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2020年1月 9日 (木)

石川啄木伝 東京編 1910年(明治43)その8

 小川が言うように啄木の「その思いは衝撃や驚きではなく一種
憎悪に近いものだった」と思われる。啄木が「道」で描いた「老
人(としより)達」への酷薄とも言える批判はこう解釈すれば腑に落
ちる。田山花袋は「生」において自分の老母を「皮剥の苦痛」に
耐えながら描いたが、これにヒントを得かつ学びつつ、目賀田・
校長・「眇目(かため)の教師」××の三人(後述)に父一禎を写し
たのだ。啄木は内実と描写方法は自然主義的であるが「父」を全
く出さないで「私小説」を書いたことになる。これを称して「僕一流の
徹底的象徴主義(?)」といったのであろう。
  花袋はその代表的な自然主義小説「生」において「皮剥の苦痛」
なしには母を描けなかったが、啄木はその苦痛なしに父を描けた
ように見える。しかも一禎は明治四三年を生きている老人の一人
とはいえ見てきたように極めて特殊な老人である。これをいくら
批判しても「文化の推移の激甚な明治の老人達の運命」を描くこ
とにはならないのではないか。したがって上田博が言ったよう
に「『道』の形象はきわめて貧弱であ」り、「『道』には『はてしなき
議論の後』に見るような深い歴史的認識はない」という評価に落
ち着かざるをえないのである。しかし啄木が上田や小川の求める
ような意味での「世代論」をテーマに「道」を書こうとしたのか、
という問題は残っている。
  この問題はひとまず措いて次に進もう。

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