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2020年2月

2020年2月29日 (土)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その52

 12日。この日は火曜日で非番らしい。西村酔夢が新編集主任
になった冨山房の若い人向け教養雑誌「学生」に短歌を送稿。
 この日作ったと思われる新作8首、「スバル」09年5月号の「莫
復問」から4首、東毎と東朝に最近載せたものから各3首、1首。
計16首は粒選りの作品である。「仕事の後」を春陽堂に持ち込んだ。
郁雨から来た手紙に返事を書いた。くわしい近況報告だが、中に
「僕は顔色はあまりよくないといふ事だが、頭はいつも水の如く澄
んでゐる。殆ど無限に近い元気がある。」と言う。相当無理な
「二重生活」をしていること、文学的努力に非常に手応えを感じて
いることを思わせる。小説の試みもさることながら、やはり新しい
短歌創出の手応えと渋川の激励とが相まって、高揚している啄木
がいる。
 歌集は売れなかった。まだ果は熟していなかったのだ 。
 この月は若山牧水の『別離』が出る。土岐哀果『NAKIWARAI』が
出る。白秋は「創作」に傑作を寄せる。日本の近代短歌は今絶頂期
を迎えようとしている。
 若山牧水から啄木に「創作」5月号への寄稿依頼があり、そのた
めの歌を作って送稿したのは非番の4月19日(火)であると思われる。
 「創作」3月(創刊)号に刺戟されて歌作を再開したのはついこの
間のことだ。

2020年2月28日 (金)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その51

 これまで東朝で二葉亭全集の編集を担当していた酔夢西村真次
が退社して冨山房に行くことになった。第1巻は創作(浮雲・其
面影・平凡)で出版準備は出来上がっていた。啄木が第2巻以後
を引き継ぐことになった。第2巻は翻訳でツルゲーネフの巻である。
 7日、8日小説「故郷に入る」を執筆 。書簡体の小説を構想し
ているらしい。主題は東北人の「運命と性格」 であると思われる。
同時期の執筆と見なしうる無題の小説断片に「国民的(ナシヨナル)
(キヤラクター)」という語が出て来る。6月4日執筆の「我が最
近の興味」には「日本人の国民的性格といふ問題に考へを費すこと
を好むやうになつた近頃の私……」とある。
 これらはRussia and its CrisisのIntroductory.
Russia and the United States : A Comparisonで論ぜられる、
Russian national character (ロシア人の国民的性格)およびこ
れに類するタームからの影響であることは確かである。しかし今
また思想的基盤(田中王堂)を失い自然主義からも離れたらしき
啄木には、東北人の「運命と性格(キヤラクター)」を主題とする小説は
むずかしかったのであろう。これを書きさしたまま、勤務外の時間
は歌集の編集に当てたようだ。
 四月一一日。
  『仕事の後』編輯終る。歌数二百五十五首。

 

2020年2月27日 (木)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その50

 四月三日の日記。「喜劇『父と子』(一幕二場)の概略の筋出
来上がる。」とあって、時・場所・登場人物・前場と後場とその
大道具小道具まで書きこんで「概略の筋」を示し「明治に於ける
最初の真の喜劇は時代の一切を笑ふ事だ」と結んでいる。この戯
曲も出来なかったが、中学校を中退して上京したときの大望の一
つはイプセンのような戯曲を書くことだった。短歌、詩、評論、小説
の夢とならんで戯曲の夢も啄木は決して捨てていない。おそらく
少年の日の夢は何一つ捨てていない。
 四日、渋川の励ましを受けて、家で歌集の編集を始めた。
「仕事の後」というタイトルを考えているのであろう。
 六日。
 中央公論の春季附録にある小説を読む。つくづく文学といふも
のが厭に思われた。読んで読んで、しまひにガスガスした心持だけ
が残つた。「もう何もない、もう何もない。」と『動揺』(白鳥)の主人公
が言つてゐる。
 啄木の自然主義離れは確実に進行している。
すでにローマ字日記の中でさえ「近頃人生観としての自然主義哲
学の権威がだんだんなくなってきた。そして自分は自然主義の傍
観的態度に満足できなくなってきた。作家の人生にたいする態度
は傍観ではいけぬ。作家は批評家でなければならぬ。」などと記し
たのであった。もう事実上変質解体した自然主義にとどまってい
られるはずがない。すでに『麵麭の略取』を読み、今Russia and
 its Crisisを読んでいる啄木である。そろそろこれらの影響が現
れてもいいはずである。


2020年2月26日 (水)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その49

 四月二日。
 渋川氏が、先月朝日に出した私の歌を大層賛めてくれた。そし
て出来るだけの便宜を与へるから、自己発展をやる手段を考へて
きてくれと言つた。
 雨模様のパツとしない日であつたが、頭は案外明るかつた。
 3月18日以来30日までに啄木の歌はすでに40首が載っていた。
しかしまだ出来不出来があった。が、渋川は啄木の秀歌に注目し
てきたのであろう。31日の5首は以下のようである。
 さびしさは色に饑ゑたる目のゆゑと赤き花など買はせけるかな
 つくづくと我が手を見つつ思ひ出でぬ手にかかはらぬ古き事ども
 窓硝子塵と雨とに曇りたる窓硝子にも悲しみはあり
 目の前の菓子皿などをかりかりと噛みたくなりぬもどかしきかな
 暁の街をあゆめば先んじて覚めたることもさびしきものかな
 玄耳渋川柳次郎は夏目漱石とはすでに10年来の親交があり(漱
石の朝日入社にも一役買っていた)、弓削田精一とも親しく、自身
俳人でもあった。東朝の新社会部長として池辺三山に起用され、
鋭意社会面の刷新に取り組んでいた。
 千里の馬常に有れども、伯楽常には有らず  韓愈
 千里の馬(啄木)が伯楽(渋川)に見出されたのである。

2020年2月25日 (火)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その48

「今もやつてるか知ら。」「北原君に聞きたまへ。北原は彼奴の
妹に度々逢つてる筈だから。」
 今から一年前は「ローマ字日記」(起稿は4月7日)の頃である。
北原白秋に「彼奴の妹」を紹介し女を教えたのは啄木自身だった。
あれからわずか1年、変われば変わるものである。
 父が野辺地から出て来てから百日になる。今迄に一度若竹へ義
太夫を聞きにつれて行つたきりだ。今夜は嘸面白かつた事だらう。
――悲しい事には。人間が自分の時代が過ぎてかうまで生き残つ
てゐるといふことは、決して幸福な事ぢやない。殊にも文化の推移
の激甚な明治の老人達の運命は悲惨だ。親も悲惨だが子も悲惨だ。
子の感ずることを感じない親と、親の感ずることを可笑しがる子と、
何方が悲惨だかは一寸わからない。
 物事に驚く心のあるだけが、老人達の幸福なのかも知れない。
 母の健康は一緒に散歩に出るさへも難い位に衰へた。
 この『新小説』に「道」が載った。そこに描かれた「父と子」観は
2カ月後の今はるかに乗り越えられている。夏目漱石の「それか
ら」が効き始めたのかも知れない。

2020年2月24日 (月)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その47

 4月1日の日記に歌人石川啄木の生活ぶりをみてみよう。
 月給二十五円前借した。
 佐藤編輯長の洋行中、弓削田氏と安藤氏が隔日に編輯すること
になつた。
 夜、父と妻子と四人で遊びに出た。電車で行つて浅草の観音堂
を見、池に映つた活動写真のイルミネエシヨンを見、それから電
気館の二階から活動写真を見た。帰るともう十一時だつた。
 家族サービスをする啄木の姿。「新しい意味に於ての二重生活」
(前掲郁雨宛3/13書簡)はこのような(事実上の)家長の勤めを
排除するものではない。
 去年の7月5日「夜になれば浅草とか、銀座通とかに行かうと
云ふけれども、決してこんなことにだまされてよくなる頭ではな
」(前掲)と書いた節子も、この日は楽しんだようだ。
 行く時の電車の中で、伊上凡骨と岩田郷一郎君に逢つた。岩田君
とは三十八年の五月に別れたきりだつた。――それはあの江東の
伊勢平で催した芝居から一月許り経つた時であつた。その芝居で、
洋画家の岩田君は、高村光太郎君の書いた五幕物の主人公の洋
画家に扮して、喝采を博した。相手の女はあの女(植木貞子-引用者)
であつた。電車の中の話は何日かあの女の事になつた。
「あれが芸者になつて、流行るかなあ。」と岩田君が言つた。
「どうだか。」と私は答へた。

2020年2月23日 (日)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その46

 夕暮『収穫』の自然主義歌に導かれあるいは触発されて成った
啄木歌はどれも自然主義歌ではなかった。啄木が2年間にわたっ
て、自然主義の摂取に力め、「文学と現実を近(ちかづ)ける運動」
としての自然主義から多大の影響を受けたこと、すでに見たとお
りである。しかしまた夕暮歌を摂取した瞬間に別の歌境を切り拓
いたことも今見てきたのである。
 啄木歌を自然主義の範疇に入れる従来の見地は間違っている。
さらに、のちの「生活派」の短歌について言えば、啄木調のほん
の一面をついでいるに過ぎない。
 啄木の向後の歌は啄木調短歌という独自の範疇と考えるべきで
ある。かれがこれ以後創りだして行く歌々は現代短歌百年の源流
となる。
 さて「曇れる日の歌」は3月18日から30日までの間に8回(計40
首)、31日には「眠る前の歌(一)」5首を東朝に、23日に「薄れゆ
く日影」5首、28日に「春の霙」5首を東毎に掲載している。


 

2020年2月22日 (土)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その45

 冬の朝まづしき宿の味噌汁の
         にほひとともにおきいでにけり  夕暮
 目さませば物の煮え立つ香ひしぬ
       とのみ思ひてまたも眠りぬ  啄木(東毎4.4)
 前者は下宿住まいの若い男の(つまり自己の)わびしい生活の
歌である。
 後者は煮物の匂いによって無意識から意識に移行し眠りに引き
込まれてふたたび無意識にゆく、心理をうたう。夕暮歌に触発さ
れてうたったのは、夕暮のようなまずしいわびしい生活そのもの
ではない。日常的生活の中の一つの心の姿である。
 へだたりのいくばくなるを知らねども
        父おもふときさびしうなりぬ 夕暮
 親と子とはなればなれの心もて
        食卓に就く気拙かりけり  啄木(東朝4.7)
 前者は田山花袋が小説「生」で母と子の関係を描いたように、
父と子の関係を描いたかに見える。いかにも自然主義的なまった
く私的な関係の描出である。
 後者の「親と子」の内実は父と子である。夕暮歌に触発されて
成ったのであろう。「道」に見られる世代間の関係に止まらず、
現代日本の世代間の関係としても考えており、さらにツルゲーネ
フの「父と子」も踏まえられている。4月1日・3日の日記(後出)
を見られたい。歌の背景は広大である。また場面の演劇的構成
あるいは立体性は夕暮歌にはないものである。

2020年2月21日 (金)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その44

秋の朝卓(たく)の上なる食器(うつは)らに
      うすら冷たき哀しみぞ這ふ  夕暮
朝々のうがひの料(しろ)の水薬の
     壜(びん)が冷たき秋となりにけり 啄木(東朝3.26)
 前者の「秋の朝」は「うすら冷たき哀しみ」を連れてきた。
それは歌人の自然主義的悲哀感の投影である。
 後者は「朝々」のうがいの時に指先が感じ始めた壜の冷たさ、
この微妙な「感覚の変化に、季節の変化を表現」(木股知史)し
ている。清涼感とともにやってきた「秋の朝」は、積極的能動的
に生活しようとする、作者の心の表現でもある。
 赤茶けし帽子ひとつに悲しみを
       あつめしごときさびしき男  夕暮
 六年ほど日毎々々にかぶりたる
       古き帽子の捨てられぬかな  啄木(東朝3.30)
 前者の「帽子」は「うらぶれた男の姿を彷彿とさせる」「自然
主義的な素材である」 。
 後者の「帽子」は愛する我の数々の貴重な思い出が籠る記念品
である(「閑天地」十三~十六)。だから「捨てられぬ」のである。
自分とその来し方をこよなく愛惜する作者は自然主義の自己否定
的傾向とは相容れない。

2020年2月19日 (水)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その43

 ほこり浮く校正室の大机ものうき顔の三つ四つならぶ 夕暮
 大いなる彼の身体を憎しと思ふその前に行きて物を言ふ時 
                    啄木(東朝3.19)
 職場をうたうというモチーフをもらったと思われる。
 前者は「夕暮の自然主義的作品として一般に喧伝されて」おり、
「生の倦怠感を主題としている」 。後者は巨体の上司との職場で
の心理的関係をうたい、場面をうたい、そこに生じる気後れはか
の巨体のせいだと自己の心理を解析する。「生の倦怠感」どころ
か職場での人間関係が躍動している。
 われ等また馴るるに早き世の常のさびしき恋に終らむとする
                         夕暮
 移りゆく時の流行(はやり)のあとを追ふ 
      さびしさにゐて妻と諍(いさか)ふ 啄木(東毎3.23)
 前者は、馴れるとすぐに初々しさの薄れる世の常の恋の終局に、
われわれも行き着こうとしているとうたう。歌は男女の醒めた私的
関係に局限され、私小説のミクロ版といったおもむきである。
 後者は、移り変わる文学の主潮を後追いしている自分がライバル
たちと競わずに、初恋人であった妻と争っている現実をうたう。
シニカルでコミカルで鋭い自己省察だが、夕暮歌のモチーフである
男女関係の機微もうたわれ、歌の底には「我を愛する」心が流れて
いる。



2020年2月18日 (火)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その42

 こうして「曇れる日の歌(一)」五首が東京朝日新聞に載った
3月18日は啄木調短歌誕生の記念日である。
 ただし啄木調が確立するにはあとひと月(4月中旬まで)は要
するであろう。その間啄木は『収穫』を学び続けるであろう。
 モチーフ・詠み口・表現等において啄木を触発したと思われる
歌々をもう少し見てゆこう。
  おもふままなすべきことをなし果てし
         後の心のさびしくありけり 夕暮
  非凡なる人の如くにふるまへる
         昨日の我を笑ふ悲しみ  啄木(東朝3.19)
 高揚した気分のあとの虚脱感というモチーフをもらったと思わ
れる。しかし夕暮歌があるときの自分の行動をありのままに写し、
行動後のわれの心をさびしいと詠嘆する。夕暮は自己の心理をう
たったのではない、あるときのわれをうたったのだ。自然主義の
歌にほかならない。これに対し、啄木歌は非凡な人のように振る
舞った昨日の我、その我を笑う今日の我、そこに生じる悲哀を読
み込んでいて、複雑で動きのある心理を高度な技術で表現してい
る。自己の心理そのものがうたう対象である点で、啄木歌はもは
や自然主義短歌ではない。啄木調短歌である。

2020年2月17日 (月)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その41

ときとしては,すぐ鼻のさきに強い髪の香をかぐときもあり,
暖かい手をにぎっているときもある.しかし そのときは予の
心が 財布の中の勘定をしているときだ:いな,いかにして 
たれから金を借りようか と考えているときだ.暖かい手をにぎ
り,強い髪の香をかぐと,ただ手をにぎるばかりでなく,柔らか
な,暖かな,まっ白な からだを抱きたくなる.それをとげずに 
帰ってくるときのさびしい心持! ただに性欲の満足をえられな
かったばかりの さびしさではない:自分の欲するものはすべて
うることができぬ という深い,恐ろしい失望だ.
 啄木は夕暮歌にふれたとき、こうした自分を想起するか、ロー
マ字日記を実際に繰るかしたであろう。
「賑ひ」にまぎれ入りまぎれ出てきた時の「さびしき心」! この
五文字の意識だけでもなんと深く複雑な内容を蔵していることか。
啄木短歌の凝縮度の高さが窺える

2020年2月16日 (日)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その40

 以下に示すのは「ローマ字日記」4月10日分の抜粋の翻訳(桑 
原武夫)である。
人のいないところへ行きたいという希望が,このごろ,ときどき

予の心をそそのかす.人のいないところ,少なくとも人の声の聞
こえず,いな,予に少しでも関係のあるようなことの聞こえず,
たれもきて予を見る気づかいのないところに,1週間なり10日
なり,いな,1日でも 半日でもいい,たったひとりころがって
いてみたい.どんな顔をしていようと,どんななりを していよ
うと,人に見られる気づかいのないところに,自分のからだを自
分の思うままに 休めてみたい.
 予は この考えを忘れんがために,ときどき 人のたくさんい
るところ――活動写真へ行く.また,その反対に,なんとなく人
――若い女の なつかしくなったときも行く.しかし そこにも 
満足は見いだされない.写真――ことにも もっともバカげた 
子供らしい写真を見ているときだけは,なるほどしいて子供の心
にかえって,すべてを忘れることもできる:が,いったん 写真
がやんで‘パーッ’と明るくなり,かず知れぬうようよした人が
見えだすと,もっとにぎやかな,もっと面白いところを求める心が
いっそう強く予の胸にわきあがってくる.

2020年2月15日 (土)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その39

遂にゆくところなき身のうしろより夕ぞせまる街のどよめき 夕暮
浅草の夜(よ)の賑(にぎは)ひにまぎれ入り
        まぎれ出(い)で来(き)しさびしき心 啄木
 夕暮歌の「街」の地名はないが東京の繁華街であろう。歌人は
夕ぐれの迫る今の今まで、その「街のどよめき」の中にいたので
ある。そしてその「ゆくところなき身」は押し出されるように、
どよめきの外に立つ。そしてゆくところはない。無理想・無解決
を標榜した自然主義の短歌にふさわしく、歌人の閉塞感は息づま
ってすさまじい。
 啄木歌はこの歌に触発されて成ったと思われる。「街」によって
啄木が想起したのは浅草であった。
 「浅草」は当時東京第一の繁華街。昼も夜も賑わった。歌われる
のは「夜(よ)の賑(にぎは)ひ」である。六区の通りを歩く人。映
画館(こここそ「賑ひ」の最たるところだ)に入る人。蕎麦屋も
ある(その二階は訳ありの男女に貸す色っぽい部屋でもあった。
啄木も一年数ヶ月前小奴とそこに上がった)。あやしげな銘酒屋
もある。「賑ひ」の一番奥が塔下苑だ。

2020年2月14日 (金)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その38

 承前(想いあっていても結ばれることのあり得ない)かなしい
恋であることよ、とひとり呟いて、少しして、火鉢に炭を添えた
のだった。
 三枝昻之はこう評している。
 恋のあわれを見つめているが、みつめるままに心は沈んでゆき
そして現実に戻ってゆく、その心の推移を「やがて火鉢に炭添へ
にけり」という行為が示していて心憎い。
 啄木の歌の核心は行為の描写にではなく意識の描写にある。
 啄木調の真髄は近代社会における生活者の意識・心理を、その
千姿万態においてうたう点に存する 。そしてそれはすでに自然主
義を超えた歌境である。
   
 旅七日帰り来ぬればわが窓の赤きインキのしみもなつかし
 出張でもあって家を空けていた勤め人が、幾日かぶりに帰宅し
て家族の顔を見、さらに自分の仕事場ともいうべき書斎兼用の居
間に落ち着いたときの安堵の心がうたわれている。 
 が、さらに木股知史は穿つ。この歌は「日常を離れた旅から帰
宅すると、埋もれていた日常の痕跡(わが窓の赤きインキのしみ)
が価値あるものとして見えてくるという心理をとらえ」ている、と。
 これも自然主義の歌ではない。啄木は自然主義の短歌を摂取する
と即自然主義を超えて行く。

2020年2月13日 (木)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その37

 この歌は名歌「手套を脱ぐ手ふと休む……」とともに『一握の
砂』の「手套を脱ぐ時」の章に収められるが、啄木調短歌の代表
的な傑作に属すると言ってよい。それが今生まれたのである。
 もはや新詩社や耽美派とは別次元の歌である。『収穫』に典型
化されている自然主義の歌々ともちがう。夕暮との影響関係はこ
の短歌にも見てとれない。啄木のみがうたえる生活者の心理、啄
木が今開拓しつつある歌境である。夕暮を摂取している過程で啄
木の天才が突如として独自に生みだしたのであろう。啄木調と称
するほかない。
 とはいえ啄木はかれ独自の歌の骨法をこの段階で会得したわけ
ではない。これからあとひと月近くは(さらにその半年先までも)
『収穫』の摂取につとめるであろう。
 冬深き夜の街よりかへり来て小さき火鉢の火をひとりふく 夕暮
 哀れなる恋かなと独り呟やきてやがて火鉢に炭添へにけり 啄木
 夕暮歌は都会の夜の街から下宿の一室で「火鉢の火をひとりふく」
までの青年(作者自身)の孤独な動きを描写する。心理を描くこと
には意識的ではない。しかしわびしさは自ずからただよう。田山花
袋の「田舎教師」像と平面描写を思わせる。自然主義的な夕暮歌で
ある。
 この歌に触発されて(ある感じが浮かんで)、啄木の歌が成った
と思われる。

2020年2月12日 (水)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その35

これらの例では「知るのが切ない」「逃げて来るのがおもしろか
った」とすべて述語部分は「……が」に直接している。当該歌も
「雪の溶けるのが」の述語部分は「ここちよく」と直接している
ように読んでしまうが、実はちがう。述語にあたる部分は「沁む」
である。どこに沁むのか。「心には」沁むのである。「心に」で
はない「心には」である。つまり今のこの心にこそ沁む、という
のだ。どんな心か。「わたしの寝飽きた心」、まだ蒲団の温もり
と眠りの世界を曳いている心である。その心にこそ「心地よく
……沁む」というのだ。
 手の上で柔らかいが固体状の雪が冷たい水へと変化し、その変
化が手に感ぜられ、その溶けて変化する感覚は心の動きに心地よ
く連動する。「わたしの寝飽きた心」は一日の活動開始モードへ
と切り替わって行く。
 ちなみに「悲しき玩具」のつぎの歌(18)と比べてみよう。当
該歌が同じ啄木の歌の中でもいかに傑出しているかを感得できる
であろう。
 真夜中の出窓に出でて、/欄干の霜に/手先を冷やしけるかな。
「手にためし」の歌に描かれた意識の姿がまことに動的、印象的 
であることにあらためて気づかれよう。わずか三十一文字になん
と繊細かつ複雑な意識を表現し得ていることか。

2020年2月11日 (火)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その34

 さて、今見ている「曇れる日の歌(一)」こそ啄木が東京朝日
新聞に載せてもらうべく、用意した会心の歌群なのであった。渋
川に掲載を願い出るにあたってこの歌を冒頭に持ってきたのには
周到な計算があった。東京気象庁天気相談所によると、3月12日
に東京では雪が降った。歌は東京朝日新聞社の窓外に降るその雪
景色を詠んだのだと思われる。つまり部長を含め社の者には特別
に親しいであろう歌をまず持って来たのである。そしてこの雪を
縁に、つぎの歌を繰り出す。
 手にためし雪の溶くるが心地よく我が寝飽きたる心には沁む
 この歌をまず逐語的に解析してみよう。
 「手にためし」 降る雪を手に受けてためたのではない(そうし
たことは現実にはありえないだろう)。欄干などに少し積もって
いる雪を取り集めて、手に載せた、のである。
 「雪の溶くるが」の「雪」は前歌との縁で春の溶けやすい雪であ
ろう。「が」は格助詞で「溶けるのが」とでも訳すべきもの。啄木
にはこの手の「が」はいく例も見られる。
 あまりに我を知るがかなしき(一握の砂53)
 知らぬ家たたき起して/遁げ来るがおもしろかりし……(54)
 耳剃らせるがこころよかりし(307)
 秋の風吹くがかなしと(338)
など。

2020年2月10日 (月)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その33

 啄木は会心の最新作をもって社会部長渋川柳次郎に掲載を願い
出たのである。 当時校正係は編集部に、文芸関係は社会部に属し
ていた。
 よごれたる煉瓦の壁に降りて溶け降りては溶くる春の雪かな
 手にためし雪の溶くるが心地よく我が寝飽きたる心には沁む     
 哀れなる恋かなと独り呟やきてやがて火鉢に炭添へにけり
 旅七日帰り来ぬればわが窓の赤きインキのしみもなつかし
 浅草の夜の賑ひにまぎれ入りまぎれ出で来(き)しさびしき心
 これからしばらく啄木の前田夕暮摂取・啄木調確立の過程を
『収穫』によって見て行こう。
 よごれたる煉瓦の壁に降りて溶け降りては溶くる春の雪かな
 この歌には『収穫』からの具体的な影響は無いと思われる。啄木は
このような叙景系に属する秀歌を08年(明41)秋以後幾首も作って
いる。これはそうした一首である。

2020年2月 9日 (日)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その32

 家族を扶養するための時間とは別に自分自身の文学者・思想家
としての時間も保障する道を求めて行くというのである。こんな
ことは鴎外も漱石も藤村も白鳥も花袋もだれもがやってきたこと
なのである。ようやく真っ当な文学者・思想家の生活に踏み込ん
だというべきであろう 。

今の位置に振り子が落ち着いたのは、一つは啄木が反対の振りを
短期だが徹底したこと、その結果『麵麭の略取』・Russia and
its Crisis にゆきついたこと、そしてこの両書の効き目が表れて
きたことによる 。
 さて、しかし、啄木はふたたびその思想的基盤を失った。
クロポトキンを反芻しつつ、ミリュコーフを読み進めつつ、思想
的立場を模索して行くであろう。
 創作や思想に行き詰まりがくると短歌に赴くのは啄木の性(さが)
である。
 「創作」と前田夕暮に刺戟されて短歌を作り始めたのだったが、
第二の刺戟が現れる。
 夕暮の第一歌集『収穫』が東雲堂から出たのである。奥付によ
ると3月15日。啄木は早速読んだと思われる。  
 なぜなら、東京朝日新聞所載の「曇れる日の歌(一)」5首
(3月18日)は、すでに見た東京毎日新聞所載の10首をはるかに
超える出来である。この飛躍の契機は『収穫』しか考えられない。

2020年2月 8日 (土)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その31

 啄木は天才主義という振り子が天まで上ってそこから落ちてき
たために反対側への振り幅も大きくならざるを得なかった。それ
が「プラクチカルフイロソフイー」に基づく「身心両面の生活の
統一と徹底!」だったのである。「身心両面の生活の統一と徹底!」
とは、自分の「欲望・肉欲」すなわち「文学中心の生活」(あの
節子に批判し抜かれた)を抑えて「理想」すなわち家族の「幸福
ある生活を持続する」ことであった。その結果が「読書を廃し、
交友に背き、……」なのである。これでは文学者・思想家石川啄
木の衰弱につながって行く(視野さえ極度に狭まっている)。す
なわち「生活の破壊になる」のである。
  ……そして僕は、今また変りかけてゐる、……僕は新しい意
味に於ての二重生活を営むより外に、この世に生きる途はない様
に思つて来出した、
 家族を扶養するための時間とは別に自分自身の文学者・思想家
としての時間も保障する道を求めて行くというのである。こんな
ことは鷗外も漱石も藤村も白鳥も花袋もだれもがやってきたこと
なのである。ようやく真っ当な文学者・思想家の生活に踏み込ん
だというべきであろう 。

2020年2月 7日 (金)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その30

 去年の秋の末に打撃をうけて以来、僕の思想は急激に変化した、
僕の心は隅から隅まで、もとの僕ではなくなつた様に思はれた、
僕は最も確実なプラクチカルフイロソフイーの学徒になるところ
だつた、身心両面の生活の統一と徹底! これが僕のモットーだ
つた、僕はその為に努めた、そして遂に、今日の我等の人生に於
て、生活を真に統一せんとすると、其の結果は却つて生活の破壊
になるといふ事を発見した、――君、
 これは僕の机上の空論ではない、我等の人生は、今日既に最早
到底統一することの出来ない程複雑な、支離滅裂なものになつて
ゐる、―― この発見は、実行者としての僕の為には、致命傷の
一つでなければならなかつた、
「去年の秋の末に打撃をうけて以来」は節子家出以来を指す。
「僕の思想は急激に……様に思はれた」は事実と若干違う。節子
家出以前にすでに自己変革の根幹部分は終えていた。家出は自己
変革の徹底を促し完了させたのだ。その結果が田中王堂のプラグ
マティズム受容であった。4カ月足らずではあるが啄木は「最も
確実なプラクチカルフイロソフイーの学徒にな」った。「性急な
思想」(2月中旬)ではまだ王堂の徒であるが、クロポトキンか
らある国家概念を獲得しさらに日本国家への反抗の念が芽生えて
いるのであった。
 この手紙はそれから約1ヶ月後に書いているのである。すでに
王堂の徒に「なるところだつた」と過去形である。
 啄木は王堂を脱した。



2020年2月 6日 (木)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その29

 啄木の「手をとりし日」5首中の3首は、この年12月に出る
『一握の砂』の歌々を知る者には、啄木らしからぬ歌であるが、
夕暮の「さまよひ」に自然主義的な短歌の新生を見、モチーフと
心持の表白の仕方をまねて試作した、と考えると納得がゆく。
 試作品のうちの5首を東京毎日新聞に投稿したのである。
 つまり啄木は「創作」の創刊、夕暮の「卓上語」・短歌「さま
よひ」に刺激され触発されて、歌作を再開したのであると見なし
うる。去年4月以来約11ヵ月ぶりの作歌である。
 3月13日宮崎郁雨宛に手紙を書く。
 君、
 長い長いご無沙汰だつた、年が暮れて明けた、もう三月も半ば
になつた、あと半月でそろそろ桜が咲かうといふのだ、
 読書を廃し、交友に背き、朝から晩まで目をつぶつたやうな心
持でせつせと働いてゐた僕にも、流石に時候の変化だけは毎日毎
日感じられた、梅見には行かなかつたけれども、……
 「読書を廃し、交友に背き、朝から晩まで目をつぶつたやうな
心持でせつせと働いてゐた」とは、昨年11月末から今年2月初め
にかけてのことだろう。啄木一流の徹底性と誠実さをもって王堂
流の「生活の統一」を実践したのである。その後の近況を色々記
したあとにこう現状を報告する。

2020年2月 5日 (水)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その28

「さまよひ」の啄木への影響を見よう。3月10日東京毎日新聞
に啄木の「手をとりし日」5首が載る。  
 少年の軽(かろ)き心は我になしげにげに君の手とりし日より
 泣きぬれし顔をよしと見醜しと見つゝ三年も逢ひにけるかな
 かしましき若き女の集会(あつまり)の声聞き倦みてさびしくなりぬ
 長く長く忘れし友にあふ如き喜びをもて水の音きく
 君に逢ふこの二月(ふたつき)を何事か忘れし大事ありしごとく思ふ
 このうち「かしましき」「長く長く」の二首がのちに『一握の砂』
に採られるが、他の三首には夕暮の影響が見られる。
 最初の歌。「少年の」心は「君の手」をとった日から男の心に
変わってしまった、というのであるから、モチーフは女との関係
から生じる男の心の変化、であろう。夕暮の5の歌は、女との肉
体関係によって生じた男の心を詠んでいるのであろうから、
同様のモチーフと見なしうる。
 「泣きぬれし顔」の歌は、愛してもいない女との関係を詠む。こ
れは夕暮の歌1、2、3のモチーフである。
「君に逢ふ」の歌は、女との関係に没入できないで、相手を離れ
てさまよい出ようとする男の心を詠む。夕暮の4の歌が同様のモ
チーフである。(3月14日東京毎日新聞「風吹く日の歌」5首
中の次の啄木歌も同様である。「道ゆけば若き女のあとおひて心
われより逃げゆく日かな」)

2020年2月 4日 (火)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その27

啄木が詩について言ったことを夕暮がそのまま歌について言って
いるかのようである。啄木は自分の詩論と同様の見地から現実に
短歌を作っている先行者を見いだしたのである。ほとんど衝撃的
だったであろう。

啄木が夕暮の最近の自然主義的短歌を読んでいたかどうか未詳で
あるが、夕暮は「さまよひ」と題する16 首をこの「創作」に載せ
ている。16首中のほとんどが女との関係を詠んでいる。
たとえば以下のように。
1、別れむとする悲しみにつながれてあへばかはゆし別れかねたる
2、わがまゝを迭(かた)みにつくしつくしたるあとの二人の興ざめし顔
3、自棄(じき)の涙君がまぶたをながるゝや悲しき愛のさめはてし頃
4、あたゝかき汝がだきしめに馴れ易きわれの心をのがさしむるな
5、あたゝかき血潮のなかに流れたる命恋しき身となりしかな
 新詩社の恋愛歌とはまるで違う。聖なる恋も熱い恋もうたって
いない。女との関係から「さまよひ」出た男の心を「唯正直に表白」
していると言った方が近いだろう。 

2020年2月 3日 (月)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その26

  啄木調短歌の創出
 3月1日、文芸短歌雑誌「創作」が創刊された。若山牧水が中
心で、前田夕暮らが編集に参加した。短歌作品が圧倒的に多い。
短歌に焦点を当てて見るなら、「スバル」は新詩社的・耽美派的
な短歌の雑誌であり、「創作」は自然主義的な短歌雑誌であると
言えよう。新詩社・耽美派に批判的になり、自然主義に接近して
いた(まだ自然主義を離れていない)啄木はこの雑誌に強い関心
を抱いたと思われる。とりわけ当時自然主義的短歌を作って注目
を集め始めた前田夕暮に関心を示した。
 この創刊号に載せた前田夕暮「卓上語」の一節を引こう。
  私は言ふところの歌人でないかも知れぬ。けれども自分は
「人間」であるといふことに些かの疑念を挿んでゐない。自分は
何時も唯「人間」で沢山だ、満足して居る。平凡でもよい、何で
もよい。吾等は世上有り触れた極めて通常なる人である。此世間
並の人が、世間並の人から受けた印象、乃至は吾等の周囲の自然
から受けた心持を、唯正直に表白する。その表白する為めに便宜
として私は短歌を選んだまでゞある。
 「弓町より」との共通性に注目したい。一見したところでは、
啄木が詩について言ったことを夕暮がそのまま歌について言って
いるかのようである。啄木は自分の詩論と同様の見地から現実に
短歌を作っている先行者を見いだしたのである。ほとんど衝撃的
だったであろう。

2020年2月 2日 (日)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その25

 「酷薄なる奴隷的状態に呻吟する事、露国農民(国民の大多数を
占めて居る)の如く甚だしきはな」いと同情し、ロシア国民の奴隷的
状態からの解放の願いを熱く表明したのであった。
 また3年数ヶ月前には「林中書」でこう論じた。
 君主独裁・人民に自由がないロシアと立憲国の日本だが、ロシ
ア人には「火の如き自由の意気」がある、しかし日本人はせっか
く用意された自由を持て余すばかりである。ロシアには革命の健
児の先頭に立つガポンがいるが、日本の三百の代議士は自由と権
利を自己の利害や野心のために捨てて顧みない。ロシアにはトル
ストイ・ゴーリキーが生まれたが、日本には生まれない。勝った
日本よりも負けたロシアの方が優っているのではないか。
 ロシアに強い関心を抱きかつすぐれた知識も持っていた啄木が、
今ミリュコーフの大冊に向かったのである。
 視野狭窄に自ら陥っていた啄木が本来のグローバルな視野を取
り戻す道に戻りつつある標しであった。それは「国民生活」と自
己の内面までを深く明晰に見るあの目を取り戻すことでもある。

2020年2月 1日 (土)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その24-2

 Paul Milyoukov : Russia and its Crisis (Chicago :
The University of Chicago Press / London : T.Fisher Unwin,
Paternoster Square,1905)
である。著者パーベル・ミリュコーフの略歴は次のようである。
  ミリュコーフ( 1859~1943)
 帝政ロシアの政治家・歴史家。学者の子。モスクワ大卒。同ロ
シア史講師。学位論文は「ピョートル大帝の改革」(1892)。
ついで労作「ロシア文化史概説」3巻('96~1903)を著わす。
この間1895学生運動に関連して罷免され、亡命。1905帰国、政治
活動にはいり、立憲民主党(カデット)を創立、そのイデオローグ
となり、「レーチ」紙を編集。第3・第4国会議員となりリベラル
派の領袖。’17、2月革命で臨時政府の外相、親英仏政策をとり、
戦争継続を確約した<ミリュコーフ覚書>で辞職を余儀なくされ
る。のちパリに亡命、反ソ活動を続けた。「第2ロシア革命史」
(3巻)1919~24、遺稿「回想録」(2巻)’55。
 この書の目次は以下のようである。
 Chapter Ⅰ. Introductory.  Russia and the United States
       : A Comparison
  Chapter Ⅱ. The Nationalistic Idia 
  Chapter Ⅲ. The Religious Tradition 
  Chapter Ⅳ. The Political Tradition
  Chapter Ⅴ. The Liberal Idea
  Chapter Ⅵ. The Socialistic Idea
  Chapter Ⅶ. The Crisis and the Urgency of Reform
  Chapter Ⅷ. Conclusion 
  Index
 
 6年前啄木は「戦雲余録」においてロシアを論じたのであった。
ロシアは多民族国家である上に専制国家である。しかも君主専制
ではなく官吏専権の圧制国家である。国民は等しく奴隷状態にある。
「酷薄なる奴隷的状態に呻吟する事、露国農民(国民の大多数を占
めて居る)の如く甚だしきはな」いと同情し、ロシア国民の奴隷
的状態からの解放の願いを熱く表明したのであった。

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