをかいて昼寐してゐる
  まだ若い男の口からは黄色い歯が見え、
  硝子越しの夏の日が毛脛を照し、
  その上に蚤が這ひあがる。

  起きるな、起きるな、日の暮れるまで。
  そなたの一生に涼しい静かな夕ぐれの来るまで。
 
  何処かで艶
(なまめ)いた女の笑ひ声。
 
 「西日をうけて熱くなつた/埃だらけの窓の硝子」は詩人が「味気ない」ものとしてあげるもの。この比喩は、詩の昼寐男のイメージの背景でもある。(山本健吉)
 それよりももっと「味気ない生命」があるという。つぎの連の「若い男」のそれである。この連の5行中もっとも注意すべきは、「考へに」の3文字である。肉体を酷使して「疲れきつた」のではない。考えることに「疲れきつた」のである。何を考えたのか具体的には分からない。が、結局は「味気(あぢき)ない」内容であろうこと、男が「一生」考えても益のない事柄であろうことが詩の全体によって示唆されている。
 無益の「考へに疲れきつて、……昼寐をしてゐる」のだから、定職に就いているのやらいないのやら。ともかく勤めに精を出しているような男ではない、「まだ若い」のに。「黄色い歯」とあるから、歯も磨いていないのかもしれない(昔は歯を磨かない人も多く、そういう人の歯は歯くそで黄色くなっていた)。ますます仕事に出ているのか疑わしい。
 5行目の「夏の日」もこの詩のキーワードである。前に見た啄木のエッセイ「汗に濡れつゝ」の(一)から引こう。
  ……夏の姿は弛廃(ちはい)の姿である。倦怠の姿である、……憐れな人間は肉体の弛みと精神の疲労(けだるさ)を抱いて、懶(ものう)げな手付をして流るゝ汗を拭いてゐる。鈍い眼、たるんだ肉、締りのない口、だらしない其恰好は、融けかゝつた蝋人形の様である。夏の生活は醜い生活だ。
  若しもプツプツと油汗の湧く皮膚の一片をとつて顕微鏡に照して見たなら、其処に倦み疲れた我等の人生の、飾らず偽らざる如実の姿が映るかも知れぬ。――あゝ可厭(いや)なこツた
 このエッセイを挿んで詩にもどると、「夏の日」の「弛廃」と「倦怠」は今「埃だらけの窓の硝子」の外にも内にも普く行きわたり、男を囲繞する。「若い男」の「弛廃」と「倦怠」は、外界と同一化する。
 だから「夏の日が毛脛を照らし、その上に蚤が這ひあが」っても、男は目が覚めないのだ。
 詩人はささやく。起きてもその「肉体の弛みと精神の疲労」を癒やしたり活気づけたりしてくれるものはない。だから「起きるな、起きるな」と。せめて「弛廃」と「倦怠」の「夏の日」の「暮れるまで」は、と。
 しかし詩人はこの若者にまことに手厳しい。つぎの一行にゆこう。「一生」は第1連の「味気ない生命」と同じことと思われる。「生命」とは生きている期間を意味するから。この一行はこうなろうか。「そなたの」「西日をうけて熱くなつた/埃だらけの窓の硝子よりも/まだ味気ない生命」が「弛廃」と「倦怠」から解放される時まで(「涼しい静かな夕ぐれの来るまで」)、つまり死ぬまで、「起きるな」と。
 仕事もしないで無意味無意義に「考へ」てばかりいるいわば非生活者への、生活者詩人からの手厳しいアイロニーの一撃である。
 詩人は最後にもうひとつアイロニーを用意していた。
 何処かで艶いた女の笑ひ声。
 汗を流そうが、日が照りつけようが、蚤が這い上がろうが起きる気配の無い男の「味気ない生命」を刺激し、眼を覚まさせるものがひとつだけあるという。「女」だ。「若い男」に残った最後の刹那的刺激剤、「女」。「女の笑ひ声」は「若い男」への仕上げの一撃である。
 こう読んでくると、われわれは思い起こさずにいられない。たとえば「ローマ字日記」終わりころの啄木を。つい半年ばかり前の6月上旬の何日間かを「髪がボウボウとして、まばらな髭も長くなり……弱った体を、10日の朝まで3畳半に横たえていた」啄木を。  
 前年の11月からは少しでも金を握ると浅草に女を買いに走った啄木だった。
 その意味でこの詩は最近までの啄木自身の自画像という側面も持っている。自然主義を受容できるまでに自己変革した啄木が、自己告白の一面をもつ詩を作るのはごく自然であるが、この詩の「若い男」は単なる自画像ではあるまい。むしろこの詩によって「汗に濡れつゝ」にある「倦み疲れた我等の人生の、飾らず偽らざる如実の姿」を描こうとしたのであると思われる。その傍証となるのものとしてこの詩の「詩稿」がある 。そこでは「味気ない生命」は「味気(あぢき)ない世の中」となっている(「世の中」の左に「いのち」という語も添えてある。決定稿ではこちらをとって「生命(いのち)」としたのであろう)。
 つまりこの詩は「味気ない生命」の向こうに「味気ない世の中」までを見ているのだ。そうするとこれは「国民生活(ナシヨナルライフ)」の一断片でもある。そして松本健一によると、この詩は「大正なかごろになって顕在化する、都会に浮遊する『大衆(マス)』の心象風景」になっている 。とすれば一種の予言的な詩でもあるということだ。
 松本健一の示唆に富む読み方をもう少し引こう 。
  ……尾形亀之助が昭和十七年に発表した「大キナ戦」という散文詩がある。啄木の「起きるな」という詩は、最後の一行を除けば、この「大キナ戦」という大正から昭和にかけての不定職的なインテリゲンチャの詩に、一直線に繋がってゆくところがあるのだ。
と言って「大キナ戦」の全体を紹介し、さらにこう述べる。
  もちろん、この詩には、「大きな戦争」までも日常化してしまおうという、昭和十七年当時の尾形亀之助の意思をよみとることができる。だが、そういった時代的刻印を取り去ってみれば、社会から置き去られたかたちで、都会の安下宿か何かで日がな物思いにとらわれ、はては疲れて眠りにおちてしまう不定職的なインテリゲンチャの情況が、啄木の「起きるな」に酷似してさえいるといえよう。
  ところが、啄木の「起きるな」という詩は、そういった都会に浮遊する知的大衆の生活的現実に密着しつつ、最後の1行に至って、これを鮮やかに反転させるのだ。生きる意思さえあるのかわからないで、眠りこけている青年の、情欲を呼び醒ますかもしれないような「艶いた女の笑ひ声」を登場させるのだ。疲れきって眠っている男と、その女の声との対比は、これまでの啄木詩にはみられないほど、見事な劇的展開になっている。

2015年5月 9日 (土)

石川啄木伝 東京編 351

 全く同一の二つの連が7行からなる二つの連を挟んでいる。あたかも2本のレールのように。その第1連から読んで行こう。
 小川武敏がつとに指摘したように 、「夏の街の恐怖」は、「屋上庭園」創刊号巻頭を飾った北原白秋「雑草園」の次の詩句に触発されて成ったと思われる。
 あはれ、また、
 知らぬ間に懶
(ものう)きやからはびこりぬ。
 ここにこそ恐怖
(おそれ)はひそめ。かくてただ盲人の親は寝そべり、
 剃刀
(かみそり)持てる白痴児(はくちじ)は匍匐(はらば)ひながら、
 こぼれたる牛乳の上を、毛氈を、近づき来る思あり。
 「懶きやから」とは擬人化したある種の雑草で、それが「知らぬ間に」「はびこ」った。
 「はびこ」った雑草の中に「ひそ」む「恐怖」のイメージこそ「かくてただ盲人の……近づき来る思」という喩なのであろう。
 「盲人の親」が寝そべっていて、剃刀を持った「白痴児(はくちじ)」が這って、こぼれた牛乳の上を越え「毛氈」に寝そべる親に向かう。親は何が起ころうとしているのか、全く気づかない。「剃刀」は親に悲劇をもたらすのか、子供自身にもたらすのか、そこに戦慄すべき「恐怖(おそれ)」が起ち上がる。
 啄木の「夏の街の恐怖」にもどろう。
 第1連。おびえているのは「軌条(れーる)の心」である。炎熱を浴びて「軌条」はそのおびえを「ぎらつく」という仕方でしか表せない。何に「おびえてぎらつく」のか?
 間もなく自分の上に幼児の血が流れ、あどけない生命の失われるであろうことを察しているからである、と詩人は叙しているかに見える。
 第2連に行って見よう。
 焼けつくような夏の日の下、東京中のありとあらゆるものは炎熱におかされ、風は止み、人も犬も活動を停止している。夏の真昼の東京は、「どこともなく、芥子の花が死落ち/生木の棺に裂罅(ひび)の入る夏の空気のなやましさ」の中に沈んでいる。死の気配は、たしかにすでに漂っている。
 第3連。
 その気配の中、出前に行くのは「病身の氷屋の女房」。「骨折れた蝙蝠傘をさしかけて」店先を出ると、葬送の列があらわれる。下肢の倦怠から始まって知覚が麻痺していったであろう脚気患者、炎暑の空気をせわしなく呼吸し、ついには心不全に至ったのであろうその患者、死者を送る列は夏の街の恐怖におしつつまれて進んでくる。いや、夏の街の恐怖そのものが姿をあらわして、往来を歩きはじめたかのようである。脚気は間もなく結核と並んで二大国民病となる。
 第4連。
「軌条」は、第一連とまったく同じに、間もなく自分の上に幼児の血が流れ、あどけない生命の失われるであろうことを察して、「おびえてぎらつ」いている。
 1903年(明36)8月22日、新橋-品川間に東京最初の市街電車が走った。早く、安く、大量に人を運ぶ路面電車はあっという間に人力車をはじめとする旧式の交通機関を圧倒してしまった。
 啄木は電車という近代文明の圧倒的な便利さの裏側に、交通事故の悲惨という「恐怖」を予知したのである。この予知を知らせる詩、は100年の後の日本の、世界の無量のもろもろの交通事故の悲劇の予言になっている。
 同じ「恐怖」でも白秋のそれは、ある種の雑草のはびこりに触発されたイメージの表現でしかない。それは「霊(たましひ)の雑草園」の一情景なのである。もちろんその「恐怖」の形象は鮮烈であり、卓抜であるが。
 生活者詩人啄木は「心の姿」となった「国民生活」の一断片をかく歌い上げた。

2015年5月 8日 (金)

石川啄木伝 東京編 350

 さて、啄木は自己の詩論に基づく実作として五編の口語自由詩を、「心の姿の研究」という総題で東京毎日新聞(12月12日~20日)に発表する。
 「心の姿」とは、「国民生活の中で刻々に変化する「心持」(=心に感ずるところ)・「感情」を指していよう。
 「研究」とはある時ある局面の自己の「心持」・「感情」を考究し、詩の言葉に組み立て、詩にすることであろう。以下に見て行こう。
東京毎日新聞12月12日。

   心の姿の研究(一)   石川啄木

   夏の街の恐怖

 焼けつくやうな夏の日の下(した)
 おびえてぎらつく軌条
(れーる)の心。
 母親の居眠りの膝から辷
(すべ)り下(お)りて
 肥つた三歳
(みつ)ばかりの男の児が
 ちよこちよこと電車線路へ歩いて行く。

 八百屋の店には萎(な)えた野菜。
 病院の窓の窓掛
(まどかけ)は垂れて動かず。
 閉(とざ)された幼稚園の鉄の門の下には
 耳の長い白犬が寝そべり、    
 すべて、限りもない明るさの中に
 どこともなく、芥子
(けし)の花が死落(しにお)
 生木の棺に裂罅
(ひび)の入る夏の空気のなやましさ。

 病身の氷屋の女房が岡持(おかもち)を持ち、
 骨折れた蝙蝠傘をさしかけて門
(かど)を出(いづ)れば、
 横町の下宿から出て進み来る、
 夏の恐怖に物も言はぬ脚気患者の葬
(はうむ)りの列。
 それを見て辻の巡査は出かゝつた欠伸
(あくび)噛みしめ、
 白犬は思ふさまのびをして
 塵溜
(ごみため)の蔭に行く。 

 焼けつくやうな夏の日の下に
 おびえてぎらつく軌条
(れーる)の心。
 母親の居眠りの膝から辷
(すべ)り下(お)りて
 肥つた三歳
(みつ)ばかりの男の児が
 ちよこちよこと電車線路へ歩いて行く。

 七編ばかりの詩を試作し、さらに詩論「弓町より 食(ふべき詩(一)~(七)」を発表した上での「心の姿の研究」シリーズの第一作である。

2015年5月 7日 (木)

石川啄木伝 東京編 349

 以上見てきたこの詩論は文学論の側面も持つ。この意味では詩のみならず小説、戯曲にまで応用の出来るものと啄木は考えている。短歌への応用は当然考えていよう。四ヵ月後の啄木調短歌創出の理論的準備にもなっている。
 さて、「弓町より」のいたるところでも、これから書くであろう評論等にも、田中王堂の影響が随所に認められる。10年(明43)2月まで影響はつづく。この王堂と啄木の関係について一言しておきたい 。
 夏目漱石の「田中王堂氏の『書斎より街頭へ』」から引こう。『書斎より街頭へ』は一九一一年五月に広文堂書店から出た大冊である。そのうちの「近世文壇に於ける評論の価値」「生活の価値、生活の意義」は初出で啄木が読んだことは確実であり 、長大な「夏目漱石氏の『文芸の哲学的基礎』を評す(上編・下編)」も「明星」08年(明41)2、3月号に連載されたから、読んでいるであろう。漱石は評する。
  惜しいかな王堂氏は十字街頭に立つて汝等斯くすべし、斯くすべからずと積極的に呼号し得る底の特殊なる何物をも把持して居らぬやに見受けられる。……余と雖も王堂氏が積極的の見解に富んで居られる事は疑はない。……たゞ積極的の見解を山程積み重ねても、吾々の現代生活中に原動力を与ふる積極的の方針とも活作用とも変ずる術のないのを悲しむのである。氏の論文の間口の非常に広大なのに驚いて、這入つて見ると、存外奥行が詰つてゐる感じがしたり、又は全く吹き抜けで何処で建物が尽きてゐるのか分らない気持がするのは、要するに是が為だらうと思ふ。
 漱石の評は肯綮に中っている。
 王堂の論は空疎である。日本の現実と切り結ぶ気配さえもない。このような人の論に啄木はなぜ私淑したのか。思想的解体期の足場作りに必要だったのである。節子の信賴をとりもどしうる生活の再建。これこそが緊要の課題であった。口舌ではなく実行がすべての時期であった。この時期を導く思想として王堂のプラグマティズムがあった。ただし、「百回通信」であれ「きれぎれに心に浮んだ感じと回想」であれ「弓町より」であれ、摂取は啄木の器量に応じてなされた。どれも執筆の瞬間に王堂をはるかに超えているのである。

2015年5月 6日 (水)

石川啄木伝 東京編 348

 宣言はつづく。
 即ち真の詩人とは、自己を改善し、自己の哲学を実行せんとするに政治家の如き勇気を有し、自己の生活を統一するに実業家の如き熱心を有し、さうして常に科学者の如き明敏なる判断と野蛮人の如き率直なる態度を以て、自己の心に起り来る時々刻々の変化を、飾らず偽らず、極めて平気に正直に記載し報告するところの人でなければならぬ。
 今自分がそうあろうとしている詩人像を真剣に描いている。そして主張すればするほど、強調すればするほど、これまでの詩人仲間・諸先輩からは遠ざかってゆく。
 「自己の心に起り来る時々刻々の変化」はわかりにくいが、王堂の「現実」概念を参考にするとなんとか理解できよう。
  ……現実は何物に限らず、凡べて意識に顕はれ、思想を動かし、行為を決する所のものであるとすることである。併しあらゆる意識とあらゆる思想と、あらゆる行為とは、生活を持続するが為めにのみ、出現し、動作して居るものであつて、又是等のものが是の役目を充たすには、過去に組織された経験に依つて、新たに生ずる刺激を支配することを唯一の方法として居るのであるから、如何なる場合に於ても時々刻々に生ずる直接経験が現実の心核と成つて居る……
 啄木は「自己の心に起り来る時々刻々の変化」を「意識に顕はれ」た「現実」と考え、これを表現するのが自分の詩であると考えたのであろう。すでに昨年7月小田島理平宛書簡で短歌は「複雑なる近代的情緒の瞬間的刹那的の影を歌ふに最も適当なる一詩形」ととらえていた啄木が、このたびは王堂をヒントに短歌観の発展としての現代詩観を提出したのであろう。この1年半で啄木の現実認識は大飛躍を遂げているから、かれの「心に起り来る時々刻々の変化」すなわち「現実」の姿は、あの時とは比較にならぬ深さと広さを内包した「心」の姿すなわち「心象」 のはずである。
 これを「飾らず偽らず、極めて平気に正直に記載し報告する」詩であるべきだという。
「食ふべき詩(一)」では『あこがれ』時代の自分の詩作についてこう述べていたのであった。
 それは、実感を詩に歌ふまでには、随分煩瑣な手続を要したといふ事である。譬へば、一寸した空地に高さ一丈位の木が立つてゐて、それに日があたつてゐるのを見て或る感じを得たとすれば、空地を広野にし、木を大木にし、日を朝日か夕日にし、のみならず、それを見た自分自身を、詩人にし、旅人にし、若き愁ひある人にした上でなければ、其感じが当時の詩の調子に合はず、又自分でも満足することが出来なかつた。
 こうした「手続」を用いずに「現実」を「極めて平気に正直に」詩にすることを主張しているのである。これは「食(くら)ふべき詩(七)」の以下の詩論と内容的に重なる。
 詩は所謂詩であつては可けない。人間の感情生活(もつと適当な言葉もあらうとは思ふが)の変化の厳密なる報告、正直なる日記でなければならぬ。従つて断片的でなければならぬ。――まとまりがあつてはならぬ。(まとまりのある詩即ち文芸上の哲学は、演繹的には小説となり、帰納的には戯曲となる。詩とそれらとの関係は、日々の帳尻と月末若くは年末決算との関係である。)
 詩は「まとまりがあつてはならぬ」はどう考えたらよいか。詩は「自己の心に起り来る時々刻々の変化」をうたうものだ、の一節を想起すればよかろう。これは啄木の詩論の前提である。詩の「まとまり」はその前提においてすでに省かれているのである。
 ……我々の要求する詩は、現在の日本に生活し、現在の日本語を用ひ、現在の日本を了解してゐるところの日本人に依て歌はれた詩でなければならぬ……。
 「現在の日本に生活し」は「国民生活(ナシヨナルライフ)」の不可欠の一環を生きている、の意であろう。「現在の日本語を用ひ」は「口語」の使用を指していよう。「現在の日本を了解してゐる(「現在の」にこめられた意味は大きい。あの「百回通信」はその「了解」の一端である。

2015年5月 5日 (火)

石川啄木伝 東京編 347

 さて、自己の閲歴を踏まえた詩論は「食(くら)ふべき詩(五)」から展開される。要旨は以下のようである。
 「食ふべき詩」の主張。それは「両足を地面(ぢべた)に喰(く)つ付けてゐて歌ふ詩」「実人生と何等の間隔なき心持を以て歌ふ詩」である。「珍味乃至(ないし)は御馳走ではなく、我々の日常の香の物の如く、然(しか)く我々に『必要』な詩といふ事である」。これは自然主義がすでに主張し実行している「口語詩」に通じてゆく。
 では、詩人はいかなる人であるべきか。資格は三つある(「食ふべき詩(六)」)。
 詩人は先第一に「人」でなければならぬ。第二に「人」でなければならぬ。第三に「人」でなければならぬ。さうして実に普通人の有つてゐる凡ての物を有つてゐるところの人でなければならぬ。
 詩人は徹頭徹尾生活者でなければならぬ、と言う。ではこれまでの「詩人」はどう評価されるのか。
 自己の弱点を抉り出した刃は、そのまま「屋上庭園」や「スバル」等に拠る詩人歌人に向けられる。
  ……今迄の詩人のやうに直接詩と関係のない事物に対しては、興味も熱心も希望も 
 有つてゐない――餓えたる犬の食を求むる如くに唯々詩を求め探してゐる詩人は極力排斥すべきである。

 「明治四十一年日誌」の9月10日の条にこうあった。
  謂つて見ようなら、北原君などは、朝から晩まで詩に耽つてゐる人だ。故郷から来る金で、家を借りて婆やを雇つて、勝手気儘に専心詩に耽つてゐる男だ。詩以外の何事をも、見も聞きもしない人だ。乃ち詩が彼の生活だ。

 批判の矛先が向けられているのは白秋一人ではなかろう。しかし真っ先に批判の対象として念頭にあるのは白秋と思わざるをえない。ずいぶん酷な批判である。
 意志薄弱なる空想家、自己及び自己の生活を厳粛なる理性の判断から回避してゐる卑怯者、劣敗者の心を筆にし口にして僅かに慰めてゐる臆病者、暇ある時に玩具を玩ぶやうな心を以て詩を書き且つ読む所謂愛詩家、及び自己の神経組織の不健全な事を心に誇る偽患者、乃至は其等の模倣者等、すべて詩の為に詩を書く種類の詩人は極力排斥すべきである。
 勇、杢太郎、秀雄等からはじまって、果ては永井荷風や上田敏や与謝野夫妻までが念頭にあるようだ。批判は酷に過ぎる、的を外している面もある。現に白秋詩を読むとすぐにこれにうたれ、触発されて試作した無題の二編があったことはすでに見た。
 しかし「生活者詩人」石川啄木誕生の宣言であることはまちがいない。

2015年5月 4日 (月)

石川啄木伝 東京編 346

 11月26日節子は妹のふき子に手紙を書く。宛先は函館区旭町宮崎方堀合ふき子となっている 。10月26日に宮崎家に嫁ぎ郁雨と夫婦になったはずだが、まだ「宮崎ふき子」ではない。婚姻届が出されたのは翌年1月24日である。どのような事情があったのか。  
 当時の宮崎家は「七夫婦三十人の大家族」であった 。そして嫁いで早々から宮崎家跡取り息子の嫁ふき子の想像を絶する苦労がはじまったらしい。宮崎郁雨の歌集「椿落つ」 から2首引いておこう。 
 君の来しその夜家風を説き聞けし父の無慙は今も忘れず
 われ父の撰びし人を否みしを含むかとしも思へ
(ママ)き父を
 「父」は宮崎家の当主宮崎竹四郎である。
 新妻ふき子の不幸の最たるものは夫郁雨の病気(今で言うノイローゼのたぐいか)であっただろう。このふき子に節子は書く。
 ふき子さん其の後はどうしておくらしですか、夢の様に一ケ月はおくらしでせう。何でも結婚当時はうれしいさうですから、あなたもたのしくくらしてお出でだらうと思ひます。兄さんはどうですか。あなたがかぶれたくらゐえらいよい人ですか。姉さんにだけはすべてお家の事ももらしてもらはねばなりませんよ、今では立派な御主人がおありですけれども、其れやこれやのことに充分お力になりますからすべて云ふてよこして下さい。相変らずお頭りがお悪いのですか、よくなぐさめて上げて、皆さんのお気に合ふ様にしなければなりませんよ。
 「相変らずお頭りがお悪い」のは郁雨である 。新妻は郁雨にとって節子の魅力とはかけ離れていたらしい。郁雨は結婚してますます節子を想い、ノイローゼになったまま新婚生活を送っているらしい。新妻は「七夫婦三十人の大家族」の中で孤立したまま頼る者さえいなかったようだ。
 節子はそんな妹の事情は全く想像していない。郁雨と結婚したのだから妹は「夢の様に」しあわせにちがいないと思っている。羨望の念さえ窺われる。そして函館の2軒の質屋においてきた帯と羽織を請け出してくれるよう「兄さん」に頼んでほしいと言い添える。
 節子がこんな手紙を書いていたのと同じころ、啄木は詩論「弓町(ゆみちやう)より(副題)食(くら)ふべき詩」の執筆にかかる。 
 これは11月30日の「食ふべき詩(一)」から12月7日の「食ふべき詩(七)」まで7回にわたって東京毎日新聞に連載された。
 「弓町より」は筆者の生活と発信の場を表し、署名石川啄木がこれにつづいている。つづいて本文の頭に記される副題「食(くら)ふべき詩」は詩論の内容を表す。
 1回~4回は自己の天才主義時代から生活者の視点獲得(現在)までの、簡潔を極めた自叙伝になっている。
 天才主義時代の自分に対する痛烈きわまりない自己批判が「空想家――責任に対する極度の卑怯者」の一言に凝縮されている。ここにこそ「回心」・「生活者の視点」・直視の思想の源泉がある。ここから啄木の「新らしい詩の真(まこと)の精神」も発する。

2015年5月 3日 (日)

石川啄木伝 東京編 345

 「きれぎれに心に浮んだ感じと回想」を見てみよう。
 自分の生活は「二重の生活」だと気が付いてゐながら、我々にはそれを統一せねばならぬといふ一大事を考へずにゐる場合が多い。さうして全く疲れ果てて了ふまで、二重三重の生活に何処までも沈んで行く。 
 「さうして全く疲れ果てて了ふ」様をわれわれはロ-マ字日記の6月の条に見た。啄木は今「二重の生活」を「理想」によって「統一」すべく奮闘している。
 他方で啄木は同じ評論で王堂をはるかに超える次元の問題提起をする。
  問題がより大きい時、或は其問題に真正面(まとも)に立向ふ事が其時の自分に不利益である時、我々は常に、何等かの無理な落着を拵へて自分の正直な心を胡麻化し、若くは回避しようとする。止むを得ない事ではあらうが、一度、「自己の徹底」とか「生活の統一」とかいふ要求を感じて来た時に見れば、それは言ふ迄もなく一種の恥づべき卑怯である。
 自分自身の昨日を省み、新聞、雑誌、著書等によつて窺はれる日本現代の思潮に鑑み、私は今特に此一事を千倍万倍に誇張して言ひたいやうな心持がする。

 直視が怖くて自己の真実と「人生の真面目」から目を逸らし「胡麻化し」つづけた8年間への真摯な自己批判を踏まえた提言である。とくに「自己の徹底」に注目したい。「自己の徹底」とは「時々刻々自分の生活(内外の)を豊富にし拡張し、然して常にそれを統一し、徹底し、改善してゆく 」ことを意味するようである。「生活の統一」とならんで今後しばらく啄木のモットーとなる。
 この「自己の徹底」は長谷川天渓の「現実主義の諸相」(「太陽」1908年6月)を批判する中でうちたてられていった。(「自己の徹底」とは、自己の内的生活=思想・作品の豊富化・拡充、その外的生活への拡大・拡充、と規定してよいであろう。)
 天渓はこの評論で「自我は、何処まで拡大し得るものであらうか」と自問し、「此の自我を日本帝国といふ範囲まで押し拡げても、毫も現実と相離れ、或は矛盾するやうのことは無い」という。昨年の生田葵山「都会」裁判以来、発禁また発禁の憂き目を見ている自然主義文学の、代表的論客長谷川天渓のこの言である。
 発禁になった自然主義の諸作品にくらべると、理性と知性によって統御された?外の「ヰタ・セクスアリス」およびその掲載紙「スバル」7月号さえ、国家によって発禁にされたのはつい最近のことである。その「スバル」の編輯兼発行人は当の啄木であった。
 啄木は天渓に向かって論難する。 
 長谷川天渓氏は、嘗て其の自然主義の立場から「国家」といふ問題を取扱つた時に、一見無雑作に見える苦しい胡麻化しを試みた。(と私は信ずる。)謂ふが如く、自然主義者は何の理想も要求もせず、在るが儘を在るが儘に見るが故に、秋毫も国家の存在と牴触する事がないのならば、其所謂旧道徳の虚偽に対して戦つた勇敢な戦も、遂に同じ理由から名の無い戦になりはしないか。従来及び現在の世界を観察するに当つて、道徳の性質及び発達を国家といふ組織から分離して考へる事は、極めて明白な誤謬である――寧ろ、日本人に最も特有なる卑怯である。
 啄木の言い分はこうである。日本における「道徳の性質及び発達」は「日本帝国」という「国家」と不可分の関係にある。自然主義者の自我が「旧道徳の虚偽」と確執をかもしたのであれば、これと不可分の関係にある「国家」とも確執をかもす可能性がある。天渓はこれを恐れて「道徳の性質及び発達を国家といふ組織から分離し」た。そして「自然主義者は……秋毫も国家の存在と牴触する事がない」ともっていった。これは「日本人に最も特有なる卑怯」である。
 こう論難しながら、啄木は自らを抜き差しならぬ場へと押し出す。自分がもし「卑怯」でないというのなら、「国家の存在と牴触する」場合はこれと確執をかもすことを辞さない、ということになるのだから。
 「ヰタ・セクスアリス」・「スバル」の発禁という経験は、直視する人石川啄木の中で、今「国家との確執」の思想として醸成されつつある。

2015年5月 2日 (土)

石川啄木伝 東京編 344

 啄木は自分のこの詩を源にして「事ありげな春の夕暮」「柳の葉」「騎馬の巡査」を生み出して行く 。
 見てきた無題の2編は(1編は未完ではあるが)、口語自由詩人石川啄木の誕生を示す指標である。これらの試作を経て、詩論「弓町より」が書かれることになる。
 さて、啄木の王堂受容の様を見ておこう。(詩作に摂取した場合はいま見た。)
 王堂が本格的に啄木の論調に現れるのは11月25日朝脱稿の「きれぎれに心に浮んだ感じと回想」である(「スバル」12月号所載)。
 前掲「文芸に於ける具体理想主義」および「具体理想主義は如何に現代の道徳を理解するか」から王堂の言わんとするところ、啄木にヒットしたらしき箇所を要約摘記しよう(王堂の長広舌の引用はこのやり方を用いるしかない。傍点は引用者)。
 「人間の終極の目的は欲望の実現又は満足にある……」(「文芸」)「然しながら、人間は無限に彼の欲望を満足せしむる無限の力を持たないのであるから、すべての欲望を箇々の要求通りに満足せしむることは出来ない。若し強ひてそれを満足させやうとするならば、生活の破壊を来たすから、人間は統一あり幸福ある生活を持続する為めには、……同時に起る欲望或は前後に起る欲望を整頓することが必要になる。……(具体理想主義の)理想とは即ち斯く欲望を整斉し行く方針のことである。」(「道徳」)→生活の統一
 「……下等動物にあつては単一なるものであつた欲望が、人間にあつては忽ち統一する側面と、統一さるゝ側面との二つを表はして来る。統一する側面は吾人が常に理想を呼ぶ所のものであつて、統一さるゝ側面は肉欲と呼ぶ所のものである。人間の生活はある方法に於て、必ず此の両側面の協同さるゝのを俟つて初めて継続し、且つ発展するものであ」る。(「文芸」)→生活の統一
 天才主義時代のかれの8年間を田中理論で総括するとこうなるであろう。
 この8年間の「理想」は天才主義であった。「欲望・肉欲」にあたるのは自己の天才の実現であった。8年間は天才主義の破綻と自己実現の不可能と「生活の破壊を来た」した。
 今の啄木の「理想」は家族の「幸福ある生活を持続する」ことである。「欲望・肉欲」にあたるのは「文学中心の生活」(あの節子に批判し抜かれた)である。
 「此の両側面の協同さるゝ」ことを今の啄木は「生活の統一」と呼ぶ(後述)。

2015年5月 1日 (金)

石川啄木伝 東京編 343

 「無題(秋の夕べの重くるしさ……)」を引こう。
 
 秋の夕べの重くるしさ
 柳の枝は一条々々に
 限りなき重たさを以て、
 冷たい鉄の欄干
(てすり)に口づけ、
 椅子による男の膝には、
 涙にぬれた女の顔――
 
 空をとぶ烏の羽音を   
 小蒸気の汽笛がかきみだし、
 遠くで鉄板を叩く音。
 小児は空気の重さに泣き出し、
 大川は水の逆さに流れる時。

 室の中には青白い瓦斯の光が
 卓の上の紅薔薇を黒く見せ、
 振子の動かぬ時計の中に、
 人生の階段を下る重い重い
 「時」の獣の忍びやかな足音が潜む。

 秋の夕べの重くるしさ。
 女工は給料を前借して家路を急ぎ、
 厩には馬が病む。
 別ればなしが女を泣かせ、
 男は手足のやり場にこまる。

 秋が一番好きな啄木だが、この詩の「秋の夕べ」は「重くるし」い。節子家出の大ショック、帰宅後ますます悪化した嫁姑の険悪の仲。家庭の空気は重苦しく、それを察する京子は荒れる、泣く。そんな詩人の生活背景を念頭に置いて読むのがこの詩の場合有益であろう。
 四つの連からなる。起承転結をなしている。
 第一連。
 「秋の夕べの重くるしさ」は柳の枝と鉄の欄干に象徴される女と男の仲に表わされる。
「柳の枝」はその小枝一本一本に無限の重さを持たせているかのように「冷たい鉄の欄干」に垂れかかる。まるで接吻するかのように、離れがたく。
泣きすがる女は男と離れたくない無限の思いがある。男は冷たい。
 起の連は屋外の視覚的世界である。
 第二連。
 夕暮れの重苦しさに堪えかねたかのよう飛び立つカラス。その羽音さえかき乱す小蒸気船の汽笛、鉄板を叩く音。
 「小児」には、母と祖母のいがみ合いに堪えられぬ幼女京子の苦しさが透けて見える。そして大川(隅田川)の逆流には妻節子の反逆が。
 承の連は屋外の聴覚的世界である。
 第三連。
 景は室内に転じる。青白い瓦斯灯の光はすでに室内が暗いことを示す。「卓」があり「紅薔薇」があるから洋食店の室内か。「振子の動かぬ時計」はその店(であるとして)が二流以下であることも表していようか。
 その「振子の動かぬ時計の中に」時間が進む。室内にいる人は下降する「重い重い」「人生」の「時」を歩んでいる。わたくしは先に見た書簡を想起する。「私には新しき無言の日が初まりました。私はこの、一寸のひまもなく冷たい壁に向つてゐるやうな心持に堪へられません。然しこの心持をそらすやうないかなる方法もとりたくありません。」妻家出の五日後に金田一に宛てたはがきの一節である。
 転の連は室内で推移する重い時間である。
 第四連。
 「秋の夕べの重くるしさ」に還る。「女工」は「給料を前借して家路を急」ぐ。家の貧しく重苦しい家計を暗示する。彼女の父は馬が仕事道具なのであろう、農耕馬か荷役馬であろうその馬は今「厩」で病んでいるのだ。(「前借」と言えば啄木の代名詞。毎月毎月前借しては「家路を急」いでいた。)
 男と女の重苦しい関係は「別ればなし」だった。別れまいとするのは女の方ばかり。「男は手足のやり場にこまる。」男女逆転すれば啄木と節子の関係のパロディだ。
 見事に起承転結が決まっている。
 啄木はここで私小説的な詩を書こうとしたわけではない。「都市生活の諸相と都市生活者の心理をパノラマのように繰り広げる」ことを主題としている思われる 。視点はもちろん耽美派に対立する「生活者の視点」である。しかし今年の秋の事件は詩作にあたって避けて通れぬ衝撃だったのであろう。
 小川武敏が啄木の「この時期の詩的発想の全てを含む重要な」作品であると言い、木股知史が「『心の姿の研究』に加えられても少しも不思議ではない」詩と評価している とおり、啄木詩の傑作に属する。
 これを「心の姿の研究」に入れて発表しなかったのはなぜか。啄木が「あまりに自己の生活や心情を反映した詩」だからであろうという小川武敏の推察 が正鵠を得ているように思われる。

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