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2015年6月 8日 (月)

石川啄木伝 東京編 369

 我々の理性は、此の近代生活の病処を研究し、解剖し、分析し、而して其病原をたづねて、先づ我々人間が抱いて来たところのあらゆる謬想を捨て、次で其謬想の誘因となり、結果となつたところの我々の社会生活上のあらゆる欠陥と矛盾と背理とを洗除し、而して、少くとも比較的満足を与へるところの新らしい時代を作る為め、生活改善の努力を起さしめるだけの用をなし得ぬものであらうか。……私は現時の自然主義者非自然主義者を通じて大多数の評論家の言議に発見する性急なる思想――出立点から直ぐに結論を生み出し来る没常識を此のなつかしい人の言葉の中にも発見せねばならなかつた事を悲む。
 7年間の浪漫主義(浪漫的(ロマンチツク))克服の経験と現在とを踏まえている。このことを下敷きにすれば「近代生活の病処」は九月以前の啄木自身の「病処」でもあり、「謬想」とは七年間の「浪漫的(ロマンチツク)」でもあり、「欠陥と矛盾と背理と」の「洗除」とはあの真摯な自己批判でもある。
 しかしその個人的思想体験を啄木はみごとに「近代生活」すなわち「国民生活(ナシヨナルライフ)」の「科学的、組織的考察」 の方法へと発展させている。近代ブルジョア社会の最もラジカルな批判者としての西欧の社会主義者が自己の研究の出発点とした地点に啄木もまた到達しつつある。
 しかし今の啄木はプラグマチスト王堂の徒でもある。王堂は現代日本社会は「政治や、道徳や、宗教や、科学や、文芸や」の諸「機関」から成り立っていると言うが、これらの「機関」相互の関係は考察外である。ただそれらは「皆な具体理想主義の精神に依て組織され、支配されていると信ずる」からそうなっているのだと主張する。
 漱石が言ったように「王堂氏は十字街頭に立つて汝等斯くすべし、斯くすべからずと積極的に呼号し得る底の特殊なる何物をも把持して居らぬ」人である。啄木が到達した地点と王堂の具体理想主義とは相容れぬのだが、「生活」を最重要視し、自分と家族の生活のために必要な実践をすべてに先行させているプラグマチスト啄木にはその相反性が目に入らない。
 個人の「生活改善の努力」を追求して行けば、やがて「社会生活」も改善されると思っている。だから「近代生活の病処」から悲観的な結論へと直結する「現時の……大多数の評論家」は(残念ながら阿部次郎も含めて)「性急」だという。
 どうすればいいのか。
  我々は我々の自己を徹底し、統一し、其処に我々の行くべき正当なる途を発見し来つて生活を改善せんが為に、先づ何よりも先に自己及び自己の生活を反省せねばならぬではないか。
と言う。5つ目の段落の耽美派批判といい、この段落といい、あまりにも真面目、実際は非現実的、といわざるを得ない。

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