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2020年3月

2020年3月31日 (火)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その82

 啄木がこの本で学んだことを小説に用いたことを示す最
初の明らかな証拠部分である。
 舘石の再現原稿では右の箇所は50枚目から51枚目にかけ
て書かれている。啄木がこの小説を5月30日に起稿したと仮
定すると、6月13日までに「六十何校」(仮に66枚として
おく)書いたのだから、1日平均4.4枚の執筆速度である。
これを参考に割り出してみると右の箇所は6月9日頃の執筆
ということになる。その前の引用箇所(「社会主義者」「無
政府主義」云々の箇所は54、55枚目)の執筆はそのあとと
なる。こうして啄木は『無政府主義』を6月9日頃以前に読
み終えていることがわかる。つまり天皇暗殺計画(幸德事
件)の新聞人間での発覚(6月3日ころ)を知るやいなやか
れは俊敏にも事件の思想的背景の研究を始めたのである。
 手始めが『無政府主義』であった(ついで煙山専太郎編
著『近世無政府主義』の購入・再読、『麵麭の略取』の再読を
したと思われる)。その研究過程がさっそく執筆中の小説
に反映したのである。こうして「我等の一団と彼」は啄木に
おける幸德事件の影響の最初期を探る上での資料ともなる。

2020年3月30日 (月)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その81

 推定に疑義を残さないために右の会話部分の3ページほ
ど前のつぎの箇所を引く(『全集』③-389)。高橋彦太
郎がいう。
 「……今に女が、私共が夫の飯を食ふのはハウスキイピ
ングの労力に対する当然の報酬ですなんて言ふやうになつ
て見給へ。育児は社会全体の責任で、親の責任ぢや無いと
か、何とか、まだ、まだ色々言はせると言ひさうな事が有
るよ
 蕨村の『無政府主義』は89ページで無政府主義者のこん
な考え方を紹介している。
 何れの所にも中央集権なるものなく、又制度と謂ふもの
を要さぬ。唯各個人の共同団体があるのみである。そして
此共同団体の中に生れた子女は共同団体が養育する。随て
家族団体とも謂ふべきものはあるが、家族と謂ふものは要
さぬ。勿論己れの子女を己れ自から育てたい人は之を育つ
ることを許さぬではないけれども、之れは各人の自由に任
せて置く。育てたくない人は何人でも育てたい人に其養育
をやらせる。其費用は云ふまでもなく共同団体一般の負ふ
所である。
 啄木がこの本で学んだことを小説に用いたことを示す最
初の明らかな証拠部分である。

2020年3月29日 (日)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その80

 彼は事件の内容が極秘にされてゐたため幸德事件とは知
る由もなく、この陰鬱な時代に、社会主義者がひそかに活
動してゐたのだといふ事実を知つて、自分の考へてゐる社
会改造――かくならねばならんといふ夢も決して架空なも
のでなく、且急速な世の中の動きはどうやら誤らずその方
向を示してゐると、ひとり慰めてゐたのだつた。
 石川正雄が1936年(昭11)にこの読みを提示したのだが、
この卓見は本稿ではじめて引き継がれるのである。幸德事
件が「我等の一団と彼」に影を落とすのは四章からである、
と小川武敏は言った。石川正雄は三章の右の箇所であると
言う。しかし事件の影響が明確な証拠をともなって作品中に
現れるのは石川の指摘箇所よりももっと前である。
 三章の四分の三ほどのところで高橋彦太郎と「私」=亀山
との間にこんな会話が交わされる。
 「君は社会主義者ぢやないか?」
 「何故?」
 「剣持が此の間さう言つとつた。」
 高橋は昵と私を見つめた。
 「社会主義?」
 「でなければ無政府主義か。」
 作者は明らかに社会主義と無政府主義の区別を知っている。
啄木はこの区別に敏感で新聞人や司法関係者や議会議員の 
混乱をきびしく批判している(『全集』④-274、305、後出の
大島経男宛1911年2月6日書簡)。当時さっそく入手可能
な本でこの区別を明快かつ正確に説いているのは久津見蕨 
村の『無政府主義』だけである。したがって啄木は右の会話部
分を書いたときにはすでに『無政府主義』を読んでいたことになる。

2020年3月27日 (金)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その79

 作品中に幸德事件の影響を具体的に認めた人は一人しか
いない。さきに挙げた石川正雄である。引いてみよう。
 恰度この小説を書いてゐる最中だつた。所謂幸徳事件の
検挙が初まつたのだつた。
 事は明治四十三年五月二十五日、信濃明科所在長野大林
区明科製材所職工宮下太吉の拘引に始まり、六月一日幸徳
秋水が湯河原温泉宿で原稿執筆中を検挙、爾来、全国に亘
る社会主義者の検挙に及んでいつた。当時啄木の勤めてゐ
た朝日新聞に幸徳検挙が掲載されたのは六月三日であつた。
……しかしこの簡単な報道さへも、その頃社会改造の夢を
抱いてゐた啄木には、軽々しく見のがしはしなかつた。こ
の影響はその時執筆中だつた小説にはつきり反映してゐる。
それは高橋が語る左の一節である。
 「時代の推移といふものは君、存外急速なもんだよ。色ん
な事件が、毎日々々発生するね。其の色んな事件が、人間
の社会では、何んな事件だつて単独に発生するといふこと
は無い。皆何等かの意味で関連してる。さうして其の色ん
な事件が、また、何等かの意味で僕の野心の実現される時
代の日一日近づいてる事を証拠立ててゐるよ。僕は幸にし
て其等の事件は人より一日早く聞くことの出来る新聞記者
だ。さうして毎日自分の結論の間違ひで無い証拠を得ては、
独り安心してるさ。」

2020年3月26日 (木)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その78

 小田切秀雄はかつて彦太郎像をこう特徴づけた。「社会
の矛盾とその変革の必要についての鋭い先駆的な把握、し
かもさしあたり変革の可能性はどこにも見出されず、かれ
自身その点ではまったく孤独無力であり、現実にたいして
指一本ふれることができないのに、醒めた心はつねに批判
してやまない自身のこういう心の働き方に疲れた孤独な知
識人の自意識の苦しみを描」いた、と。一つのすぐれた読
みである。これがとりもなおさず、(小田切はそう言って
いないが)小田切の読みとった「現代の主潮」なのである。


   対秋水認識の急転
 
 この小田切に異を唱えるところに成立したのが前述の上
田の説であった。上田は、三章までの彦太郎だけではなく、
「私=亀山」が批判的に語るようになった四、五章の彦太
郎をも「現代の主潮」の内容に取り込もうとしたのである。
困難は三章と四章の彦太郎像に不自然な亀裂が入ってしま
った点にある。この点に関する考察を試みよう。
 問題の本質は作者啄木の中に変化が起きたことにある。
作者は三章までは彦太郎にすなわち「現代の主潮」に肯定
的であった。ところが執筆中に批判的になってしまった。
それがむき出しに四、五章の彦太郎批判となって出てしま
ったのである。作者になぜそのような変化が起きてしまっ
たのか。小川は幸德事件認識の深まりがかかわっているに
遠いないと想定した。しかし論証はできなかった。ここで
あらためて小説の中の幸德事件を探ってみよう。

2020年3月25日 (水)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その77

 つぎに「硝子窓」の第三段落の第一小段落から最後まで
を再読されたい。
「硝子窓」第三段落の第一小段落(前掲)で、「為事」の忙
しさによって「詰らぬ考へ事」から解放されたいとあった。
それは、高橋彦太郎の④と⑤を裏返した表現であろう。「色
々の希望」は彦太郎の②に重なろう。が、それらの「希望」
は「何にまれ一つの為事の中に没頭してあらゆる欲得を忘
れた楽みには代へ難い」という。「一つの為事の中に没頭」
していない限りは「色々の希望」を思っていてさえ啄木の
思考はある「考へ事」にかならず帰着してしまうのであろう。
たとえば「心に適つた社会」を希望すればそれを実現する
道筋の考察を通じてある「考へ事」に、「自分自身も改造
したい」と希望すれば自己の批評と解剖を通じてある「考
へ事」に行きついてしまう、というのであった。
 彦太郎の②③もまた「硝子窓」の啄木である。彦太郎の
諸相にわたってよく見える目(①)は啄木の最大の特質の
ひとつであるから、①の彦太郎もまさに啄木自身である。
詰まり、啄木は自身の懊悩を自分個人だけのものとは見ず、
当代日本の知識人の主要部分に共通する傾向すなわち「現
代の主潮」として捉え、高橋彦太郎の形象を通じてこれを
描こうとしたのである。

2020年3月24日 (火)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その76

 つぎに「現代の主潮」を探ってみよう。
 結論をさきに言うと、つぎに見るような「現代の主潮」の
構成要素は第一章から第三章までにおいて、高橋彦太郎の
形象化を通じて、描かれてしまっている。第四、五、六章には
「現代の主潮」の新しいそれは表れない。
 ①高橋は自分自身の内面から、自分たち夫婦の関係、他
人の言動や職場の出来事の本質、時代の動向にまで至る広
範囲の諸相をよく見える目で見ている。それは含蓄のある
批評となって表出する。 
 ②高橋は「斯く成らねばならんと言ふ」「結論」=「理想」
=「野心」=「夢」を持っているがそれを人に語ろうとしない。
  ③高橋はその観察、批評に基づいて、あるいはその理想に
向かって、行動に出ようとはしない。利己的感情が強いか
らである。
  ④高橋は自己の利己的感情が、よく見えてしまう外界の出
来事とたえず反応しようとするので、それを抑えるのに苦
しんでいる。内面はいつもいらいらして落ち着かない。
  ⑤なにかおもしろいことはないかと絶えず探し求めていな
がら、それが見つかったところで関心は長続きしない。
 「硝子窓」の冒頭部分、先に引いた「『何か面白い事は
無いかねえ。』……まるで、自分で自分の生命を持余して
ゐるやうなものだ。」を再読していただきたい。  
 そこに描かれる石川啄木自身と④と⑤の高橋彦太郎は、
ほとんど同一人物である。

2020年3月23日 (月)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その75

 これが二百字詰めの枚数だとすると本文の第三章の初め
の10行以内のあたりになる。そして「まだ三十枚位はかけ
さうだ」の「三十枚位」をプラスすると第三章のちょうど
中程になる。とすると啄木は予想の九十数枚をはるかにこ
えて一九九枚まで書き進め、そこで中断したことになる。
 四百字詰と考えるとどうなるか。六六枚は第四葦の初め
の方の四枚分までになる。これに「三十枚位」プラスする
と九六枚くらいであるから第五章の終わりにあたる。第六
章の中断箇所まで数えても前述のとおり百枚目である。
 こちらは手紙の文脈と符合する。四百字詰めを使ってい
たと考えるべきであろう。
 このことは作品の内容からも支持される。啄木は「我等
の一団と彼」の「目的」を「現代の主潮に置いた」と明言
している。「現代の主潮」が本格的に描かれるのは第三章
である。二百字詰めだと六月一三日段階では第三章は書い
てないに等しいから「現代の主潮」をはとんど描いていな
いことになる。その後「三十枚位」をプラスしたところで
第三章の半ばまでであり、文字通りの中途半端である。と
ころが四百字詰めと考えると「現代の主潮」のヤマは書き
終えており、「目的」を「現代の主潮に置いた」という記
述がしっくりくる。
 以後の叙述は四百宇詰め原稿用紙の使用を前提とする。

2020年3月22日 (日)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その74

 こうして小川は[我等の一団と彼」の第三章と第四章の
間に生じた転轍(それによって生じた難解な作品構造)の
分析に際しては、幸德事件というモメントを導入せねばな
らぬことを提起したのである。この提起はまことに衝撃的
であった。

 「現代の主潮」と評論「硝子窓」
 上田、小川両氏の到達地点から読みをすすめたい。
 まず、先の岩崎宛て書簡の分析からはじめよう。
 二つの内容に注目したい。一つは6月22日までに「六十
何枚」書いていること。もう一つはテーマが「現代の主潮」
であるということ。
 前者から考察する。まず原稿用紙は四百字詰めか二百字
詰めかをはっきりさせねばならない。
 現存する小説原稿にはどちらも用いられている。四百字
詰めの原稿は「雲は天才である」「天鷲絨」の二作(日本
近代文学館所蔵)を含むが、二百字詰めの原稿(市立函館
図書館所蔵)は小説断片のみである。啄木が「〇〇枚」と
いう場合四百字詰めをさす時もあるが二百字詰めをさす時
もある。したがってここではどちらであるのかを確定しな
ければならない。その場合わたくしは群馬大学大学院生舘
石浩信(2000年度修了)の作成した再現原稿を用いること
にする。舘石は「雲は天才である」「天鷲絨」の原稿を参
考にして、タイトルと著者名に計5行、各章を示す数
字「一」「五」などに各3行をとり、『啄木全集』第一巻
(新潮社1919年)のテキスト(六章仕立て)を四百字詰め
原稿用紙に再現した。その際、改行の1字落ち、かぎかっこ
入りの会話の改行の様式、感嘆符のあとの1字アキ、2字分
のダッシュや三点リーダー(……)なども本文に忠実に従
った。 この再現原稿によると本文全体は四百字詰めで100枚
(6行目まで)、二百字詰めに換算すると199枚である。
 さて啄木のいう「六十何枚」を今は偶数の66枚と仮定しよう。
 

 

2020年3月21日 (土)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その73

 上田以前の論者でこの「現代の主潮」をとりだして考察
したものはまことにすくなく、わずかに船登芳雄、加藤悌
三くらいであるが、上田はこれを「知識人を蠹毒(とどく)
ている近代の虚無的思潮、生活態度としての二重生活」の
ことであると解釈し、高橋彦太郎はこの「主潮」に蠹毒さ
れた知識人の典型として描かれた人物である、と論じた。
第三章あたりの彦太郎に焦点を合わせてこれをある種の積
極的人物と読んできた従来の読みとはこの点でも異なって
いる。また従来の論者は肺病で余命三カ月ともいわれる画
工松永を読みの中に取りこめなかったが、上田はこれを取
りこむことで初めてこの小説の全面的考察の道を切り拓い
た。作中の語り手「私」(=亀山)は第三章では高橋彦太
郎に相当の敬意と親しみを抱いていたのに、第四章で登場
した松永に対する高橋の態度をめぐって反感を抱くように
なる。上田はこの変化を、啄木が作品執筆中に「現代の主
潮」を克服する方向性をつかみはじめたことを示唆するの
ではないか、と見、第六章に描かれるさわやかなタッチの
中に「私」=亀山の(高橋的なもの)の清算の暗示を見た。
 上田の論考を受けてつぎの画期的な読みを提示したのが
小川武敏の「『我等の一団と彼』に関する問題」(一))(二)
(明治大学文学部紀要 文芸研究1983 年3月、86年3月)で
あった。小川は「現代の主潮」を描いた部分は第三章まで
であり、この章は岩崎あて書簡を書いた六月一三日には書
き終えられていた、とする。四章以降は高橋の松永への関
係(「私」の高橋批判)を描くことが柱となるがこの軌道
の変更こそ作者石川啄木の幸德事件認識の深まりによるも
のであり、松永を媒介にした「私」の高橋批判は幸德事件
を契機に急速に変化をとげる啄木が「将来の日本」「明日の
考察」の手がかりをつかんだことを示唆する、という。

2020年3月20日 (金)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その72

 わたくしはこの小説を「現代の主潮」(後出)・「幸徳事件」
という二つのキーワードをもとに読んでゆく。この視点か
らの読みの歩みにふれておこう。
 1945年(昭20)までをまず見ると、土岐哀果の東雲堂版
『我等の一団と彼』の跋文(1916年)から窪川鶴次郎「石
川啄木」(1942年)まで管見に入ったもの のうちどちらか
のキーワードについて論じた者は無きに等しい。
 ただ石川正雄『父啄木を語る』(三笠書房、1936年)だけ
がこの両方にふれている。彼は同書において啄木の内面的軌
跡を追って叙述を進めたので、この小説をもそのための資料
として用いた。これが読みをすぐれたものにした。
 しかし石川は「現代の主潮」を「現代の思潮」と誤読して
いるためにこれにかんする読みはあまり価値がない。幸德
事件にかんしては卓見が示されている(後述)。
 1945年以後、現在に至るまでに少なからぬ人々によって
この小説は論じられてきた 。
 しかしその本格的全面的な読みは上田博『啄木 小説の
世界』(双文社出版、1980年)所収の「我等の一団と彼」論  
を待たねばならなかった。上田は従来の読みを批判的に摂
取するとともに、「現代の主潮」についてもあたらしく問題
を提起した。まず啄木の書簡をついで上田の論を見よう。
 啄木は1910年(明43)6月13日に岩崎正宛につぎのように
書いた。
 先月の末からかゝつて「我等の一団と彼」といふものを書
いてる。もう六十何枚書いたが、まだ三十枚位はかけさうだ。
書いて了つて金にかへるまでに、若し僕にも一度これを書き
直す時間が有るとすれば、これは僕が今迄に於て最も自信あ
る作だ。「道」は僕が或る目的を置いて書いた小説の最初の
ものであつたが、後に至つてその目的の置き処の誤まつてゐ
たことを発見した。従つて全然失敗してゐた。今度の作では、
僕は「道」に於て単に一般的に老人と青年の関係に置いた目
的を、もつと極限して現代の主潮に置いた。

2020年3月19日 (木)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その71

 啄木の「我等の一団と彼」執筆は、自身の幸徳事件認識
の進展と不可分に連動することになる。社の内外から入る
情報と、自らの社会主義・無政府主義研究と、小説執筆と。
情報はいつどんな形どんな内容で飛び込んでくるか分から
ない。社会主義・無政府主義研究は啄木の天才的頭脳であ
る、どんな飛躍的進展を遂げるか予測もつかない。そのよ
うな条件下で「硝子窓」の煩悶を小説化できるものなのか。

 さて、この小説を読んで行くにあたって、本文の問題と
主題の問題これに関連した先行研究について触れておこう。
 この小説の本文は「生活と芸術叢書」第六編として発行
された単行本(東雲堂1916年)系(六章仕立て)と、
読売新聞(連載1912年8月29日~9月27日)系(28回もの)
との二系統がある。前者は啄木の原稿を活字化したものと
見なされ、後者は前者の原稿を新聞連載用に編集したもの
と見なされる。したがって本文は、研究用としても読書用
としても、前者でなければならない。後者は特殊な場合し
か用のないテキストである。しかし『石川啄木全集』第三
巻(筑摩書、1978年)が後者をテキストにしているため、
読者の便宜をはかり両テキストの対応関係を記しておく。
 六章本をAとし、二十八回本をBと表記する。
 A一章=B一~五回、A二章=B六~九回、A三章=B十~
十七回、A四章=B十八~二十一回、A五章=B二十二~二十
七回(*)、A六章=B(*)二十七~二十八回。
(*)A六章の原稿は四百字詰原稿紙三枚半しかない。
新聞=BはA五章末の一枚半と六章初めの1枚をもって二十
七回を組み、六章の残り2枚半で二十八回を組んでいる。
 

2020年3月18日 (水)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その70

 「破天荒」とは、今まで成されていないことを初めて行う
こと、の意。この意をふまえると(外国ではすでに起こっ
た事件だが)「「我国に於ては破天荒の驚く可き大隠謀」とは
天皇暗殺計画を暗示していることに疑いの余地はない。
同日の読売新聞も「或る恐る可き将た憎む可き過激なる行
動に出でんとして陰(ひそ)かに計画しつつありしが」「「
に我国未曾有の大事件にして」と報じている。
 しかも東京日日新聞は6月2日のうちに「右の内容は夙
に本社の精探せし処」だったと記している。つまり幸徳逮
捕の翌日には「大逆」事件と認識していたというのである。
東京朝日は5日、事件に閲し「其内容は勿論其目的の如何
は今是れを明記するを得ずと難も」と記しているが、当時
敏腕ぞろいの朝日記者が「日日」「読売」の後塵を拝した
とは考えにくい。2日か3日のうちには「幸德事件」情報
が編集局内を飛び交ったと推定される。週刊新聞「サンデ
ー」(09年8月22日))記載の「東京朝日新聞社編集局鳥瞰図」
によると、啄木ら校正係の席は社会部、政治経済部、外電
係に囲まれており、啄木の頭上には情報が文字通り飛び交
ったと思われる。啄木が事件を「大逆」事件らしいと認識
したのは、はやいと6月2日または3日、どんなにおそく
とも4日であった。(啄木の休日は当時原則火曜日と推定
されるから、木、金、土曜日つまり2、3、4日は出勤し
ているはずである。)

2020年3月17日 (火)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その69

啄木が煩悶していた5月も下旬の25日に宮下太吉が爆発物取
締罰則違反容疑で逮捕された。5月31日には宮下らの隠謀は
「大逆」罪にあたるとして起訴された。この日をもって「幸德
事件の発覚」とするのが妥当であろう。
 そんなことは夢想もしない啄木は「硝子窓」に記した煩悶を
テーマとする小説の稿を起こす。題して「我等の一団と彼」。
起稿は5月30日(または31日)。
 そして翌6月1日幸徳秋水が湯河原で逮捕された。東京の諸
新聞社はおそくとも6月3日には事件が明治天皇暗殺計画であ
ることをつかんでいた。
 たとえば6月4日(土)の東京日日新聞は「戦懐すべき大隠
謀」と題しつぎのように報じている。
『警視庁の低気圧』と題して2日亀井総監以下主事各部長会合
して或重大事件に就き協議する処有りし旨は昨紙記載せし如く
なるが右の内容は夙に本社の精探せし処なるも其筋の差止に
依り不得止其機を待ちしに遂に昨日地方裁判所古賀検事より
範囲を限りて掲載許可の旨通知ありしを以て左に概略其顛末を
掲ぐこととせり
事件は彼の無政府主義者一派が我国に於ては破天荒の驚く
可き大隠諜を企図したるなり即ち過日来東京を距る数十里の
某山間に於て平素社会主義を標榜する男四名と女一名と共謀
して聞くだに戦慄すべき爆発物を密に製造し正に過激極る大
事件を発起せんとしたること端なくも或事実より発覚せしかば
其筋に於ては直に大捜索に着手し難無く右五名及び連累者
二名を逮捕し起訴に及び目下予審中に属せり

2020年3月16日 (月)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その68

 こうした事情をふまえると「然し、然し、時あつて」以下の叙
述は異様な迫力を帯びてくる。
 最後の一文「自分といふ一生物の、限りなき醜さと限りなき
愍然(あはれ) さを心ゆく許り嘲つてみるのは其の時だ」は、
自らが「利己主義」と思っているあの思いに関するものである。
利己の心を振り切って社会革命への道に踏み入れば、いのち
の危険さえ冒すことになる。怖い。どんな生物も自己保存の本
能のもとで生きている。自分もその「一生物」だ。だから自分
が可愛い。死にたくない。逮捕、拘禁等もされたくない。でも
それでは卑怯だ。「汝青木松太郎」だ。こうして自分といふ
一生物の、限りなき醜さと限りなき愍然さを心ゆく許り嘲つて
みることになる のだ。折にふれ、時にふれてかれは2月か
3月以来この煩悶をくり返し、リュコーフを読んで煩悶はさ
らに高まったのである。ついでに言えば同じ年の4月中旬~
下旬作と思われるつぎの歌の 解釈も右の事情をふまえるべきであろう。

  かなしきは
  飽くなき利己の一念を
  持てあましたる男にありけり

2020年3月15日 (日)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その67

 ここで「硝子窓」の「然し、然し、時あつて」以下の啄木文
にもどろう。少しでも心にすき間ができるとしのび入ってくる
「考へ事」とはなにか。
 見てきたような啄木の思想的推移、半月後の幸德事件発覚
時の反応の深刻さ、事件以後の思想上の飛躍等を考えるなら
ば、こうなろう。
 一方で大日本帝国の国家権力に反抗し、これを変革し「心に
適つた社会」を創り出してゆく道へ進み出るべきだ、との思い。
他方で、それはロシアの革命家達のように生命の危険さえ冒す
道であって自分にはとても踏み切れないとの思い、さらによう
やく生活の安定を得て一息ついた妻子老父母をふたたび窮迫
の生活に突き落とす不憫等。
 啄木の論理だと、後者の思いは自分(と家族)かわいさに発
するのだから結局利己の心だ、ということになる。
 社会革命の道に踏み入るか、利己の心に従うか。この二つの
思いの葛藤が啄木をとらえてしまったのである。
 すでに引いた1908年(明41)11月16日起稿の小説原稿
「連想」を思い起こされたい。そこにはこうあった。
 そんなら、汝青木松太郎、乃ち予に、汝自身で社会を転覆す
る大革命を企て、且つ汝自身其一隊の先頭に立つて緑の旗を
揮るの勇気があるか? 熱心があるか?……無い……其勇
気も熱心も無い!
 この時の叙述は空想に基づいている。しかし啄木の意識の底
には日本の今の社会は根底から変革されねばならぬ、自分も
そのために尽力せねばならぬとの思いが潜んでいることが見て
取れる。約1年半後この思いが現実のものとなって今啄木をと
らえ苦しめているのである。

 

2020年3月14日 (土)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その66

 ところで啄木はすでに1903年(明36)に煙山専太郎『近世無
政府主義』(東京専門学校出版部、1902年)を読んでいる。こ
の書の前編は「露国虚無主義」と題され、本文全体の66%が
あてられている。目次のうち細目をのぞいて前編の内容を示す
とつぎのようである。
 第一章 虚無主義の淵源
 第二章 虚無主義の鼓吹者 
         其一 アレキサンドル、ヘルツェン
         其二 ニコライ、チエルネシエヴスキー
         其三 ミハイル、バクーニン
 第三章 革命運動の歴史  
         其一 革命文学の時期
         其二 遊説煽動の時期
         其三 暗殺恐怖の時期
 第四章 虚無党の諸機関  
         其一 秘密活版所
         其二 爆発物製造所
         其三 通券局
         其四 民意赤十字
         其五 隠匿者
 第五章 西欧に於ける虚無党亡命客の運動
 第六章 虚無党の女傑
 第七章 国事犯罪人の禁獄及西比利亜追放
 目次からも察せられるとおりこれもロシアにおける革命運動
史になっている。ナロードニキの革命家たちが逮捕、投獄、流
刑、 死刑等による犠牲を乗りこえ乗りこえ英雄的かつ凄惨な闘
いを 闘って行くさまが描かれている。啄木は分けても爆裂弾に
よる アレクサンドルⅡ世暗殺事件を記憶していた 。ミリュコー
フの 書の第六章はこれとまったく同じ時期の社会主義思想史
である。 天皇制国家と対決するのか否かの、問題意識のもと
にこれを読んでいったとき、啄木の中に『近世無政府主義』の
凄惨な闘争史が よみがえったに違いない。そしてたえず自問し
つつ読んでいったのであろう。「(文学者としての)自分はどう 
すべきか?」と。

2020年3月13日 (金)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その65

 Russia and its Crisisのなかでこの時の啄木にもっとも衝撃的
だったのは「第六章 社会主義思想」であろう。ミリュコーフは
この章でロシアにおけるSocialistic(社会主義的な)ldea(思想)
の歴史(1904年現在まで)を簡潔に記す。簡潔といっても原書で
100ページ分、新書版で言えば1冊の半分をゆうに越える分量である。
さまざまなSocialistic Ideaが紹介され、それらがロシア社会の中
で発生し、継承され、展開して行くさまが描かれる。社会主義の
思想は主としてつぎのような人々の思想となって顕れる。
 ゲルツェン(Herzen)、バクーニン、チェルヌイシュフスキー、
ネチャーエフ、ラヴロフ、トカチョーフ、チャイコフスキー、
ドルグーシン、ステプニャック、ジェリャーボフ、アクセリロード、
プレハノフ等。
 ロシア社会主義(ナロードニキの社会主義)からドイツ社会主義へ、
バクーニンの無政府主義的社会主義からマルクス主義的社会主義
へという展開がロシアにおける社会主義の流れとして捉えられて
いる。
 ミリュコーフの卓越した歴史家の目は、ロシアの農村、ミール
(ロシアの農村共同体)、デカブリスト、ニヒリズム、ツルゲーネフ
「父と子」、プルードン、カラコーゾフ、「人民の中へ」の大運動、
ザスーリチ、テロリズムの形成等にもくまなく行き届いている。
 特にナロードニキがあらゆる献身的、英雄的な実践と思索ののち
ついにテロリズムに行きつく記述は説得力がある。「人民の意志」
党はアナキズムではない、したがってそのテロリズムもアナキズム
の産物ではない、テロリズムは「時と所の諸条件によって
(by the conditoins of time and place)」必須となったのだ、
というくだりは啄木に鮮明な印象を与えたことであろう。

2020年3月12日 (木)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その64

 しかしヒントを解く鍵は文の外にある。鍵は1冊の英書が提供し 
てくれる。すでに見た Paul Milyoukov : Russia and its Crisis
である。
 なぜこの本を読んだのか?まず考えられるのはクロポトキン著
・平民社(幸徳秋水)訳『麺麹の略取』(平民杜1909年)の衝
撃である。啄木はこの年2月上旬ころに『麺麹の略取』を読んで、
前年秋から精力的に執筆し続けた評論が書けなくなってしまった。
批評の根底がまたしても崩れたのである。はじまったかれの苦悩の
核心は国家権力に(文学者としての)自分はどう相対すべきか、と
いう問題だったと推察される。すでに国家に対する「疑惑」の念
どころか「反抗」の念さえ芽生えているのである(「性急な思想」)。
しかしロシア国家につぐ専制国家・日本の天皇制国家に反抗する
危険への恐怖は深刻であった。にもかかわらず啄木本来の性向は
クロポトキン等の思想を(とくにその反逆の思想を)受容しようとす
る。読書し思索するのは啄木の本領である。そしてその結果を行動
に移すこともまたかれの本領である。

2020年3月11日 (水)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その63

 どうやら啄木には職場か自宅で夢中になる「為事」がある時に
は忘れていられる「詰らぬ考へ事」があるらしい。それは少しで
も心に隙間ができると忍び込んでくるらしい。
 然し、然し、時あつて私の胸には、それとは全く違つた心持が
卒然として起つて来る。恰度忘れてゐた傷の痛みが俄かに疼(うず)
出して来る様だ。抑へようとしても抑へきれない、紛らさうとして
も紛らしきれない。
 今迄明かつた世界が見る間に暗くなつて行く様だ。楽しかつた
事が楽しくなくなり、安んじてゐた事が安んじられなくなり、怒
らなくても可い事にまで怒りたくなる。目に見、耳に入る物一つ
として此の不愉快を募らせぬものはない。山に行きたい、海に行
きたい、知る人の一人もゐない国に行きたい、自分の少しも知ら
ぬ国語を話す人達の都に紛れ込んでゐたい……自分といふ一生物
の限りなき醜さと限りなき愍然(あは)れ)さを心ゆく許り嘲つてみるの
は其の時だ。
 啄木の意識は暇ができた途端にある「考へ事」にかならず帰着し
てしまうという。その「考へ事」とは何なのか? この段落の
「自分といふ一生物の」以下の最後の一文がヒントになりそうだ。

2020年3月10日 (火)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その62

 第三段落の第一小段落を抜粋しよう。   
 自分の机の上に、一つ済めば又一つといふ風に、後から後から
と為事の集つて来る時ほど、私の心臓の愉快に鼓動してゐる時は
ない。……
 やがて一しきり其の為事が済む。ほつと息をして煙草をのむ。
 ……「ああ、もつと急がしければ可(よ)かつた!」と私はまた
思ふ。
 私は色々の希望を持つてゐる。金も欲しい、本も読みたい、名
声も得たい。旅もしたい、心に適(かな)つた社会にも住みたい、
自分自身も改造したい、其他数限りなき希望はあるけれども、然
しそれ等も、この何にまれ一つの為事の中に没頭してあらゆる欲
得を忘れた楽みには代へ難い。――と其の時思ふ。……
 家へ帰る時間となる。家へ帰つてからの為事を考へて見る。若
し有れば私は勇んで帰つて来る。が、時として何も差迫つた用事
の心当りの無い時がある。「また詰らぬ考へ事をせねばならぬの
か!」といふ厭な思ひが起る。「願はくば一生、物を言つたり考
へたりする暇もなく、朝から晩まで働きづめに働いて、そしてバ
タリと死にたいものだ。」斯ういふ事を何度私は電車の中で考へ
たか知れない。時としては、把手(ハンドル)を握つたまま一秒の弛み
もなく眼を前方に注いで立つてゐる運転手の後姿を、何がなしに
羨ましく尊く見てゐる事もあつた。
 ――斯うした生活のある事を、私は一年前まで知らなかつた。

2020年3月 9日 (月)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その61

 啄木にとってこうした歌々ができることはもはや歓びにはなら
ないらしい。というよりもかれは大きな悩みに押しひしがれる時
にこそ歌が湧き出すのだ。2年前の歌の奔流も懊悩の産物だった。
今はまた、悩みを逸らすために歌を作っているの感がある。
 第2の段落をいくら読んでもその悩みは分からない。
 第2の段落(4つの小段落全部)はどうか。要約すると以下の
ようである。
 実社会と文学的生活(詩や小説を作る生活)との間には隔たり
があり、自分は文学的生活の方に空虚を感じてならぬ(これは自分
が「文壇の劣敗者」である所為だけではなかろう)。
 文学と現実を接近させる運動がここ数年花々しく展開した。自
然主義である。自然主義は両者を接近せしめたが、しかし両者の
隔たりが埋められぬことをも明らかにした。
 それならば文学は実生活に対して間接的なもの、たとえば「手淫」
のようなものか。それでは空しかろう。文学は実生活に対してもっと
直接的でありたいと願うのが自然ではないか。
 私の思いには、二葉亭や独歩や内田魯庵が文学に感じたむなしさ
・もの足りなさ・無力感などと一脈通うものがあるようだ。
 さて、こう見てきても第2段落で真に言いたいのは何なのか、さっ
ぱり分からない。そんなに文学的生活がむなしいと思うのなら、足
を洗えばいいのに、とさえ思う。

2020年3月 8日 (日)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その60

 啄木のこの低迷ぶりはどうしたことだろう。「私は勇躍して明
治四十三年を迎へようと思ふ」と書き(「一年間の回顧」)、「全時
間をあげて……一家の生活を……モツト安易にするだけの金をと
る為に働いて」きたのではなかったか。小説「道」は春陽堂に売れ、
短歌は新境地を拓いて順風満帆の時を迎えようとしている今にな
って、なにをいうのだろう。自分が今創りだしている短歌は、和
歌史上に未曾有の作品であることは、おそらく自覚している。そ
の水準の歌々を今は自在につくれるのである。
 事実「硝子窓」を書いたあとの5月後半にも東朝や東毎に歌を
寄せている。5月21日と26日の「手帳の中より」(東朝)から
2首ずつ引こう。
 赤々と入日うつれる河ばたの酒場の窓の白き顔かな
 真白なるラムプの笠に手をあてヽ寒き夜にする物思ひかな
 やヽ長き接吻(きす)を交して別れ来(こ)し深夜の街の遠き火事かな
 空色の壜より山羊の乳をつぐ手のふるひなどいとしかりけり

2020年3月 7日 (土)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その59


(「硝子窓」の)全文は大きく3つの(〇の付いた)段落から
なる。2番目の段落はさらに4つの小段落に分かれ、3番目は
2つの小段落に分かれている。
 最初の段落の冒頭部分はつぎのようである。
  「何か面白い事は無いかねえ。」といふ言葉は不吉な言葉だ。
  この二三年来、文学の事にたづさはつてゐる若い人達から、私
  は何回この不吉な言葉を聞かされたか知れない。無論自分でも
  言つた。――或時は、人の顔さへ見れば、さう言はずにゐられ
  ない様な気がする事もあつた。
  「何か面白い事は無いかねえ。」
  「無いねえ。」
  「無いねえ。」         
   さう言つて了つて口を噤(つぐ)むと、何がなしに焦々(いらいら)
  した不愉快な気持が滓(かす)の様に残る。……
   時として散歩にでも出かける事がある。然し、心は何処かへ
  行きたくつても、何処といふ行くべき的が無い。世界の何処か
  には何か非常の事がありさうで、そしてそれと自分とは何時ま
  で経つても関係が無さそうに思はれる。しまひには、的もなく
  ほつつき廻つて疲れた足が、遣場(やりば)の無い心を運んで、
  再び家へ帰つて来る事になる。――まるで、自分で自分の生命
  を持余してゐるやうなものだ。

2020年3月 6日 (金)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その58

 さて以下の4首は「学生」5月号所載歌である。作歌は前述の
ごとく4月12日であろう。
 夜の二時の窓の硝子をうす紅く染めて音なき火事の色かな
 見てあれば時計とまれり吸はるゝごと心ふたゝびさびしさに行く 
 朝の湯の湯槽のふちにうなじ載せゆるく息する物思ひかな
 おほどかの心来れり歩くにも腹に力のたまるが如し 
  
 啄木調を確立して後も、夕暮摂取はつづく。その様は貪欲である。
 
 さて、啄木調短歌創出のいとなみの一方で啄木は「クロポトキ
ンを反芻しつつ、ミリュコーフを読み進めつつ、思想的立場を模
索して」来たのであった。そのいとなみは思想家石川啄木に重い
重い難題を課することになった。
 1910年(明43)5月中旬に書いたと見られる評論に「硝子
窓」というのがある(「新小説」6月号)。ざっと読む分には容
易だが、真意を探ろうとすれば、啄木の全文章中でもっとも難解
の一編である。

2020年3月 5日 (木)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その57

(承前)
 4、啄木が作歌にあたって夕暮に共感し学ぼうとしたのは「
らしい歌、乃ち技巧の歌、作為の歌、装飾を施した歌、誇張の歌
を排するといふ事」であった。これは自然主義の運動が「近一二年
の間に歌壇の中心を動かした著るしい現象であつた」 。
『収穫』「自序」で夕暮はこう記す。「自分は技巧が拙い、修飾す
ることを知らぬ。芸がない。であるから、思つたこと感じたことは、
思つたこと感じたこと以上に歌ふことを知らぬ。唯正直に歌へた
らよいと思つてゐる」と。夕暮は自然主義的な歌を作るときは意
識的に「歌らし」くなく作ったようである。それらの歌は「散文
的」「音楽的な表現が余りに貧弱」等と評された。
 啄木はその天性と幼少期からの修練の賜によって『収穫』の作
者のように歌を作ることは出来なかった。その歌々は今見てきた
ように「技巧」「作為」「装飾」「誇張」は排されているが、夕
暮歌とちがって音楽性朗唱性に富み、用語語法ともに明晰かつ繊
細である。 一往以上のような特長を「啄木調」と規定しておこう。
 啄木短歌の真髄は、近代日本の生活者である「我」の意識*を、
その千姿万態においてうたった点に存する。
  *「意識」とは「知覚・記憶・想起・認識・判断・感情など、
  広義の精神作用の総体」である。(新潮現代国語辞典)

2020年3月 4日 (水)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その56

(承前)
3、したがって「生活者としての我」と言っても啄木の我=自己
は、夕暮ら自然主義の(あるいは白秋ら耽美派の)自己とは次元
を異にする。鹿野政直が「百回通信」を書く啄木の「生活への関
心の深まり」をめぐって論じたことを、想起されたい。啄木の自
己=我は、複雑で深く広くかつ高い。したがって極めて個性的で
ありながら普遍性に富んでいる。啄木のこの側面については歌論
「歌のいろいろ)」(12月中旬発表)を読む際に詳論したい。
ちなみに夕暮「卓上語」の一節を引こう。
 私は……歌を作る時には、きつと、「自分」を眺めて居る。「自分」を
観察する。そして、こゝにもこんな醜い「自分」があつた。こゝに
もこんな穢い「自分」があつたと、ぼつぼつと知らなかつた「自分」
を発見して行く。――それが私の歌になる。……見出した「自分」
は、どんなに醜くとも可愛い、私だけには可愛い。
 いかにも自然主義風の私的な自己である。

2020年3月 3日 (火)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その55

(承前)2、啄木にあって「生活」とは日常生活(A)だけでなく
職業人(B)としての生活、文学者(C)・思想家(D)としての生活。
それらはさらに大きく「国民生活」の一環(E)としての生活でも
あった。(そして間もなく世界の「生活者」たちとも共にある生活と
さえなる。)
 各生活の中での「心の姿」=歌はすで諸例を見てきたが、確認の
ために各一首をあげる。
A 手にためし雪の溶くるが心地よく我が寐飽きたる心には沁む
B こみ合へる電車の隅にちゞこまるゆふべゆふべの我のいとしさ
C 浅草の夜(よ)の賑(にぎは)ひにまぎれ入り   
               まぎれ出(い)で来(き)しさびしき心  
D かなしきは飽くなき利己の一念を持てあましたる男なるかな 
 これらの歌は、そのままEの歌である。どれも自分のことをうたって
いながら、普遍性をも内蔵している。
 Eの歌の典型的な例は3か月後のかの名作である。
    はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざりぢつと手を見る

2020年3月 2日 (月)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その54

 啄木調が確立している。「学生」所載の歌々も合わせて、啄木調
の成立は四月中旬としてよいであろう。
 前田夕暮『収穫』を手引きに、この1ヶ月かけて啄木が切り拓い
た歌境は、どのような特長によって「啄木調」と呼ばれるうるか。
この段階で(主として夕暮の自然主義短歌との比較によって)検出
しえた点を列挙しておこう。
1、生活の中で何かに触発されて浮かぶ「感じ」=意識を、言葉
(三十一文字)で表現・定着する方法を発見した。「感じ」(とし
ての意識)は言葉を得たことで、表現された意識となる。「触発」
するものは、日々の生活の中での実感・連想・想起、他人の歌、
今自分が作った歌、日記その他の作品等々でありうる。
 こうして作られた歌は、「意識歌」と呼ぶべきものである 。
 啄木は「意識歌」という新短歌を創出したのである。前年末の詩
論と実作から詩を表現した言葉「心の姿」を借りると、歌は啄木の
「意識の姿」であると言える。

2020年3月 1日 (日)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その53

 ここで啄木と若山牧水の重要な関係のはじまりを指摘しておき
たい。啄木調が確立したまさにその瞬間の啄木を「創作」という
発表の場へ誘ったのは、牧水であった。牧水は東京毎日新聞、東
京朝日新聞に発表され、みるみる名作を歌いあげてゆく啄木に刮
目していたにちがいない。牧水こそ藪野椋十についで現れた、第二
の伯楽であった。啄木短歌は「創作」7月号、10月号、11月号で
飛躍してゆく。さらに11年(明44)、牧水は啄木詩の最高傑作の
誕生を促し、その発表の場をあたえることになるだろう。
 さて「創作」5月号に載る16首中10首が新作である。これらは
19日作と見てよいであろう。その10首。
 手套をぬぐ手ふと休む何やらむ心かすめし思出のあり
 かなしきは飽くなき利己の一念を持てあましたる男なるかな
 こみ合へる電車の隅にちゞこまるゆふべゆふべの我のいとしさ
 手も足も部屋一ぱいに投げ出してやがて静かに起きかへるかな
 たゞ一人泣かまほしさに来て寝たる宿屋の夜具のこゝろよさかな
 いそがしき生活のなかの時折の物思ひをば誰が為にする 
 函館のかの焼跡を去りし夜の心残りを今も残しつ
 頬の寒き流離の旅の人として路問ふほどの事言ひしのみ
 忘れをればひよつとした事が思出の種にまたなる忘れかねつも
 汽車の旅とある野中の停車場の夏草の香のなつかしかりき

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