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2015年6月

2015年6月10日 (水)

石川啄木伝 東京編 370 (掲載終了のご挨拶)

 「一年間の回顧」とこの「巻煙草」とを合わせて載せた「スバル」新年号の「消息欄」に事実上の編集者江南文三(名義上の編輯兼発行人は石川一)はこう記す。
   肥たごくさいと言へば、石川君の評論も少し臭い様だなと言ひかけてこの通り口に手を当てて居る。此通り。(二十三日文三記)

 「巻煙草」の末尾に啄木は「十二月二十三日夜」と記しているから、この原稿が編集部に届いたのは24日中のことであろう。江南が「二十三日文三記」と書いた時点ではかれは「巻煙草」の原稿はまだ見ていないことになる。そうだとすれば、江南のメモは「一年間の回顧」に向けたものということになる。しかし「巻煙草」の原稿を見た文三がいっそうその感を強めたであろうことはまちがいない。
 12月28日金田一京助、林義人の五女静江と結婚。金田一によるとこの結婚は(蓋平館時代の)「気まぐれな石川君の無聊の産物の一つ」だった 。

 かくて波瀾万丈多事多端の1909年(明42)は暮れ、床屋の2階6畳2間に一家5人が揃って新年を迎える。

                   2013年3月28日10:54脱稿

 執筆中の「石川啄木伝」のブログ掲載を、この回をもって終了致します。1910年(明治43)4月11日まで書いてありますが(合計約82万字)、これから啄木の死までの2年分を書き継ぐことに集中するためです。
 2013年6月から2015年3月まで「石川啄木伝」執筆を中断し、その2年間を『最後の剣聖 羽賀凖一』の執筆・刊行に費やしました。そしてこの3月同時代社より本書を出版しました。この本には啄木研究30年間の経験を活用したつもりです。ご興味を持って下さった方はHP「同時代社」を覗いてみてください。
 いよいよ今月から「石川啄木伝」の執筆にもどります。わたくしはすでに満76歳6ヶ月。惚けないで擱筆できるのか、一抹の不安を抱きながらの再出航です。擱筆は順調にいって2年後だと思います。その時は、78歳6ヶ月、ほんとうに書き上げられるのか。このブログをいつも訪問してくださった、約40
(?)人のみなさん、笑わずにお見守り下さい。長い間のご訪問ありがとうございました。 
 無事書き上げて『石川啄木伝』出版を寿いでいたただける日を夢見つつ、ご報告と御礼まで。

 なお「石川啄木伝」擱筆までの間、執筆中に思ったことなどをこのブログでぽつりぽつり述べてみようかな、と思っております。たまに覗いてみてください。

 可笑しな追伸
 6月8日午後2時半頃、筋トレジムに向かう途中、車道と歩道の境目の極小段差に自転車の前輪が滑り、左に激しく転倒。左肩と側頭部を打たないように全力で右に体をひねりました。あまり激しく捻ったので転倒と同時に右側5番目の肋骨を折りました。右手もケガして今(9日夕方)もぶし色に腫れています。でもこのブログを入力できるまでに痛みは薄らぎました。惚ける前に身体が壊れるかも知れないと、失笑しております。呵呵

 

 

2015年6月 8日 (月)

石川啄木伝 東京編 369

 我々の理性は、此の近代生活の病処を研究し、解剖し、分析し、而して其病原をたづねて、先づ我々人間が抱いて来たところのあらゆる謬想を捨て、次で其謬想の誘因となり、結果となつたところの我々の社会生活上のあらゆる欠陥と矛盾と背理とを洗除し、而して、少くとも比較的満足を与へるところの新らしい時代を作る為め、生活改善の努力を起さしめるだけの用をなし得ぬものであらうか。……私は現時の自然主義者非自然主義者を通じて大多数の評論家の言議に発見する性急なる思想――出立点から直ぐに結論を生み出し来る没常識を此のなつかしい人の言葉の中にも発見せねばならなかつた事を悲む。
 7年間の浪漫主義(浪漫的(ロマンチツク))克服の経験と現在とを踏まえている。このことを下敷きにすれば「近代生活の病処」は九月以前の啄木自身の「病処」でもあり、「謬想」とは七年間の「浪漫的(ロマンチツク)」でもあり、「欠陥と矛盾と背理と」の「洗除」とはあの真摯な自己批判でもある。
 しかしその個人的思想体験を啄木はみごとに「近代生活」すなわち「国民生活(ナシヨナルライフ)」の「科学的、組織的考察」 の方法へと発展させている。近代ブルジョア社会の最もラジカルな批判者としての西欧の社会主義者が自己の研究の出発点とした地点に啄木もまた到達しつつある。
 しかし今の啄木はプラグマチスト王堂の徒でもある。王堂は現代日本社会は「政治や、道徳や、宗教や、科学や、文芸や」の諸「機関」から成り立っていると言うが、これらの「機関」相互の関係は考察外である。ただそれらは「皆な具体理想主義の精神に依て組織され、支配されていると信ずる」からそうなっているのだと主張する。
 漱石が言ったように「王堂氏は十字街頭に立つて汝等斯くすべし、斯くすべからずと積極的に呼号し得る底の特殊なる何物をも把持して居らぬ」人である。啄木が到達した地点と王堂の具体理想主義とは相容れぬのだが、「生活」を最重要視し、自分と家族の生活のために必要な実践をすべてに先行させているプラグマチスト啄木にはその相反性が目に入らない。
 個人の「生活改善の努力」を追求して行けば、やがて「社会生活」も改善されると思っている。だから「近代生活の病処」から悲観的な結論へと直結する「現時の……大多数の評論家」は(残念ながら阿部次郎も含めて)「性急」だという。
 どうすればいいのか。
  我々は我々の自己を徹底し、統一し、其処に我々の行くべき正当なる途を発見し来つて生活を改善せんが為に、先づ何よりも先に自己及び自己の生活を反省せねばならぬではないか。
と言う。5つ目の段落の耽美派批判といい、この段落といい、あまりにも真面目、実際は非現実的、といわざるを得ない。

2015年6月 6日 (土)

石川啄木伝 東京編 368 

 最後(8つ目)の段落は浪漫主義を論じるところから始まる。最初の上京(02年10月)以来ついこの間(09年9月)までの約7年間、浪漫主義に陶酔し、実行し、大地にたたきつけられるまで辛酸をなめ尽くしたのであった。いわば浪漫主義の酸いも甘いもかみ分けた人の言葉である。
   浪漫主義は弱き心の所産である。如何なる人にも、如何なる時代にも弱き心はある。従つて浪漫主義は何時の時代にも跡を絶つ事はないであらう。最も強き心を持つた人には最も弱き心がある。最も強き心を持つた時代には最も弱き心がある。
 こうして啄木はまず、自分を触発してくれた阿部次郎の「驚嘆と思慕」への深い共感の念を表明する。
  十二月十日の朝日新聞に載つた阿部峙楼氏の「驚嘆と思慕」といふ、情理並び到れる一文は、はしなくも私の心を動かした。「自然主義の浪漫的要素を力説したい」といふ氏の心境には言ひがたき懐しさがある。
 阿部は「今の人の心は疲れ老い古び且つ冷めて」かつてワーズワスが「虹」で歌ったような「素朴無邪気な」「驚嘆(ワンダア)」は失われてしまった。しかし「失ふとは必ずしも忘れることではない」「驚嘆を失つた心は」かえって「前古無比の強さを以て之を思慕する様になつた」という。こうした展開を受けて啄木は続ける。
   が、あのうちに氏は、吾人の生活は、「新鮮なる心を失ひて新鮮なる心を愛するの念は愈々募り、生命の尊さをしみじみと感ずるのに、生命の疲労次第に身に迫るを覚ゆる生活」であるとして、そして「此の如き状態に在りて真正に生きようとする努力の行き途は、唯思慕する情を強め、驚嘆し得ぬ心を悲しむ哀愁の念を深めて、此方面より生命の源に遡るより仕方がない」と言つてあつた。
 阿部は今の日本にあって「真正に生きようとする努力の行き途は」「驚嘆し得ぬ心を悲しむ哀愁の念を深め」て驚嘆へ「遡るより仕方がない」という。啄木は問う。「果して我々には、実にさうするより外に真正に生きる途が無いのであらうか」と。
 啄木はこう自答する。

2015年6月 4日 (木)

石川啄木伝 東京編 267

 「感情の清新といふ事だけから言」うだけにしても、水野葉舟より劣るとは、荷風もずいぶん低められたものである。葉舟の「おみよ」「ある女の手紙」あたりを啄木は念頭のおいているのであろうか。「百回通信 二十」で啄木は「新帰朝者の日記」を読んだことを述べているから、発禁になった『歓楽』ではなく、『荷風集』を読んだようである。と言うことはもっとも重要な「歓楽」「監獄署の裏」「祝杯」の3編は読んでいないのかも知れない(雑誌掲載時に読んだ可能性はあるが)。
 荷風作品への批判的評価は啄木の当面の批判対象が耽美派であること、啄木自身は強いて言えば今のところ「自然派」であることと表裏をなすのであろう。
 また花袋・荷風を挙げながら、漱石について言及がないこともこの時期の啄木に特徴的である。この年5月には『三四郎』が春陽堂から出、6月27日~10月14日には「それから」が東京朝日に連載されたのである。啄木は先に見たように漱石門下の森田草平、小宮豊隆、阿倍能成を評価するが、漱石には距離を取っているかに見える。(この年10月~12月に東朝に連載された「満韓ところどころ」に啄木が批判的であったであろう事も影響してるかも知れない。注83参照)
 5つ目の段落で「世の中には、自分及び自分の仕事を何の考量比較を費すことなくして、特に他人及び他人の仕事より尊貴なものとし、何者よりも侵さるゝを許さぬものとしてゐる人がある」にはじまる、耽美派批判を展開する。標的は白秋・杢太郎よりも荷風その人ではないかと思われる内容である。

2015年6月 2日 (火)

石川啄木伝 東京編 366

 翌日夜ふたたび「スバル」に寄せるための評論「巻煙草」を書く。まず「四十二年の文壇で最も活動した人」として田山花袋と永井荷風を挙げる。
 花袋の「田舎教師」に対してはこれを極めて高く評価する。しかし「妻」「写真」「罠」に対しては手きびしい批判を浴びせる。
 荷風のこの年は豊穣である。3月『ふらんす物語』を博文館から出して配本前に発売禁止。9月には「歓楽」「監獄署の裏」「牡丹の客」「花より雨に」「狐」「曇天」「深川の唄」「春のおとづれ」「祝杯」の9編を集めた『歓楽』を易風社から出すが4日後の9月24日には発売禁止。そこで荷風は発禁の対象となったとおぼしき「歓楽」「監獄署の裏」およびこれも危ないと見なした「祝杯」を除き、代わりに「中央公論」10月号に載せた「帰朝者の日記」を「新帰朝者の日記」と題して入れて、『荷風集』を同じ易風社から出した(10月21日)。
 さてこの荷風に対してこう評する。
   ……氏の活動が明治四十二年以後に於ける最も注意すべき現象である事と、氏自身、色々の意味から考へて、最も有力なる作家の一人である事とを言ふに止めようと思ふ。
と言い具体的な評価をしない。ただつぎのように言う。
 人は氏の感情を清新だといふ。それは或程度まで事実である。然し私は、氏の感情は清新と言ふよりも放恣であると言つた方がもつと適当のやうに思ふ。
   ……単に感情の清新といふ事だけから言へば、氏よりも水野葉舟氏の方が一層清新であると言ふべき理由がある。少くともあの「隅田川」といふ作の如きは、部分々々には立優つた記述もあつたけれど、全体として作の価値は硯友社一派の往時の作風以上に一歩も踏み出してはゐなかつた。

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