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2020年4月

2020年4月30日 (木)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その111

 この節はこういう大胆な事件の内容紹介である一方、事
件の背景にある思想の紹介までもおこなう。啄木自身が体
験した函館大火の際の市民の助け合いを紹介し、そこに流
れていたのは「相互扶助の感情」だったと言う。これはク
ロポトキンの「相互扶助論」の紹介である。しかも『平民
主義』のなかで幸徳秋水は地震と大火後のサンフランシス
コに一時的に「無政府的共産制」が実現したと書いている。
啄木はこれをふまえて、大火後の函館に「相互扶助」が実
現したというのである。つまりこのパラグラフには秋水と
その思想上の師クロポトキンの双方を溶かし込んでいるのだ。
 (二)「無政府主義」とは日本人には耳慣れぬ言葉であるが
其思想、運動の経過を研究し」た「邦文の著述」がすでに
存在すると言い、『近世無政府主義』『無政府主義』の二著
と『社会主義研究(合本)』中の諸論文の存在を示唆する。
それから無政府主義者と権力の最初の衝突である赤旗事件
を想起させようとする。そこには女性たちが交じっていた
ことにもふれる(その一人は今監獄にいる「針文字書簡」
の管野須賀子である)。ただし赤旗事件の時(二年前)、日
本人は無政府主義にまるで関心を払わなかった。関心を払
った「少数の識者」さえ無政府主義と社会主義の区別を知
らないのであった。こう言いながら無政府主義への関心を
喚起し、無政府主義と社会主義とは全く別個の概念である
ことを知らせようとする。
 また赤旗事件が幸德事件にじかにつながることは当時被
告側・権力側の当事者しか知らないはずのことであるが、
啄木は(二)(三)において赤旗事件を幸德事件の前段階
の位置において論じている。

2020年4月29日 (水)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その110

(承前) 会話の内容には虚実入り交じっているであろう。
焼討とか赤旗位ならまだ可(い)いが、彼様(あん)な事を実行
されちやそれこそ物騒極まるからねえ」「然し僕等は安心し
て可(か)なりだね。今度のやうな事がいくら出て来たつて、
殺される当人が僕等で無いだけは確かだよ」こうした会話の
紹介は今度の事件が「よほど特別な人」にかかわるものであ
ることを知らせよう、との意図にもとづく。
 しかもその「今度の事と言ふのは、実に、近頃幸徳等一味
の無政府主義者が企てた爆裂弾事件の事だつたのである」と
まで記している。これを受けた形の「今彼の三人の紳士が、
日本開闢(かいびゃく)以来の新事実たる意味深き事件を、ただ単
に『今度の事』と言つた」という記述は事件が日本人の未だ
体験したことのないものであること、記紀の冒頭にかかわり
をもつものであることを示唆するとともに「よほど特別な人
が誰であるかをも暗示する(しかもその事件を「意味深き事
件」と呼ぶ)。それは後続の「我々日本人の或性情、二千六
百年の長き歴史に養はれて来た或性情」つまり神武天皇以来
の歴史に養われて来た性情などという表現で補強される。
そして、千九百余年前の猶太(ユダヤ)人が耶蘇(ヤソ)基督
(キリスト)の名を白地(あからさま)に言ふを避けて唯『ナザレ
人』と言つた様に、恰度(ちやうど)それと同じ様に、彼の三人
の紳士をして、無政府主義といふ言葉を口にするを躊躇して
唯『今度の事』と言はしめた、それも亦恐らくは此日本人の
特殊なる性情の一つでなければならなかつた」と結ぶ。たと
えば日本人が「天皇」といわずに「みかど(皇居の門)」と呼
ぶ事を想起すれば「ナザレ人」の件でなにを暗示しているのか
は読みとれよう。イエスと同じく神と人との結節点をなす人物
神武天皇を想起させつつ、天皇・天皇制とかかわるときの「
本人の特殊なる性情」を暗示しているのである。しかしこのく
だりが天皇・天皇制にかかわるものだとなれば筆者の身に危険
がおよぶ。「……と言つた様に恰度それと同じ様に」と念を押
した上でくるりと翻転して、これは「無政府主義」にかかわる
叙述であるともってゆき(どんでん返しのレトリック)、しか
しつづけてまた「日本人の特殊なる性情」をもち出して結ぶ。
まさに「言語活用の妙」である。

2020年4月27日 (月)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その109

 もろもろの事柄を勘案するなら、杉村・弓削田・啄木の3人
が話し合いの場を持ったのは7月16日ころであろう。そし
て弓削田の賛同を得て啄木が原稿を起草してみることになった
と推定される。
 啄木は7月16日夜から「所謂今度の事」の執筆に取りかか
った。作歌のことは一旦吹き飛んだ。
 執筆後50年近く日の目を見なかった秘稿「所謂今度の事」
の核心を読んで見よう。
 執筆の目的はメディアを通じて、幸德事件の内容と思想
的背景とを知らせ、あわせて厳重な取り調べを受けている
被告達分けても幸徳秋水を間接的に弁護することにあった。
もちろん権力の言論弾圧を十分に計算し、ぎりぎりのとこ
ろで記そうとする。韜晦(とうかい)のしかたは老獪(ろうかい)
とでもいいたくなる。
  (一)勤務を終えた夕方帰宅途中、とある「ビイヤホオル」
に入り、「三人連(づれ)の紳士」の会話を耳にする。(この
場面設定はフィクションと思われる。時間は夕方ではなく夜、
場所は「ビイヤホオル」ではなく 東京朝日新聞社内の一室、
「三人連の紳士」は実は杉村楚人冠、弓削田精一、石川啄木
の三人。

2020年4月26日 (日)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その108

 さて、七月一五日啄木は歌稿ノートを作った。
「七月十五日夜」としてつぎの三首と九文字が記される。
 夏の町かしらあらはに過ぎ去れる
          あとなし人をふりかへる哉
 垢づける首うち低れて道ばたの石に腰かけし男もあるかな
 かゝること喜ぶべきか泣くべきか貧しき人の上のみ思ふ
 いまはしき病の如く(以下断絶)
 歌を作ったのは社会主義研究が一段落した時の息抜きの
行動だったらしい。しかし歌稿ノートの作成を思い立つに
は別の動機があったはずである。節子は当時妊娠八カ月、
その出産費用捻出のため、歌集の出版を企てたのではなか
ろうか。4月に「仕事の後」を春陽堂にもちこんで不成功
だった。4月のその後から5月そして6月の中旬までに新
境地の歌々をたくさん作りためてきた。それらと今後作る
歌とをとりこんで新しい「仕事の後」を編集しようとした
のであろう。 
 7月前半であろうか、楚人冠・啄木間で極重要の取り決め
がすでになされていたと思われる。啄木が幸徳事件の真実
を世に知らせるために一文を草すること、杉村がその件で
弓削田精一夜勤編輯主任(佐藤真一編集長外遊中の今は編
集長代理)に東京朝日新聞掲載方を相談すること。

2020年4月25日 (土)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その107

 ここで幸徳事件をめぐる啄木のもう一つの動きに注目し
ておきたい。これも「針文字書簡」と直接的に関係する動
きである。管野の手紙は内容・形式・通信方法にわたって
充分に刺激的であった。新聞記者経験のある清水卯之助は
この時の各新聞社の動きをこう推測している。「横山弁護
士のもとへ各新聞社が取材に走ったことは当然だが……
各社は編集内部で『須賀子ら四人が爆弾事件で死刑』と
はどの法律に該当するのか、専門家にも聞き研究したと考
えられる」と 。清水はこうも言う。「啄木も平出事務所へ
かけつけ、爆弾事件(未遂)で死刑とはどんな罪科に当る
かを訊し、自分が勤め先の朝日新聞社内で得た情報を話し
たに相違ない」と。これは平出が在京中であれば必ず起こ
ったことであろう 。(平出修は啄木と親しい弁護士)
 しかし平出は6月中旬(?)から高知に出かけているは
ずで、いなかった公算の方が大きい。平出の帰京は7月16日
である。その約ひと月間啄木は修の帰京を鶴首して待った
と思われる。啄木・修の幸徳事件をめぐる協働は、1911年
(明44)1月に始まるのではなく、前年の7月後半に(それ
もはやければ7月16日に)始まるのである。

2020年4月24日 (金)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その106

 管野の願いをどのように実現するか。当局の厳重を極め
た報道規制に対して手の打ちようがなかったであろう。
 一年前の記事「幸徳秋水を襲ふ」でさえ、池辺主筆から
譴責を受けているのである。何をいかになすべきか。難題
中の難題に楚人冠は直面していた。
 一方横山宛「針文字書簡」報道に啄木は極度に強い反応
を示していたのだった。その啄木の知人中もっとも多くの
もっとも信頼すべき情報を持つ人は「幸徳秋水を襲ふ」の
記者・杉村楚人冠であった。当然横山宛「針文字書簡」を
めぐって教えを乞うたであろう。自分の事件研究の成果も
聴いてもらったであろう。
 啄木の誠実真摯な探求態度、たぐいまれな理解力に楚人
冠の信頼感は急速に高まったことであろう。幸徳事件の真
実を(そして幸徳は「何ニモ知ラヌ」ことを)何とか世に
知らせたい。
 これが二人の今を結びつける共同の目的である。
 6月下旬か7月前半のどこかで、楚人冠は自分宛「針文
字書簡」の極秘を啄木にだけは打ち明けたと推定される。
 獄中から届いた「針文字書簡」の原物から啄木が受けた
衝撃の生々しさは察するに余りある。煙山専太郎やミリュ
コーフの描いた世界が現前したのだ。「幸徳秋水を襲ふ」
の記者楚人冠の幸徳観の影響もいっそう強まり、啄木の秋
水観は方向性を固めることになるだろう(彼ハ何ニモ知ラ
ヌノデス)。
 楚人冠の幸徳・堺・平民社運動・その後の幸徳・堺等に
関する示教も啄木にとって貴重な指針になったであろう。

2020年4月23日 (木)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その105

 約百年後に知れたことだが、杉村楚人冠にも管野須賀子
から針文字書簡が届いていたのだ。
 文面は以下の通り(毎日新聞2010年1月29日夕刊)。

 京橋区瀧山町
  朝日新聞社
   杉村縦横様
      管野須賀子
  
 爆弾事件ニテ私外三名
  近日死刑ノ宣告ヲ受ク
  ベシ御精探ヲ乞フ
  尚幸徳ノ為メニ弁ゴ士
  ノ御世話ヲ切ニ願フ

    六月九日

   彼ハ何ニモ知ラヌノデス
   
 楚人冠は管野須賀子から「御精探ヲ乞フ(今度の事件の真相
をくわしく探ってください)」と切願された。
 そのうえ「彼ハ何ニモ知ラヌノデス(秋水は今度の事につい
て何も知らないのです)」との付言もあった。

2020年4月22日 (水)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その104

 啄木の問題関心からすればこれらはすべて読んだと推定
される。分けても「共産党宣言」と「科学的社会主義」
(「空想から科学へ」に同じ-引用者)の二著が重要である。
マルクス主義の創始者自身が同主義の根幹を記した文献を、
邦訳によってであれ、直接読んだことはクロポトキンの
『麵麭の略取』を読んだこととならんで啄木にとっては特
別の思想的体験であった。しかもそれが6月(遅くとも7月)
という早い時期であることは啄木の思想を考察する上で従
来の考察に大きな変更を迫ることになる。
 啄木の読書力からすれば以下の「国禁の書」も6月下旬~
7月15日ころまでの間に読んでしまったと推定される。田添
鉄二『経済進化論』(平民社、1904年)、千山万水楼主人
(河上肇)『社会主義評論』(読売新聞社、1906年)、堺利彦
・森近運平『社会主義綱要』(鶏声堂、1907年)、村井知
至『社会主義』(労働新聞社、1899年)、片山潜・西川光二
郎『日本之労働運動』(労働新聞社、1901年)など。
 以上の様な集中的読書および思索中の啄木の前に、杉村
楚人冠が特別の人として立ち現れる。

 

2020年4月21日 (火)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その103

『社会主義研究(合本)』はこの時期の啄木の知的好奇心
をそそる内容に満ちている。目次からピックアップしてみ
よう。

      第一号
共産党宣言      マルクス、エンゲルス共著/
               幸徳秋水、堺利彦共訳
マルクス伝     リープクネヒト著/志津野又郎訳
エンゲルス伝     カウツキー著/堺利彦訳
      第二号
無政府主義の哲学   クロポトキン/白柳秀湖訳
無政府主義の二派   久津見蕨村
無政府主義と社会主義 ブリス/堺利彦訳
クロポトキンの特色  久津見蕨村
社会主義史大綱    ブリス/堺利彦訳
社会主義の定義    (十五項)
      第三号
本号の内容は列伝体を以て社会主義の発達を叙したるもの
サン・シモン     白柳秀湖訳述
フーリエー      白柳秀湖訳述
ルイ・ブラン     白柳秀湖訳述
プルードン      白柳秀湖訳述
ロバート・オーエン  白柳秀湖訳述
ラサール       志津野又郎訳述
ロドベルツス     堺利彦訳述
マルクス       堺利彦訳述
      第四号
科学的社会主義    エンゲルス著/堺利彦訳
      第五号
総同盟罷工の歴史及意義 ビーア
政治的総同盟罷工論  べーベル
社会党硬軟二派の主張 ジョーレ、べーベル
べーベル伝      大杉栄
エンゲルス逸話    大杉栄

2020年4月20日 (月)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その102

  秘稿「所謂今度の事」
 4月下旬以降、作った歌の紙上発表は啄木のコンスタン
トな文学活動であった。
 しかし6月19日からぴたりとその活動は停止し7月28日ま
での空白期が出来る。その間小説も詩も評論も書かない。
それどころか手紙も現存しない。日記もない。わずかに7月
15日の歌3首、26日の10首があるのみである。この異常な空
白の内実を探ってみたい。
「明治四十四年当用日記補遺」のうちの「前年(四十三)中
重要記事」につぎの一節がある。
 六月――幸徳秋水等陰謀事件発覚し、予の思想に一大変革
ありたり。これよりポツポツ社会主義に関する書籍雑誌を聚む。            
 無政府主義(研究)の字がないが、当時日本語の単行本
では『麵麭(パン)の略取』『無政府主義』『近世無政府主義』
くらいしかなく、前述のように啄木はすでにこれらを読んでいる。
幸徳の『社会主義神髄』(朝報社1903年)『廿世紀之怪物
帝国主義』(警醒社書店1901年)はさっそく読んだであろう。
『長広舌』『兆民先生』も読んだと思われる。その他の小編
も読んだかも知れないがそれらは『平民主義』『社会主義神髄』
でたりる内容である。
 さらに日記中の「書籍雑誌」の「雑誌」に注目したい。ま
ず考えられる「雑誌」は堺利彦編輯の『社会主義研究』(由
分社、1906年3月~8月)である。啄木はこれの「合本」を所
蔵していた。

2020年4月19日 (日)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その101

  針文字書簡
爆弾事件ニテ私外/三名近日死刑ノ宣告/ヲ受クベシ/
幸徳ノ為メニ何卒/御弁護ヲ願フ 切ニ切ニ/六月九日/
彼ハ何モ/知ラヌノデス」 啄木はなぜこの書簡に衝撃を
受けたのか。幸徳秋水像がもう一度急転したからである。
今回の天皇暗殺の隠謀は管野ら四名の計画であって幸徳は
何モ知ラヌ」という。しかし『平民主義』という反逆の
気に満ちた書物は事件の首領・秋水と照応している。その
認識を「針文字書簡」が撹乱したのである。啄木の中に深
い謎が生じた。そして幸徳の著述の渉猟と社会主義・無政
府主義研究の必要とを痛感したと推定される。小説に関し
ては幸徳を首領と想定して執筆した四、五章はまたしても
書き換えを余儀なくされることになるだろう。一~三章の
書き直しどころではなくなった。こうして執筆中断のやむ
なきに至ったのである。

2020年4月18日 (土)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その100

 岩崎宛書簡についてもう一点ふれておきたい。第三章の
冒頭付近に引用した「先月の末からかゝつて『我等の一団
と彼』といふものを書いてる」云々の直前につぎのくだり
がある。
 「創作」は今度『自選歌号』といふものを出すさうだ。
僕へも今日催促に来て、珍歌二十三首と十七の時の写真と
を持つて行つた。
 七月号に23首が載るがその冒頭に「東海の小島の磯の
白砂にわれ泣きぬれて蟹と戯る」が据えられている。この
歌が最初に歌群の頭に据えられたのは四月に編集した「仕
事の後」であろう。それは活字にならなかったので「自選
歌」号で実現したとおもわれる。二三首は12月に出る
『一握の砂』の雛形の趣がある。啄木がその自分の歌々を
「珍歌」と読んでいることにも注目したい。それほど当時
にあって啄木調はユニークだったのだ。  
 つぎに四、五章執筆以後を考えよう。啄木は五章を書き
終えて(または六章を三枚半書いて)中断したのであった。
なぜであろうか。6月13日以後も一日4,4枚のペースで書
き継いだとしよう。97枚目(六章にはいって1枚)で6月20日、
100枚目は6月21日である。その6月21日と翌22日、啄木を
幸德事件第三の衝撃が襲う。管野須賀子の「針文字書簡」
を時事新報がスクープしたのである。その文面にはこう
あった。

2020年4月17日 (金)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その99

 さて、「現代の主潮」にかえろう。もしこの中断した
「我等の一団と彼」の全体から「現代の主潮」を引き出し
てこようとすれば上田のようになるであろう。上田のつか
みだした「現代の主潮」すなわち「知識人を蠹毒(とどく)
ている近代の虚無的思潮、生活能度としての二重生活」は
むしろ書き直された幻の「我等の一団と彼」の主題に近い
のかも知れない。また上田は四章以後の変化を、啄木が作
品執筆中に「現代の主潮」を克服する方向性をつかみはじ
めたことを示唆するのではないか、と見、第六章にえがか
れるさわやかなタッチの中に「私」=亀山の(高橋的なもの
の)清算の暗示を見ていたのであるが、これも卓見であった。
 また小川は、四章以降の軌道の変更こそ作者石川啄木の
幸德事件認識の深まりによるものであり、松永を媒介にし
た「私」の高橋批判は幸德事件を契機に急速に変化をとげ
る啄木が〈将来の日本〉〈明日の考察〉の手がかりをつか
んだことを示唆する、と想定したのであった。直観は正鵠
を得ていた。

2020年4月16日 (木)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その98

 高橋彦太郎は「現代の主潮」そのものなのであった。
現代の主潮」へのきびしい批判者に変身してしまった作
者はすでに彦太郎に対するきびしい批判者なのである。た
しかに一~三章については「も一度これを書き直す」必要
があった。啄木はしかし四章以降の執筆を先に進めた。四、
五章が書かれた。六章はわずか三枚半しかない。もちろん
ここで中断したのである。それにしてもこの三枚半は筆致
がそれまでの章と違う。五章のあとしばらく間をおいての
ちに六章を書き継ごうとしたのではなかろうか。「下らな
き小説を書きてよろこべる男憐れなり初秋の風」(10年9月
9日作)という歌がその傍証のように思える。そして六章を
書きさしたまま「我等の一団と彼」は中断されたのであろう。
こうして今われわれの前にある「我等の一団と彼」の本文
が残ったのである。一~三章と四章以降の間には深い亀裂
が入ったままである。(かれはこの小説については、起稿2週
間後も、中断後の年末にも自信をもっていた。きっと売れ
るものになるはずだと 。もし時あって完成していたなら、
そしてそれが解読されたなら、その評価の高さはいかばか
りになったであろう。)

2020年4月15日 (水)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その97

 恰度そこへ伝へられたのが今度の大事件の発覚でした、
 恐らく最も驚いたのは、かの頑迷なる武士道論者ではな
くて、実にこの私だつたでせう、私はその時、彼等の信条につ
いても、又そのAnarchist Communismと普通所謂Socialism
との区別などもさつぱり知りませんでしたが、兎も角も前言つ
たやうな傾向にあつた私、少い時から革命とか暴動とか反抗
とかいふことに一種の憧憬を持つてゐた私にとつては、それ
が恰度、知らず知らず自分の歩み込んだ一本道の前方に於
て、先に歩いてゐた人達が突然火の中へ飛び込んだのを遠く
から目撃したやうな気持でした、
 幸徳事件発覚という第一の衝撃と『平民主義』という第二の
衝撃が(さらに後述の「針文字書簡」という第三の衝撃が)
いかに強力に働いたかを啄木自身がこのように証言している。

2020年4月14日 (火)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その96

 これは1909年秋以降1910年2月ころまでの啄木自身の思
想的総括である。この期の結論は「現在の社会組織、経済
組織、家族制度…‥‥…‥それらをその儘にしておいて
はいけない、それらは変革されねばならぬ(自分が直接そ
の事業に参加するか否かば別として)という認識であった。
そしてこのつづきの部分こそきわめて重要である。
 その時から私は、一人で知らず知らずの間に
Social Revolutionistとなり、色々の事に対してひそかに
Socialisticな考へ方をするやうになつてゐました、
 「その時から」とは、先に見た1910年(明43)2月以後(6月
初めまでの時期)を指す。
 つまり「『麵麭の略取』の衝撃→国家への疑惑・反抗の念
→ミリュコーフ→Russia and its Crisis という軌跡そして
『硝子窓』末尾に示された啄木の深刻な懊悩」の時期である。
われわれは啄木の思想が幸徳事件を契機に急にラディカルに
なったというふうに思いがちである。がそれは事件以前にもう
形をなしていたのである。

2020年4月13日 (月)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その95

……今も併し申上げたいと思ふことは色々あります、少く
とも二つあります、その一つは近頃その結末のついた特別
裁判事件(幸徳事件-引用者)であります、たしか一年前
に私は、私自身の「自然主義以後」――現実の尊重といふ
ことを究極まで行きつめた結果として自己そのものゝ意志
を尊重しなければならなくなつた事――国家とか何とか一
切の現実を承認して、そしてその範囲に於て自分自身の内
外の生活を一生懸命に改善しようといふ風なことを申上げ
た事があるやうに記憶します、それは確かにこの私といふ
ものにとつて一個の精神的革命でありました、その後私は
思想上でも実行上でも色々とその「生活改善」といふこと
に努力しました、併しやがて私は、その革命が実は革命の
第一歩に過ぎなかつたことを知らねばなりませんでした、
現在の社会組織、経済組織、家族制度…………それらをそ
の儘にしておいて自分だけ一人合理的生活を建設しようと
いふことは、実験の結果、遂ひに失敗に終らざるを得ませ
んでした、

2020年4月12日 (日)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その94

 啄木は天皇制国家との対決に進み出ることを躊躇しつ
づけた。そこへ幸徳事件が発覚した。その強いボディー
ブローのような衝撃は「我等の一団と彼」の中にすぐに
現れ始めた。しかし事件発覚後一〇日を経ても「検事の
やうな眼を以て」また「透徹した理性」を武器にという
言訳的態度を考案してまで躊躇の姿勢でとおした。心の
中でそれは利己の心の産物であることを痛切に自覚して
いたが。その時事件をより深く知るために事件の首領と
目される人の書いた『平民主義』を読んだ。そこには自
分の躊躇する道をもう六年以上も前に歩みだした人たち
がいた。
 その先頭に立った人こそ幸徳秋水であった。その勇気
ある人達の幾人かがなにゆえに今捕らえられ、処刑され
ようとしているのか。自分のような躊躇する者たち(「現
代の主潮」を生きる者たち)がかれらの悪戦苦闘を(高橋
が松永を兎の試験経過を観察するように)傍観し見殺し
にしたからではないのか。
 啄木のこのような自省に至る道筋はつぎの大島経男宛
書簡(1911年2月6日)によって裏づけられる。

2020年4月11日 (土)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その93

幸徳秋水『平民主義』(隆文館1907年)を読んだのである。
これは秋水の代表作である。平民社旗揚げの時期から平民
社解散ころまでのマルクス系社会主義にもとづく論陣、投獄、
アメリカへの亡命、帰国後の無政府共産主義・直接行動論
の伝道など革命家秋水の主張の全貌がこの一冊に凝縮してい
る。一代の名文家秋水の文章は「赤紙の表紙手擦れし国禁の
書」の中にしぶきをあげて躍っている。啄木に思想家として
もっとも大きな影響をあたえたのは少年期における高山樗牛
と幸徳事件以後の幸徳秋水であるが、その秋水の著書のなか
でも『平民主義』の影響は抜群である。後に見るが「時代閉
塞の現状」には『平民主義』のエッセンスが大量に流れ込ん
でいる。これを読んだ証拠は「所謂今度の事」のなかにも見
えているが、繙読の時期ははっきりしなかった。6月14、5日
の間に読んだと考えれば多くの事実が符合してくる。わたく
しはこの推定を前提に考察を進めたい。

2020年4月10日 (金)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その92

 それから2日目の6月15日頃の小説で、引用したような
高橋批判がなされるのである。啄木の思想というよりも決
意が短時日に急転した、ととるほかない。ただし急転の予
兆が書簡の中に全くないわけではない。すでに引用したが
まだ三十枚位はかけさうだ」につづいて「書いて了つて
金にかへるまでに、若し僕にも一度これを書き直す時間が
有るとすれば、これは僕が今迄に於て最も自信ある作だ
とある。つまり啄木は松永を登場させるとともにあと三〇
枚分ほどを構想し、他方でこの構想に合わせた一~三章書
き直しの必要を感じていたのである。
 しかし事態は急転する 。
 2月ころから先に見たように揺れ動き、ついには「硝子
」の「然し、然し時あつて」以下のような懊悩に至りつ
いた啄木であった。もはやかれは行く手に一本の道しか見
ていなかった。懊悩はその道に向かって踏み切れないこと
に発していた。あとは勇気ある決断へのきっかけだけが必
要なのであった。ついにそのきっかけが生じた。

2020年4月 9日 (木)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その91

 6月13日の岩崎正あて書簡の前掲とは別な箇所である。
 検事のやうな眼を以て運命の面を見つめようぢやないか。
「お前は俺の為に笑ふ気か、笑はぬ気か」と言ひながら見
つめようぢやないか。――僕は今見つめてゐる。僕はもう
僕の運命なり、境遇なり、社会の状態なり、乃至は僕自身
の性格なりに対して反抗する気力を無くした。長い間の戦
ひではあつたが、まだ勝敗のつかぬうちに僕はもう無条件
で撤兵して了つた。そして今、検事のやうな冷やかな眼で
以て「運命」の面を熟視してゐる。……
 ……透徹した理性の前には運命といふ敵一人ある許りだ。
運命と面を突き合してるといふ外に彼の生活は無い。君、戦
ひを好む弱者の持つべき最良の武器は、透徹したる理性の
外にはなかつた!
 再現原稿によると第三章の終わりで六二枚であるから
六十何枚」まで書いたという6月13日には第四章の初め
三~四枚まで書き進めているはずである。そこにはすでに
松永が登場している。しかし啄木はその日の手紙で「運命
境遇」「社会の状態」等に対して「反抗する気力を無く
した。長い間の戦ひではあつたが、まだ勝敗のつかぬうちに
僕はもう無条件で撤兵して了つた」と言い、「透徹した理性
によってそれらを傍観すると言う。まさに高橋彦太郎を地で行
くと言っているのである。これは作者石川啄木が「現代の主
」に対して肯定的立場をとっていることを示す。

2020年4月 8日 (水)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その90

 さうした高橋に対する反感を起す機会が、それから一週
間ばかり経つてまた有つた。
 それはつぎのようであった。松永が退社を決心して高橋
に連れられて社にやってきた。「私」は取材に出かけるとこ
ろだった。松永はひどく衰えていた。しかし話す声には
恰々(いそいそ)してゐるやうなところもあつた」。
松永に別れて俥(くるま)に乗った私の感懐はこうである。
 その時私は、何といふこともなく、松永の彼(あ)の衰へ方
は病気の所為(せゐ)ではなくて、高橋の残酷な親切の結果で
はあるまいかといふやうな気がした。医学者が或る病毒の
経過を兎のやうな穏(おとな)しい動物に由(よ)つて試験するや
うに松永も亦高橋の為めに或る試験に供されてゐたのでは
あるまいかと……。
 高橋の傍観への批判はいっそうなまなましくきびしい。
さらに批判は郷里に帰る松永をプラットホームに送った時
高橋が、涙が出るほどの「長い欠伸」をしたという形で表
現される。
 ところで作者は松永に秋水を重ねているのであった。作
者はこの親切な傍観の残酷によって何を描こうとしている
のか。
 われわれはすでに『麺麹の略取』の衝撃→国家への疑惑
・反抗の念→ミリュコーフ:Russia and its Crisisという
軌跡そして「硝子窓」末尾に示された啄木の深刻な懊悩を
見た。あのあとを追っておこう。

2020年4月 7日 (火)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その89

 ここにも秋水の影を見ることができる。たとえば「B――
の家から破門された時が一番得意な時代だつた」は「万朝
報」社を出て平民社の旗揚げをしたときが一番得意な時代
だつたと、「其の夢が段々毀れて来たんで、止せば可いの
に第二の夢を見始めた」は社会主義の夢がこわれて来たん
で無政府主義の夢を見始めたと、「日本画から出て油画に
行つた」は自由民権運動から出て社会主義・無政府主義に
行ったと、という具合に読替えが可能である。
 つづく「」=亀山の感懐がきわめて重要である。
 聞きながら私は妙な気持に捉はれてゐた。眼はひたと対
手の顔に注ぎながら、心では、健康な高橋と死にかゝつて
ゐる肺病患者の話してゐる様を思つてゐた。額に脂汗を浸
ませて、咳入る度に頬を紅くしながら、激した調子で話し
てゐる病人の衰へた顔が、まざまざと見える様だつた。そ
して、それをじろじろ眺めながらふんふんと言つて臥転
(ねころ)でゐる高橋が、何がなしに残酷な男のやうに思
れた。ここの高橋に「私」は何を見ているのか。悪戦苦闘
する 人間に対して理解者を装う傍観者とその残酷さ、を見
ているのである。三章で高橋は「野心」実現のために「
分で機会を作り出して、其の機会を極力利用」しようとす
る社会革命家を持ち出し、自分には「従頭(てんで)そんな気
は起こらないと言う。そのくせかれらのやることに「時代の
推移を」見、かれらの起こした事件に対しては傍観を以てし
さうして毎日、自分の結論の間違ひで無い証拠を得ては、
独りで安心して」いるのであった。そのときの「」は「高橋
の見てゐる世の中の広さと深さに」ある種の敬意を抱いて
いたのである。ところが四章のここでは高橋の傍観は残酷
な傍観だという。傍観の対象の相違をとりあえず措くと、
高橋の傍観に一種の敬意を表していた「」は傍観の批判
者に転じているのである。
 つづきを見よう。

2020年4月 6日 (月)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その88

 つづき。「今はもう断念したんか?」と亀山が問うのに
彦太郎は答える。「断念した――と言つて可いか、しない
と言つて可いか。――断念しようにも断念のしようが無い
といふのが、松永君の今の心ぢやないだらうか?」すでに
捕らえられ、死刑が待っている秋水には運動から手を引く
ことはもうできない。もはや手の引きようがないというの
が秋水の「今の心ぢやないだらうか」と読めるであろう。
 本文2行飛ばしてのつづき。
 「此の間ね。」高橋は言ひ続いだ。何とかした拍子に
先生莫迦(ばか)に昂奮しちやつてね、今の其の話を始めた
んだ。話だけなら可いが、結末(しまひ)には男泣きに泣くん
だ。天分のある者は誰しもさうだが、松永君も自分の技術
に就いての修養の足らんことは苦にしなかつたと見えるん
だね、さうして大きい夢を見てゐたんさ。B――の家から破
門された時が一番得意な時代だつたつて言つたよ。それか
ら其の夢が段々毀(こは)れて来たんで、止(よ)せば可いのに第
二の夢を見始めたんだね。作家になる代りに批評家になる
積りだつたさうだ、――それ、社でよく松永君に展覧会の
批評なんか書かしたね。あんなことが何(いづ)れ動機だら
うと思ふがね。――ところが松永君は、いくら考へても自
分には、将来の日本画といふものは何んなもんだか、まる
で見当が附かんと言ふんだ。さう言つて泣くんだ。つまり
批評家に成るにも批評の根底が見附からないと言ふんだね。
焦心(あせ)つちや可かんて僕は言つたんだが、松永君は、
焦心らずにゐられると思ふかなんて無理を言ふんだよ。
それもさうだろうね。――松永君は日本画から出て油画に
行つた人だけに、つまり日本画と油画の中間に彷徨してゐ
るんだね。尤もこれは松永君ばかりぢやない、明治の文明
は皆それなんだが。――」

2020年4月 5日 (日)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その87

「……松永君は予想外に孤独な人だね。彼(あ)あまでとは思
はなかつたが、僕が斯(か)うして毎日のやうに行つてるのに、
君達の外には誰も見舞に来やしないよ。気の毒な位だ。画
の方の友達だつて一人や、二人有つても可(よ)さゝうなも
んだが、殆ど無いと言つても可い。……彼(あ)の子と彼(あ)
御母さんと――齢(とし)が三十も違つてゐてね。」こう彦太
郎は語る。楚人冠が「幸徳秋水を襲ふ」(東京朝日新聞
1909年6月8日)を書いた頃の秋水は孤立の極にあった(前述)。
 それも楚人冠から直接聞いていよう。前出東京朝日記事
無政府党の陰謀」も秋水の孤立ぶりを書きたてている。
しかも秋水とその母とは事実「齢が三十も違つてゐ」る。
 彦太郎はこうも言う。「随分苦しい夢を松永君も今まで
見てゐたんだね。さうして其の夢の覚め際に肺病に取つ附
かれたといふもんだらう。」彦太郎の言う「」=「野心
=「理想」の含意についてはすでに見た。幸徳秋水の「
はまさに無政府共産主義である。しかも「随分苦しい」夢
であるから「大逆」の「夢」さえ暗示しているのかも知れ
ない。「其の夢の覚め際」も意味がある。前出記事「無政
府党の陰謀」には「秋水変節の真相」「警視庁と秋水」の
見出し下に、秋水が運動から身を引こうとしていたという
ことも書いてある。また当時一般には「肺病」は死病とさ
れていた。それに「取つ附かれた」とは死に取り附かれた
の意味である。秋水の「死刑」は免れがたい、とは新聞人
の間では共通の判断だったであろう。

2020年4月 4日 (土)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その86

 四章に行こう。この章では「我等の一団」の一人・画工
「松永」が登場する。
 「松永」と「秋水」という漢字の近似性にまず注意を払われ
たい。
 松永は「常に抑へても抑へきれぬ不平を蔵してゐた」と
ある。秋水は当代にたいする最大の「不平」家といってよ
いであろう。松永は「肺病」であった。1911年2月20日安
藤正純宛て啄木書簡にこうある。「……さういふ事を考へ
ると幸徳と菅(ママ)野が肺病だつたといふ事をしみじみ感
じます」と。1909年6月に秋水宅を訪れ「幸徳秋水を襲ふ」
を書いた杉村楚人冠が職場にいるのだから、啄木がこれを
執筆していた10年(明43)当時すでに秋水の「肺病」を知って
いたであろう。
 松永は「市ヶ谷の奥」に住んでいる。秋水は「市ヶ谷の奥」
(東京監獄)に囚われている。1909年(明42)1月15日啄
木は大久保余丁町の荷風宅を訪れた。留守だった。荷風は同
年3月自宅を舞台にした「監獄署の裏」を「帝国文学」に
発表している。啄木が広い東京の数限りない地名の中から
「市ヶ谷の奥」を運んだのは偶然とは思えない。ちなみに
「松永」のモデルの一人とされる名取春仙の住まいは南品
川海晏寺前である。

2020年4月 3日 (金)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その85

 彦太郎の会話のつづきがさきの石川正雄の引用部分であ
る。「時代の推移といふものは君、存外急速なもんだよ。
色んな事件が、毎日毎日発生するね。」には、ミリュコーフ
や煙山の本のなかの事件はロシアのことであって、日本と
は無縁と思おうとしていた作者啄木の、今回の事件に対す
る感慨が映し出されている。これにつづく二つのセンテンス
には事件を引き起こす社会的諸条件の存在を認識しようと
する意識が表れている。さらにつぎのセンテンス「さうして
其の色んな事件が……」は啄木が(幸徳)事件に新しい社会
出現の遠い、遠い予兆を見ていることを示す。
 石川正雄の読みは時代を超える卓見だったのである。
 さて、幸徳事件が三章途中でこのようにくっきりと影を落と
しているとすれば、四章以後はどうであろう。啄木の事件への
関心は高まる一方なのだから、より濃厚な影響が見られるはず
であろう。

2020年4月 2日 (木)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その84

 高橋の言う「野心」は三章の別の箇所では「結論」のほか
理想」「」とも言い換えられているのだった。その「
」の内容は幸德事件発覚直後の執筆であるからすっかり
暈かされているが、会話から推定されるのは社会主義の実
現であろう。それはミリュコーフを読んで、いかに苦難を
ともなう事業であるかをロシアの例で痛感した作者の「
」なのであろう。だからそれは「僕等の孫の時代になつて、
それも大分年を取つた頃に初めて実現される奴な」のであ
る。したがっていまその運動を始めたところで自分「一個
人に取つては何の増減も無い」遠い将来のことなのである。
だから僕は僕の野心を実現する為めに何等の手段も方法
も採つたことはない」のである。こういう文脈で続けられ
るつぎの箇所はきわめて重要である。「今の話の体操教師
のやうに、自分で機会を作り出して、其の機会を極力利用
するなんてことは、僕にはとても出来ない」と言うのであ
る。「今の話の体操教師」とは剣持の郷里の中学校の体育
教師で、校長を失脚させ自分がそのポストにつこうと、生
徒を煽動してストライキをやらせ、くびになった男である。
この男は文脈中においては「野心」実現のために「自分で
機会を作り出して、其の機会を極力利用」しようとする社
会革命家のたとえである。六月上旬の啄木の理解にぴった
り当てはまるそのタイプの人間は今東京監獄で取り調べを
受けている幸徳秋水にほかならない。たとえば6月5日の東
京朝日新聞の(幸德)事件報道記事「無政府党の陰謀」に
つぎのような2箇所がある。「其犯罪は秋水幸徳伝二(ママ)郎、
宮下太吉、……の七名が爆裂弾を製造し過激なる行動を為
さんとせし計画発覚し遂に逮捕されたるものにして」云々。
また「階級打破財産平等を叫び動(やヽ)もすれば今回の如き
陰謀を企て常に其機の乗ずべきを窺ひ居たるなり」と。
こうして啄木はここに「体操教師」の姿をかりて幸徳秋水
の影を登場させたのである。

2020年4月 1日 (水)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その83

 つぎに五六、五七枚目から引こう。高橋がしゃべり、亀
山が合いの手をいれる。
 「僕には実際主義なんて名づくべきものは無い。昔は有つ
たかも知れ無い。これは事実だよ。尤も僕だつて或考へは
有つてるさ。僕はそれを先刻(さつき)結論といつたが、仮に
君の言ひ方に従つて野心と言つても可い。然し其の僕の野
心は、要するに野心といふに足らん野心なんだ。そんなに
金も欲しくないしね。地位や名誉だつてさうだ。そんな者
は有つても無くても同じ者だよ。」
 「世の中を救ふとでも言ふのか?」
 「救ふ? 僕は誇大妄想狂ぢや無いよ。――僕の野心は、
僕が死んで、僕等の子供が死んで、僕等の孫の時代になつ
てそれも大分年を取つた頃に初めて実現される奴なんだよ。
いくら僕等が焦心(あせ)つたつてそれより早くはなりやしな
い。可いかね? そして仮令それが実現されたところで、
僕一個人に取つては何の増減も無いんだ。何の増減も無い!
僕はよくそれを知つてる。だから僕は僕の野心を実現する
為めに何等の手段も方法も採つたことはないんだ。今の話
の体操教師のやうに、自分で機会を作り出して、其の機会
を極力利用するなんてことは、僕にはとても出来ない。出
来るか、出来ないかは別として、従頭(てんで)そんな気も
起つて来ない。起らなくても亦可いんだよ。……」

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