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2020年1月

2020年1月30日 (木)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その24-1

 なんのことはない。自分の「浪漫的(ロマンチツク)」時代七年間
の反省の言葉なのである。そして王堂流の「さうして、最も性急
(せつかち)ならざる心を以て、出来るだけ早く自己の生活その物を
改善し、統一し徹底すべきところの努力に従ふべきである。」とい
う説教にゆきつく。白秋や杢太郎や勇等にとっては馬耳東風であ
ろう。江南文三はこれを「肥たごくさい」と言ったのだ。
 しかし「性急な心」批判は『麵麭の略取』批判にもつながるは
ずのものである。クロポトキンの思想ほど「性急(せつかち)なる思
想」もめずらしいからである。啄木は一方で無政府主義に惹かれ
ながら、ついに無政府主義者にならなかったのは、「浪漫的(ロマン
チツク)」をしたがって「性急(せつかち)なる思想」を心底から反
省していたからなのである。
 ともあれ、王堂とも自然主義とも袂を分かつ日は遠くあるまい。
 2月19日の金田一宛書簡末尾にある一行は啄木の内部でクロポ
トキンの影響が深く進行していることの証拠と思われる。
  ……
 凡そ小生の近頃感じつゝある事ほど世に――否、
 このあと「奥様、安三様へよろしく、」で終わる(安三は京助の
弟)。
 この手紙を出した前後であろうか、啄木は600ページの英書の
大冊を読み始めたらしい。

2020年1月29日 (水)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その23

「其国家組織の根底の堅く、且つ深い点」とは「神聖ニシテ侵ス
ヘカラ」ざる「万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」る体制を指していよ
う(天皇信仰は日本人の心情深くに根を張りつつある)。「真に
国家と個人との関係に就いて真面目(しんめんぼく)に疑惑を懐いた人」
とは誰よりも啄木その人であろう。「其人」には「此国家」に対
する「反抗」の念さえ頭をもたげてきている。が、自然主義は長
谷川天渓のように国家に媚びを呈している。
 『麵麭の略取』は「道」を書き終えたばかりの啄木の思想的基
盤を破砕する読書体験となった。天皇制 国家権力への反抗の念、
なんという想念が芽生えたことか。これと王堂を基盤にした修身
斉家治国平天下的思想とが同居できるわけがない。
「性急(せつかち)な思想」というタイトルにも触れておこう。すで
に「巻煙草」の中に「私は現時の自然主義者非自然主義者を通じ
て大多数の評論家の言議に発見する性急なる思想――出立点から
直ぐに結論を生み出し来る没常識」とあった。
 「性急(せつかち)な思想」三でも言う。
 性急な心は、目的を失つた心である。此山の頂から彼の山の頂
に行かんとして、当然経ねばならぬところの路を踏まずに、一足
飛びに、足を地から離した心である。危ない事此上もない。目的
を失つた心は、その人の生活の意義を破産せしめるものである。
人生の問題を考察するといふ人にして、若しも自分自身の生活の
内容を成してゐるところの実際上の諸問題を軽蔑し、自己其物を
軽蔑するものでなければならぬ。

2020年1月27日 (月)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その22

 『麵麭の略取』を読んだことを示す重要な証拠となった原稿断
片である。
 クロポトキンの「代議政体」否定に対して、啄木は「代議政体」
を擁護しようとする。啄木の政治思想の出発点は盛岡高等小学校
時代に伊東圭一郎から学んだ自由民権運動の思想である。啄木は
クロポトキンの「代議政体」否定を王堂流の「我我の生活改善」
の思想によって反駁しようとするが、歯が立たないようだ。 
 しかし東京毎日新聞(2月13日~15日)に寄稿した「性急
(せつかち) な思想」(署名は「林下行人」)には刮目すべきクロポ
トキン摂取が見られる。
 昨年一一月下旬に書いた「きれぎれに心に浮んだ感じと回想」
を読んだ時、わたくしは「『ヰタ・セクスアリス』・『スバル』
の発禁という経験は、直視する人石川啄木の中で、今「国家との
確執」の思想として醸成されつつある。」と書いた。その啄木が
『麵麭の略取』を読んで「国家」とは「既定の権力」であるとい
う国家概念と出会ったのである 。
 国家が権力であるのならば、国家と個人が本然的に一体である
という理屈は成り立たない。事実あの「スバル」発禁も国家が個
人の著作印行の自由(→表現の自由→「自己の徹底」)を圧殺し
たことに他ならない。少年の日から「自己拡張・自他融合」
(→「一元二面観」)を旗印にするほどに自己拡張を夢見た啄木
である。「性急(せつかち)な思想 二」にこう記す。
  ……日本は其国家組織の根底の堅く、且つ深い点に於て、何れ
の国にも優つてゐる国である。若しも此処に真に国家と個人との
関係に就いて真面目(しんめんぼく)に疑惑を懐いた人があるとするな
らば、其人の疑惑乃至反抗は同じ疑惑を懐いた何れの国の人より
も深く、強く、痛切でなければならぬ筈である。そして、……自
然主義の運動なるものは、旧道徳、旧思想、旧習慣のすべてに対
して反抗を試みたと全く同じ理由に於て、此国家といふ既定の権
力に対しても、其懐疑の鉾尖を向けねばならぬ性質のものであつた。

2020年1月26日 (日)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その21

 世界一の圧制国・帝政ロシアが生んだ無政府主義者だけあって
クロポトキンは過激である。革命への熾烈な翹望とそれに照応す
る反逆心と革命の妄想と独断とが渦巻いている。しかしそれを支
えている「安楽(ウェルビーイング)なるべき権利、即ち天下万民の安
楽」の思想は美しく、胸を打つ。
 現在の啄木が思想上の支えにしている田中王堂の具体理想主義
とクロポトキンの無政府共産主義にはいかなる共通性もない。眠気
を催す保守的な実用主義と眠気を吹き飛ばす過激な革命思想と。
 「道」を書き終えた直後にいかなるきっかけを得て、なぜ選りに
選って『麵麭の略取』を手にしたのか。 1903年(明36)二月の
敗残の帰京後に読んだ煙山専太郎『近世無政府主義』(伊東圭
一郎に借りたと思われる)以後、啄木はこんな過激な書を手にし
たことは一度もない。
 さっそく反応が二つ表れる。まずいわゆる「明治四十二年創作ノ
ート」に入っている無題の原稿断片である。
  文明人に対する一切の非難はこの意味に於て全く無意義なも
のとなるのである。たとへばクロポトキン翁が其著「麵麭の略
取」に於いて
  クロポトキン翁が其著“麵麭の略取”に於て説いてあるやう
に、我々の代議政体なるものが全く効力のない――我我の生活
改善に向つて何等の力も持つてゐないものとするならば、それは
非常な誤りでなければならぬ。つまりそれは政治の何物たるか
を知らぬ者のみの言ひ得ることでなければならぬ。政治とは我
々人類の生活を統一的改善するところの方法である。……
  ……
  即ち、我々の代議政体の職分は今日以後に在る。今日まで
の代議政体が我々に対して何の歓ぶべき結果をも齎らさなかっ
たのは、代議政体そのものの悪い為ではなくて、寧ろ我々自身
が不明だつたからである。第一の不明は、
  第一の不明は、、政治組織さへ改善すれば我々の生活その
ものが改善されると思つたことである。

2020年1月25日 (土)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その20

(承前)過去五十年間の歴史は、代議政体てふ者が、到底吾人が
期待せる職務を遂行するの能力なきことの、活ける証左を有して
居る。……否、此の無能は既に万人に知れ渡つて居る。(60ページ)

 曰く、人類てふ者の趨向は、政府の干渉を減殺して、零となす
にある。即ち不正、圧制及び独占の権化なる国家を禁絶するにあ
る。(57ページ)

  ……世に資本家が存在する限りは、斯る権力の濫用は底止す
る所はないのである。諸会社が今日所有せる如き独占権を彼等に
与へたる者は、正しく我等の恩恵者たるべき筈の国家其物である。
……其は同盟罷工に際して鉄道労働者を圧せんが為めに兵士を派
遣しなかつた乎。又最初の試験中……其保障せる株を下落せしめ
ざらんが為めに、鉄道の災厄を新聞紙に記載することを禁ずるま
でに、其権力を用ゐなかつた乎……(173~174ページ)

  安楽、換言すれば生理上、芸術上、道徳上の欲求の満足……
(192ページ)

  今や議会政治は微塵に砕け行きて、各方面から此統治に対す
る批難の声が――其結果に就てのみでなく、其原理に就ても――
次第に高くなり行くの時に当つて、苟くも革命的社会主義者と自
称する者が、如何にして既に死の宣告を受けたる制度を防衛せん
とするのであらう乎。(210ページ)

 (『麵麭の略取』の)「和訳例言」(幸徳秋水)から。
  強権とはオーソリチー、強権論者とはオーソリタリアンを訳
したのである。オーソリチーは、強権とも政府とも有司とも権力
とも訳される、総て此等の意味を含んで其場合に依て違ふ、近時
支那の同志は総て強権と訳して居るので之を仮用した。

2020年1月24日 (金)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その19

  クロポトキンの衝撃
 啄木は「道」を脱稿した直後の2月6日か7日にP.クロポト
キン著・平民社訳(実は幸徳秋水訳)『麵麭の略取』(平民社)
読んだ 。(同書は幸德事件以後昭和初期にかけて国禁の書の随一
とも呼ばれた発禁本である。)
 以後の啄木に深い影響を残した文言あるいは啄木が批判の対象
とした文言を摘記してみよう。   
  ……人類社会は、坐して滅亡を招かんよりは、遂に其第一義
に立帰るの已むなきに至る。一義とは何ぞ、曰く生産の方法は人
類の協同労務たるが故に、其生産物も亦種族全体の協同財産たる
べきこと、是れである。個人の専有は不正にして且つ不利である。
万物は万人の所有に属する。万人之を必要とする以上は、万人全
力を竭して之を生産する以上は、而して世界財富の生産に於ける
各人の担当を算定すること到底不可能なる以上は、万物は万人の
為めに在るのである。(33ページ)
   
  万物は万人の為めに在る! 男も女も若し正当なる仕事の分
担を為さん乎、彼等は亦人が生産せる万物に対して正当の分配に
与かる権利を有する。而して此分配は優に彼等が生活の安楽を保
障するに足るのである。……吾人の宣言する所は実に安楽(ウェルビ
ーイング)なるべき権利、即ち天下万民の安楽。(34ページ)

  ……吾人の必要を感ずるのは実に一個の社会的革命である。
此の革命の切迫せること、其遠からずして破裂すべきことは、是
れ亦富者と貧民と共に均しく認むる所である。(41ページ)

2020年1月23日 (木)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その18

 最後にこの小説がいかにも石川啄木らしからぬ、視野の狭さを呈
していることについてふれておこう。
 昨年末の一二月二二日夜、啄木は「文学上に於ける自然主義の
運動」を「時代精神の要求に応」じた運動と見なし、その「時代の
精神は、休みもせず、衰へもせず、時々刻々進み且つ進んでゐる」
と言いさらに「……彼此考へ合せて目を瞑ると、其処に私は遠く
「将来の日本」の足音を聞く思ひがする。私は勇躍して明治四十三
年を迎へようと思ふ」と書いていたのだった。自然主義はすでに解
体期にはいっており、かれらの言う「現実」・「人生」・「道徳」等々
はすでに皮相で卑小であった。啄木はこの自然主義を摂取しようと
したのである。
 さらに自然主義に関するこの錯誤の本質的な原因は当時の啄木
の「哲学」にある。かれは今田中王堂の忠実な学徒なのである。か
れは保守的で非現実的な王堂に従って「国家とか何とか一切の現
実を承認して、そしてその範囲に於て自分自身の内外の生活を一
生懸命に改善しよう」 と誠実につとめているのである。盛岡中学
校四年生以来、啄木がこれほどの視野狭窄に陥ったことはないし、
これ以後もない。
 これらが「道」の世界の限界を形づくった。
 かのグローバルな視野を持ち「国民生活」を常に直視する生活者
石川啄木がいつまでも自然主義や王堂「哲学」の圏内に留まってい
るはずがない。

2020年1月22日 (水)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その18

 そこが啄木の言う「僕一流の徹底的象徴主義(?)」なのであろ
う。「道」には確かに私小説的なある種のいやらしさは無い。
 
 このことと関連してモデルの問題にふれておこう。この小説では
作者はいわゆるモデルを使っていない。代用教員ものの「雲は天
才である」「足跡」「葉書」においては、啄木の代用教員時代の実
在人物がモデルとなっていることが明瞭であった。しかし「道」では、
多吉=啄木、松子=堀田秀子、前任女教師=上野さめ子、校長=
遠藤校長、雀部主席訓導=秋浜訓導等々が成り立たないほどに、
人物は実在した人たちとは引き離されて造型されている。たしかに
実在人物からたくさんの材料を借りてはいるが、それらはあくまでも
作者が構築する虚構のための材料であるに過ぎない。
 このことも私小説化をまぬがれた一因であろう。
「道」は以上のように読むとけっこう面白いと思うが、どうだろう。

2020年1月21日 (火)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その17

 以上のように読むことがなぜ可能か。
「道」執筆時に啄木が手本にしたのは自然主義の作品わけても田山
花袋の『田舎教師』とその文体であった(「道」は「田舎教師」群像
でもある)。これについては上田博の精細な分析を参照されたい。
 花袋の影響は『田舎教師』だけではない。すでに見たように『生』
の影響はあきらかである。外に花袋の『妻』もヒントになっている
はずである。啄木は前年末に書いた「巻煙草」において『田舎教師』
を絶賛し花袋が自分の妻を描いた『妻』を酷評している。が、啄木
が松子や山屋を通して妻節子を描こうとするきっかけに花袋の『妻』
があったことは疑いない。
 啄木が「道」において書こうとしたのは世代論あるいは世代間の緊
張ではなかったのである 。もっとずっと自然主義的・私小説的世界、
一家の内での年老いた父と若い息子の位置(老人と若い者との比)
および老若男女の性の問題にすぎなかったのである。
 ただきわめて自然主義的内実の小説でありながら、また平面描写
を含む花袋の文体を摂取しつつも 「私小説的」手法は一切とってい
ない。そこが啄木の言う「僕一流の徹底的象徴主義(?)」なので
あろう。
 「道」には確かに私小説的なある種のいやらしさは無い。

2020年1月19日 (日)

石川啄木伝 東京編 1910年(明治43)その16

 小川はさらに「妻に対する不信と疑惑」は「道」に近接して書
かれた小説断片「信者の家」の小学教師の妻や「我らの一団と彼」
の高橋の妻の、性的醜聞としても書かれていると指摘する。
 かくて「道」は妻節子が夫である自分以外の男性(現実には宮
崎郁雨)と性的関係を持ちうる女性であるのか、という問題をも
孕んでいるのである。
 多吉と松子のきわどい会話は「眇目(かため)の教師」××と女教
師山屋の問題に転じ、あのふたりはやはり性的関係があるのでは
ないか、郡視学に密告したのは雀部ではないかというところへ
落ち着いて行く。
 五〇歳くらいの××とおそらくまだ二〇代と思われる独身女性
山屋との関係は、老人の性の問題であるとともに若い女性の性の
問題でもあり、こちらは松子のひいては節子の性の問題に連関し
ている。
 さて、近道に失敗した三人の「老人たち」があらぬ方向からへ
とへとになってふたりに追いついてくる。
 最後の数行はこうである。
  水の音だけがさらさら聞えた。
「己はまだ二十二だ。――さうだ、たつた二十二なのだ。」多
吉は何の事ともつかずに、そう心の中に思つて見た。
 そして巻煙草に火を点けて、濃くなりまさる暗(やみ)の中にぽか
りぽかりと光らし初めた。
 松子はそれを、隣りの石から凝(じつ)と見つめてゐた。
 「道」の幾人かの登場人物の芯に石川家の二人があることはす
でに見た。目賀田・眇目(かため)の教師××・校長の中に一禎が、
松子・山屋の中に節子が浮かんでくるのであった。では多吉の芯
にはどんな啄木がいるのか。父に批判的な啄木、妻に疑惑を抱く
啄木がいた。そして末尾の数行の多吉には、どんな啄木がいるのか。
 若さをたよりに一家を養いつつ、自身の進路を模索する啄木を見
るべきであろう。
 「濃くなりまさる暗(やみ)の中にぽかりぽかりと光」る巻煙草の火は
多吉の心中の表現である。それを「凝(じつ)と見つめ」る松子のなか
に啄木家の誰の何を見るべきか。小川の「騎馬の巡査」の考察が
貴重なヒントになる。本稿「その2」に「父も母も妻も子も今は皆
私の許にまゐりました、私は私の全時間をあげて(殆んど)この一
家の生活を先づ何より先にモツト安易にするだけの金をとる為に働
いてゐます、」云々を含む啄木書簡を引いておいた。凝視する松子
の目は、夫啄木の自己変革がどれだけのものであるのか、若い夫は
今後どこに向かおうとしているのかを見極めようとする若い節子の
目なのであろう。

 

 

2020年1月18日 (土)

石川啄木伝 東京編 1910年(明治43)その15

節子の家出事件は夫に対する批判どころではない。「残された節
子の手紙を見るに、かなり以前から啄木への愛情はほとんど無く
なっているとしか思えないのである。」「最後の上京の時点で節
子の心は大きく郁雨の方へ傾いていたと思うべきだろう。むろん
精神的にだが、節子は夫より郁雨を求めていたのであり、家出事
件後、再び啄木のもとへ帰ってきてからも、その節子の気持に変
化は見られない。」と。そしてこう述べる。
  ……啄木が、こういった妻の気持に気づかなかったとは思え
ない。  
  ……つづめて言えば啄木はこの時、妻の中に見知らぬ<他人>
を発見したのである。
 おそらく、これも小説『道』執筆の隠されたモチーフであったと
思われる。ただ、この妻節子に対する不安と疑惑は、さすがの啄
木も正面から主題として扱うには抵抗があったようで、表面上は
老人と若者のテーマに覆われてしまっている。しかしこの前後には、
妻に対する根深い感情のもつれを暗に示すような断片がいくつか
見られる。『道』の直前書かれた「騎馬の巡査」では、第三連に、

  数ある往来(ゆきヽ)の人の中には
  子供の手を曳(ひ)いた巡査の妻もあり
  実家(さと)へ金借りに行つた帰り途(みち)
  ふと此の馬上の人を見上げて、
  おのが夫の勤労(つとめ)を思ふ。     

と描かれている。常日頃、生活の不如意を嘆いているらしい妻は、
当然実家に借金させるような「夫」を不甲斐なく思っているだろう
が、しかし須田町の街角で忙しく交通整理をしている巡査を見て、
「おのが夫の勤労(つとめ)を思ふ」のである。いうまでもなく、
ここには夫啄木の自責の念が反映しているとともに、「夫の勤労」
をわかってくれという哀しい願いもこめられていよう。たしかに
この時期、啄木は生活再建のためにできる限りの努力はしていた
のである。にもかかわらず妻節子が、一月一八日の手紙にあるよ
うに、情けない、面倒くさい、という心境で夫の願いに冷淡な無
関心を示し続けていたとすれば、啄木のやりきれなさは想像に余
りあるといってよい。最も身近な存在である父のみならず、安心
しきっていた妻の姿から得たこういう衝撃は、人生および人間認
識の深刻な変化を彼にもたらし、たとえば<人間、この不可解な
るもの>への開眼がなされたと思われる。
 詩「騎馬の巡査」は一月一三日の東京毎日新聞に載った。小川の
詩の読みは小説「道」を読み解くうえで貴重な意味を持ってくる(後述)。

 

 

2020年1月17日 (金)

石川啄木伝 東京編 1910年(明治43)その14

「娼婦」の中にも「娼婦性」を生得としては持たない人がたくさ
んいるだろう。まして女性全体でいえば「娼婦性」を持たない人
は無数にいるはずである。しかし「娼婦性」を持つ人もたくさん
いるはずである。
 多吉が感じているのは、多吉の誘惑的言動にあるものを期待し、
その言動に応じて男の気を惹こうとする女の態度である。これは
若い女性の性欲の発動の一形態であって多吉の誘惑的挑発的言動
(こちらは若い男性の性欲発動の一形態)と表裏をなす。これを
「娼婦性」と呼ぶなら、多吉にも「娼夫性」とでも呼ぶべきもの
があることになろう。ナンセンスに行き着く。
 一つの問題がある。多吉は独身の男なのか、妻帯者なのか、で
ある。若いうぶな男には言えないセリフ、浮かばない疑問であり
すぎる。渋民時代の啄木が妻帯者であったように多吉を暗黙のう
ちに妻帯者として設定しているのであろう。となると松子の多吉
に対する態度は妻有り男性に対するものとなる。微妙に「娼婦性」
に触れてくるともいえる。
 とはいえ松子にその傾向が若干窺われるからと言って「女には
皆娼婦の性質がある」と飛躍できるものではない。
 啄木が問題として提起したテーマは女の性・性欲の奥深さであ
ろうと思われる。
 なぜこんな問題を出してきたのか。小川武敏はそこに「妻節子
の存在」を見る。小川は言う。

2020年1月15日 (水)

石川啄木伝 東京編 1910年(明治43)その13

 真個(ほんと)に言つて了へば嚇(おどか)し過ぎだろう(二点リー
ダー「‥」16字分)。」と多吉は思つた。そして、「罷めましたよ。
貴方が吃驚(びっくり)するから。」
 松子は大丈夫と言い張る。日が沈んできたらしい。辺りがぼう
っとしてきた。松子は突然くっくっと一人で笑い出した。笑って
も笑っても止めなかつた。
 多吉は「女には皆娼婦(――2字分)の性質があるといふが、
真個(ほんと)か知ら。」とふと思う 。
 話題を前任の女教師のことに転じて「女は皆娼婦(――2字分)
の性質を持つてるつて真個ですかつて言つたら、貴方とはこれか
ら口を利かないつて言はれましたよ。」などと言う。
 そしてさっき「罷めた。」件に戻る。
 「僕が貴方を抱き締め(「――」4字分)ようとしたら、何(ど)
うしますつて、言ふ積りだつたんです。あははは。」
 「可いわ、そんな事言つて。‥‥‥真個(ほんと)は私も多分さ
うだらうと思つたの。だから可笑しかつたわ。」
 其の笑ひ声を聞くと多吉は何か的(あて)が脱(はず)れたやうに
思つた。そして女を見た。
 周匝(あたり)はもう薄暗かつた。
 「まあ、何(どう)しませう、先生?こんなに暗くなつちやつ
た。」と暫くあつて松子は俄かに気が急き出したやうに言つた。
 多吉には、然し、そんな事は何うでもよかつた。女といふ
(「――」4字分)ものが、急に解らないものになつたやうな心
持であつた。
 多吉は(作者啄木も)すべての女性に「娼婦の性質」があるの
ではないか、と疑う。
娼婦の性質」は「娼婦性」と言い換えてもいいであろう。
「娼婦」という職業は相手を選ばず性交に応ずるのが基本であ
る。「娼婦性」は本来的には「娼婦」という特殊な職業にある限
りで備えているべき女性の性的あり方およびそれに付随する態度
・振る舞い(媚び、誘惑など)の謂いであろう。言い換えれば、
性交相手を余り選ばない性向とそれに付随する媚びや誘惑的言動
とでもなろう。「娼婦」である女性個々人の生来の性向を指す言
葉ではない。

2020年1月14日 (火)

石川啄木伝 東京編 1910年(明治43)その12

 小川の言う「性的な主題」は若い人の問題へと展開する。
 谷川の橋の「危なげに丸太を結つた欄干に背を」もたせて、三人
の「老人(としより)」を待つ多吉と松子は微妙な会話を始める。その
橋からS――小学校まではもう「十一二町しかな」い。
 時間は日暮れ近く、場所は人気の無い村はずれ、男も女も満で言
えば21か2。女が赴任して「一月(つき)と経」っていないのだか
ら、ふたりのつきあいはきわめて浅い。その男女の会話として読むと
かなりきわどい。松子は独身だが多吉は妻帯か否か不明である。
しかしセリフの内容からすれば、ただの独身男とは思えない。
 「此処で待つて来なかつたら何(ど)うします?」
 「私は何うでも可くつてよ。」
  ……
「そんなら何時まででも待ちますか?」
「待つても可いけれど‥‥‥」 
「日が暮れても?」
「私何うでも可いわ。先生の可いやうに。」
 恋人同志ではない交際の浅い若い男女の会話にしては、男の探
るような言葉、女の誘いを待つような受け答え。
 多吉は日が暮れて真っ暗になったら山賊が出てきてあなたに襲い
かかるかも知れない、とからかってみるが、女は動じない。そこで
多吉はこう切り出す。
  「それぢや若し‥‥‥若しね。」
  「何が出ても大丈夫よ。」
  「若しね、‥‥‥」
  「ええ。」
  「罷めた。」
  「あら、何故?」
  「何故でも罷めましたよ。」
   多吉は真面目な顔になつた。
  「あら、聞かして頂戴よう。ねえ、先生。」
 多吉がなにかきわどいことを言い出すのを松子はむしろ期待し
ているかのようだ。

2020年1月13日 (月)

石川啄木伝 東京編 1910年(明治43)その11

 一禎という人は性的にも野放図なところがあったし 身体強壮
でもあったようだ。その一禎(この時かぞえ60歳)が上京して久
し振りに老妻カツ(63歳)と再会したのだった。襖一つ隔てた隣
室から拒否するカツと執拗に求める一禎との悲喜劇的なやりとり
の聞こえてくることがあったのかも知れない。となると、作者啄
木の老人の性への嘲笑は、父の性に対する批判の転写ということ
になる。
 このようにわたくしが勘ぐるのにも傍証はある。
三人の「老人(としより)」は批評会後に出た酒を楽しんだ。その後
また大きな農家に呼ばれてそこでも酒が出された。目賀田はとく
に飲んでとくに酔った。多吉は松子に向かってこう評する。
  僕も年老(としよ)つて飲酒家(さけのみ)になつたら、ああでせうか?
実に意地が汚い。目賀田さんなんか盃より先に口の方を持つ
て行きますよ。
 一禎こそ「年老(としよ)つて飲酒家(さけのみ)になつた」人であろう。
節子の先の手紙を再度引く。「父は酒を毎晩ほしがるし、仲々質
屋と縁をきる事はむづかしい様ですよ。何時も何時もピーピーよ」
 三人の「老人(としより)」とくに目賀田(60歳前後)へのきつい批判
はこうした一禎と不可分であろう。老人の性への批判にも同様の
ことが言えると思われる。

2020年1月12日 (日)

石川啄木伝 東京編 1910年(明治43)その10

 性的な主題は多吉が校長夫婦の性を揶揄する部分などに既に姿
を見せていた。本格的には実地授業批評会冒頭における「眇目(か
ため)の教師」××の発言をきっかけに展開される。(ゴシック体
は近藤の復元試案)
  一同何を言ひ出すのかと片唾をのんだ。常から笑ふ事の少
い眇目(かため)の教師は、此の日殊更苦々しく見えた。そして語
り出したのは次のやうな事であつた。――先月の末に郡役所か
ら呼出されたので、何の用かと思つて行つて見ると、郡視学に
別室へ連れ込まれて意外な事を言はれた。それは外でもない。
自分が近頃ここにゐなさる山屋さんと理無(わりな)い仲にある
いふ噂があるとかで、それを詰責されたのだ。――
 「実に驚くではありませんか?噂だけにしろ、何しろ私が先
づ第一に、独身で斯うしてゐなさる山屋さんに済みません。それ
に私にしたところで、教育界に身を置いて彼此三十年の間、自
分の耳 の聾(つんぼ)だつたのかも知れないが、今迄つひぞ悪い噂
一つ立て られた事がない積りです。(中略-引用者)私は学校
に帰つて来て から、口惜しくつて口惜しくつて、男泣きに泣き
ました。」    (引用者中略)
  一同は顔を見合すばかりであつた。と、多吉はふいと立つて
外へ出た。そして便所の中で体を揺(ゆすぶ)つて一人で笑つた。
苦り切つた××の眇目(かため)な顔と其の話した事柄との不思議な
取 合せは、何うにも斯うにも可笑しくつて耐らなかつたのだ。
 老人の性(性欲)への嘲笑である。老人の性はなぜこんなに笑わ
れねばならないのだろう。作者の批判(嘲笑)の立脚点が分からな
い。おそらく「私小説」的に読むことだけが解釈を可能にする。

2020年1月11日 (土)

石川啄木伝 東京編 1910年(明治43)その9

 小川武敏はいう。「こういった老人と若者のメイン・テーマに
絡みながらもうひとつのサブ・テーマが『道』に存在する。それ
は性的な主題である」 と。
 小川の考察に導かれつつ、この面から「道」を読んでみよう。
その場合の隘路はテキストの伏字である。「新小説」4月号のテ
キストによると伏字には主に二点リーダー「‥」が使われている。
二点リーダーを活字1字分として、伏字部分と推定できる箇所を
数えると16箇所計294字分もある。その外にダッシュを用いた伏
字が4箇所、計12字分ある。20箇所計306字分はひどい。啄木が
郁 雨宛書簡(1910年4月12日)でふれているのはそのことだ。
  『道』――あれには方々に‥‥‥‥だの――だのが沢山あつ
たらう。あれは皆「新小説」の奴等が禁止を恐れての仕事だ。随
つて意味のつゞかぬところもあるよ。
 「風俗壊乱」という凶器を振り回して性に関する表現を徹底的
に抑圧する国家権力を恐れ、春陽堂の編集部も神経質に自主規制
したわけである。しかしこの伏字は「道」のサブテーマの読みを
損なうことおびただしい。伏字部分の推定的復元なしに「道」を
読み評価しては著者に対して公正を欠くであろう。以下伏字部分
を含む引用にあたっては試験的にわたくしの復元例を入れること
にしたい。

2020年1月 9日 (木)

石川啄木伝 東京編 1910年(明治43)その8

 小川が言うように啄木の「その思いは衝撃や驚きではなく一種
憎悪に近いものだった」と思われる。啄木が「道」で描いた「老
人(としより)達」への酷薄とも言える批判はこう解釈すれば腑に落
ちる。田山花袋は「生」において自分の老母を「皮剥の苦痛」に
耐えながら描いたが、これにヒントを得かつ学びつつ、目賀田・
校長・「眇目(かため)の教師」××の三人(後述)に父一禎を写し
たのだ。啄木は内実と描写方法は自然主義的であるが「父」を全
く出さないで「私小説」を書いたことになる。これを称して「僕一流の
徹底的象徴主義(?)」といったのであろう。
  花袋はその代表的な自然主義小説「生」において「皮剥の苦痛」
なしには母を描けなかったが、啄木はその苦痛なしに父を描けた
ように見える。しかも一禎は明治四三年を生きている老人の一人
とはいえ見てきたように極めて特殊な老人である。これをいくら
批判しても「文化の推移の激甚な明治の老人達の運命」を描くこ
とにはならないのではないか。したがって上田博が言ったよう
に「『道』の形象はきわめて貧弱であ」り、「『道』には『はてしなき
議論の後』に見るような深い歴史的認識はない」という評価に落
ち着かざるをえないのである。しかし啄木が上田や小川の求める
ような意味での「世代論」をテーマに「道」を書こうとしたのか、
という問題は残っている。
  この問題はひとまず措いて次に進もう。

2020年1月 8日 (水)

石川啄木伝 東京編 1910年(明治43)その7

(承前)前年末に父を迎えて一息ついた啄木が、残余の人生に対し
て既に何等の希望も持たぬ無気力な父の姿勢に改めてやりきれぬ
思いを抱いたとしても無理はない。しかもその思いは衝撃や驚きで
はなく一種憎悪に近いものだったのではあるまいか。小説『道』に
形象化された老人の姿には、このような父に対する無言の反撥が
根底にあったと思われるのである。
 同時に、父一禎の行動も、家族を放置して家長としての責を全う
しなかったという点では、前年までの啄木の態度と軌を一にしてい
る。その結果、啄木は妻の家出という手痛い批判を受けたのが、一
方で父の血を受け継いだ自分の姿に思い当たるべきであったし、事
実思い当たったに違いない。
 小川の分析はみごとに「道」の核心にふれている。
父一禎の金銭感覚(布施と借金の思想)・生業の軽視(勤めに出る
気なしCf.独歩「二老人」にある隠居仕事)・家族扶養義務の軽視・
人間観(人は教化の対象)・責任と直視の回避の性行は啄木の魂に
食い込み、それを剔抉するためにかれは地獄の苦しみをしたのだっ
た(その最後の記録が「ローマ字日記」だ)。剔抉が終わったのは
つい三ヶ月前である。
 上京した父一禎は決別したはずの自分の権化のように映ったと思
われる。あのいとわしい自分にこのような形でまみえようとは、と
いうのが啄木の実感だったであろう。
一禎にとって息子は布施をくれる檀家総代といったところであろう。
何か仕事をして家計の足しにしようなどという気持ちは微塵も無い。
家族扶養義務などとうに捨てていた(実は戸籍上では今も戸主なの
だが)。かくて責任と直視を回避する一禎の性行は完全形だ。

2020年1月 7日 (火)

石川啄木伝 東京編 1910年(明治43)その6

 [道」を読んで驚くのは今井多吉の(それは作者のものでもあ
る)「老人」批判が異常にきびしい点である。
 たとえば半町ばかり先を行く校長が道ばたの花を摘んで帽子に
挿すと、多吉は松子を相手にこう評する。
  『何(ど)うです、あの帽子に花を挿した態(さま)は?』多吉は
少し足を早めながら言ひ出した。『脚の折れた歪んだピアノが
好い音を出すのを、死にかかつたお婆さんが恋の歌を歌ふやうだ
と何かに書いてあつたが、少々似てるぢやありませんか。貴方が
僕の小便するのを待つてゐたよりは余程(よつぽど)滑稽ですね。』
 校長は35、6歳だというのにここまで言われなくてはならない
のか。その校長の妻が六人目を懐妊中だと言ってまた小馬鹿にす
る。校長夫婦の性欲をあざ笑っているのだ。
 坂の下で待つ3人に追いついた多吉は先ほど松子と坂の上から見
下ろした光景を3人に向かってこう告げる。
 『怒つちや可けませんよ。――貴方方が齢の順で歩いてゐたん
でせう? だから屹度あの順で死ぬんだらうつて言つたんです。
はははは。上から見ると一歩(ひとあし)一歩(ひとあし)お墓の中へ下り
て行くやうでしたよ。』
 最年長の目賀田が不愉快になったのは当然だ。
 多吉(作者)の老人批判は酷薄である。
 なぜここまできついのか。小川武敏が解明している 。
  啄木のいう<老人と若者の比><老人と青年の関係>とは、
いわゆる世代論にほかならず、文学上では父と子の問題として扱
われるテーマである。とすれば、当然ツルゲ-ネフのロシア文学か
らの影響が考慮されねばならないだろうし、事実、上京以来の読書
歴にこれらの作者が含まれているが、直接のモチーフはもっと身近
な、彼の父の姿から得た文字どおり父と子の関係にあると思われる。
 啄木は1910(明治43)年の日記は4月分しか遺してしないがそ
の冒頭すなわち4月1日の項に、前年暮れ野辺地から上京して来て
同居することになった父一禎について、「人間が自分の時代が過ぎ
てからまで生き残つてゐるといふことは、決して幸福なことぢやな
い。殊にも文化の推移の激甚な明治の老人達の運命は悲惨だ」と記
している。悲劇的な一家離散の後、ようやく念願の家族揃った生活
をしはじめて3ヶ月目である。その生活への言及の第一声が、この
ような内容であったことは、よほど父の姿に衝撃を受けたと思って
もよいだろう。……(以下の小川文は次回に)

2020年1月 5日 (日)

石川啄木伝 東京編 1910年(明治43)その5

 なんとか批評会は終わり、一行は帰ることになったが、相当酒
が入った「老人」たちとくに目賀田は、往きと反対に歩みがの
ろく若いふたりに遅れることがはなはだしくなった(そのうち近
道しようとしてかえってより遅れる)。
 若いふたりは日が暮れてしまうまで谷川の橋の上で「老人」た
ちを待った。その間にふたりの男女は微妙で危うい会話を交わし、
また××の先ほどの発言をめぐって意見を述べ合う。多吉は××
の発言に容赦のない嘲りを浴びせる。
 そこへ近道に失敗した「老人」たちが追いついてきた。目賀田
がいちばん疲れていた。そして松子から紙をもらって藪かげに入
り糞をたれた。
 その間校長と雀部(ささべ)は今日のことについて会話を交わすが、
ふたりともすっかり疲れていて会話は欠伸まじりになる。
 四人は目賀田を待って道ばたにある石材にめいめい腰を下ろす。
多吉は闇の中で巻煙草を吸い始める。その煙草の先にぽかりぽか
りと光る火を松子はじっと見つめている。
  
 啄木自身がこの小説についてこう書いている。
  ……あれは決して乗気のした作ではないが、僕一流の徹底
的象徴主義(?)なんだよ。つまらぬ事をだらだら書いただけだ
が、然しそれだけの事実によつて、老人と若い者との比(数学で
所謂)を表はしたつもりだつた。
 これについて上田博は言う。
  啄木は別のところで、文芸は「作者の哲学(中略)から人生
乃至其一時代を見たところの批評の具体的説明でなければならぬ
と思ふ」(明43・1・9、大島経男宛書簡)と語っており、文学に
おける世代の問題を人生批評、時代批評と考えていたことを窺わ
せる。しかし、意図する構想やテーマの大きさに比して、形象は
きわめて貧弱である。……「道」には……「はてしなき議論の後」
に見るような深い歴史的認識はない。
と。
 啄木は最初の上京時の1902年(明35)11月23日からイプセンの
John Gabriel Borkman を読みかつ翻訳までしようとした。
 この意向にも見られるように「世代の問題」・「青年と老人」の
問題への関心はその頃から高く、それは「はてしなき議論の後」
(1911年)を経て「病室より」の「唯一の言葉」(1912年)にい
たる関心なのである。
 にもかかわらず、確かに上田の指摘は正鵠を得ていると言わざる
を得ない。啄木はこのテーマで書くにあたって、John Gabriel
Borkman やツルゲーネフ(相馬御風訳)『父と子』そして夏目漱石
「それから」等をも念頭に置いているはずなのである。それを「僕
一流の徹底的象徴主義(?)」で書いたはずなのである。なぜイプ
セン・ツルゲーネフ・漱石作品のような「時代批評」となっていな
いのか。ともかくもう少し読み進めてみよう。

2020年1月 4日 (土)

石川啄木伝 東京編 1910年(明治43)その4

 2月初めに小説「道」を脱稿。起稿は一月下旬であろうか。
  〇〇郡(岩手郡-引用者)教育会東部会の第四回実地授業批
評会は、10月8日の土曜日にT――村(玉山村-引用者)の第二尋
常小学校で開かれる事になつた。選択科目は尋常科修身の1学年
から4学年までの合級授業で、謄写版に刷つた其の教案は1週間
前に近村の各学校へ教師の数だけ配布された。
  隣村のS――村(渋民村-引用者)からも、本校分校合せて五人
の教師が揃つて出懸ける事になつた。
 「道」の書き出しである。「五人の教師」が「T――村の第二尋常
小学校」で開かれる「第四回実地授業批評会」に朝早くに出掛け、
夕方遅く帰ってくるまでの言動がこの小説の骨格である。
 その5人は今井多吉(22歳、准訓導)、矢沢松子(年齢を示し
ていないが多吉とほぼ同年齢、赴任してきたばかりの女教師)、
校長(35、6歳)、雀部(ささべ)(50歳くらい、主席訓導)、
目賀田(めがた)(60歳くらい、分校の准訓導)である(年齢はすべて
数え年。以下同じ)。
 S――村小学校を出発するにあたって、若い多吉と松子が3里
(約12㎞)の山坂を下駄で行くと言う。高齢の目賀田がとがめる。
若いふたりは言うことを聞かないで出発となる。
 老人が先に若いふたりが後になって行くが、後の2人ことに多吉
は3人の「老人(としより)」たち(多吉は校長も老人に含める)を
酷評しながら行く(後述)。
 一行はT――村の第二尋常小学校に到着し、やがて実地授業が
始まる。ここまでが前半部分にあたる(分量的には約60%)。
 後半部分。場面は一転して、若いふたりは「もうS――村に近
い最後の坂の頂」で老人3人を待っている。夕方5時に近い。
 場面は再転して実地授業批評会の情景にもどる。
 授業後の批評会は思いがけない展開となった。「頭の禿げた眇
(かため)の教師」(名前は無く、××となっている)が実地授業
の批評とは無関係の発言を始めたのである。この会に列席の独身の
女教師山屋と自分との間に男女の関係があるとの噂を立てた者が
いる。しかもその噂を郡視学に密告した者がいる。自分は郡視学に
呼び出され詰責された。噂を立てた者、密告した者はこの会の参
加者の中にいるに違いない(それは雀部(ささべ)にちがいない)
と、××は言わんばかりであった。

2020年1月 3日 (金)

石川啄木伝 東京編 1910年(明治43)その3

 1月13日の東京毎日新聞に詩「騎馬の巡査」を載せる。
 このころつまり1月中旬と思しき時期に節子は懐妊している。 
 18日節子は函館の宮崎ふき子に手紙を書く。その一部。
  年末には御心づくしの送り物ありがたくいただきました。
お蔭で京子の物や私のなくてはならない品々買ひました。おく
ればせながら御礼申し上げます。兄さんはどうして居られるでせ
うね――。ふきさんは少しもおんもらし下さらないから、毎日毎
日どうして居らつしやるだらうと思ふて居ります。どうぞ兄さん
に御つたへ下さいませ。一たいにふきさんの手紙はあまりあつさ
りしてただ安否を知らせるぐらゐのものですのね――。兄弟は他
人の初まりと申しますが私たちはさうなりたくないものだと思ひ
ます。ふきさんも何もかくさず聞かして下さいよね――。お願ひ
ですから。
 郁雨ふき子の婚姻届はどうしてかまだ出ていない。その事情の
許で姉に送金してくれたのだ。ふき子にとってはつらく複雑な事
情がありそうだ。夫郁雨の「神経衰弱」はつづいている。郁雨と
姉の関係もうすうす気づいているかも知れない。そのふき子に節
子は「兄さん」のことを知らせよ、知らせないのは「他人の初ま
り」みたいだとまで言う。
 それからわが家の事情を記す。
  父が上京して一家五人、婆さんは相変らず皮肉でいや味たつ
ぷりよ。私は年取つてもあんな婆さんにはなるまいと思ふて居り
ます。父は酒を毎晩ほしがるし、仲々質屋と縁をきる事はむづか
しい様ですよ。何時もピーピーよ。
 啄木は「全時間をあげて……一家の生活を先づ何より先にモツ
ト安易に」しようと働いているのだが、節子はいつもの愚痴をく
りかえす。おまけに一禎の酒の件までが加わる。たしかに一禎の
酒の要求は、当時の勤め人の家計にあってはひどい贅沢である。
金品は無ければいくらでも堪え忍ぶことのできる一禎だが、有り
そうだとなればなんの顧慮もなくせびるのだ。この人の金銭感覚
はさきに記したごとく異常である。 
 1月24日に郁雨ふき子の婚姻届が出され、ようやく正式の夫婦
になった。

2020年1月 2日 (木)

石川啄木伝 東京編1910年(明治43) その2

  さて、めでたい年賀状を書いた啄木だが、正月早々「スバル」
新年号「消息欄」に江南文三の例のくだり(石川啄木伝東京編
370参照)を見て、啄木は憤慨したようである。

 1月9日札幌に移住していた大島経男に長い手紙を書く。
「食うべき詩(一)」「一年間の回顧」「巻煙草」に書いたこ
とが、生き生きと簡潔にまとめられている。
 最後に自分の生活の現状を報告する。
  ……とも角私は勇躍して明治四十三年を迎へました、
現在私は朝日新聞社で校正をやつてをります、伝道婦して
北海道にある妹をのぞいては、父も母も妻も子も今は皆私の許
にまゐりました、私は私の全時間をあげて(殆んど)この一家
の生活を先づ何より先にモツト安易にするだけの金をとる為に
働いてゐます、その為には、社で出す二葉亭全集の校正もやつ
てゐます、田舎の新聞へ下らぬ通信も書きます、それでも私に
はまだ不識不知空想にふけるだけの頭にスキがあります、
目がさめて一秒の躊躇もなく床を出で、そして枕についてすぐ
眠れるまで一瞬の間断なく働くことが出来たらどんなに愉快で
せう、そして、さう全心身を以て働いてゐるときに、願くはコ
ロリと死にたい――かう思ふのは、兎角自分の弱い心が昔の空
想にかくれたくなる其疲労を憎み且つ恐れるからです、

 王堂の言う「理想」によって「欲望(文学に向かう心)」を
「整斉」する姿である(石川啄木伝東京編344、345参照)。
あまりに真面目なあまりに熱心な……。これでは文学者石川啄
木は死んでしまう。このまま行くとプラグマティスト石川啄木
だけが幽鬼のようになって残るだろう。
 末尾は今札幌にいる(と思っている)橘智恵子にふれ、そのあ
とをこう結ぶ。
  あ、それから一つ喜んでいたゞきたい事があります、それ
は、以前から悪縁でつながつてゐたスバルと今度全く内部の縁
をきりました、編輯兼発行人の名も変へました、――かうして
私は、すべて古い自分といふものを新らしくして行きたく思ひ
ます、
 年末12月24日の郁雨宛書簡には「正月以後は毎号スバル
と新小説で評論も発表する」と書いている。「スバル」12月号
に載った「昴正月号予告」には石川啄木の小説「中折帽」も予
告されている。ついこの正月までは「スバル」と縁を切るつも
りはなかった。文三の揶揄が啄木を怒らせたのだ。

2020年1月 1日 (水)

石川啄木伝1910年(明治43)編 その1

 前回ブログで記したとおり12月28日に金田一京助は

林義人の五女静江と結婚。金田一によるとこの結婚は(蓋平館

時代の)「気まぐれな石川君の無聊の産物の一つ」だった。

金田一夫婦にとってこの元旦は新婚5日目。

 啄木の年賀状1910年(明43)分のうちからこのホヤホヤの

新婚夫婦宛の一通を引こう。

 はがき紙面の右側約4分の3は絵で、左側に書く本文を戯画に仕

立てている(瑞雲、鶴、松、蜜柑、亀、「高砂のぢゝとばゝ」、餅、

エビなどがみな描かれている)。

 のこり四分の一に以下の文が綴られる。

 差し出し人は「啄木 せつ子」。

   芽出度(メデタ)々々の若松を、二もと立てゝ寿げる、年の初めの
   のどけさや、天には瑞雲たなびき鶴がまひ、地には亀が蜜柑を
   くひたがる、其処へさしかゝるは高砂のぢゝとばゝ、アレ餅が
   ある、 エビがはねる、どこへ向いても芽出度づくしのこの春を、
   遥かに 祝ひ奉る、アーラこの身の果報かな果報かな 
      四十三年一月一日
     金田一京助様   
        静江様
 
 

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