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2020年5月

2020年5月31日 (日)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その141

(承前)

女あり我がいひつけに背かじと心を砕く見ればかなしも B10
手も足も出ずと呟きて手も足も投げ出して寝る男の顔かな B11
今日よりは我も酒など呷らむと思へる日より秋風が吹く B12 
大海のその片隅につらなれる島々の上に秋の風吹く B13
下らなき小説をかきてよろこべる男憐れなり初秋の風 B14
秋の風今日よりは彼のふやけたる男に口を利かじと思ふ B15
男と生れ男と交り負けてをりかるが故にや秋が身にしむ B16
マチすれば二尺許りの明るさの中をよぎれる白き蛾のあり B17
その昔秀才の名の高かりし友牢にあり秋の風吹く C1
いつも来るこの酒店のかなしさよ夕日赤々と酒にさし入る C2
わが友は今日も母なき子を負ひてかの城跡をさまよへるかな C3
この日頃ひそかに胸にやどりたる悔あり我を笑はしめざり C4
公園のとある木かげの捨椅子に思ひあまりて身をよせしかな C5
公園のかなしみよ君の嫁ぎてよりすでに七月来しこともなし C6
やとばかり桂首相に手とられしゆめみてさめぬ秋の夜の二時 C7
しんとして眠れる夜の大道をわが足音を気にしつゝゆく C8
実務にはやくにたゝざるうた人と我見る人に金かりにけり C9
今おもへばげに彼もまた秋水の一味なりしと思ふふしもあり D1
常日頃好みて言ひし革命の語をつゝしみて秋に入れりけり D2
この世よりのがれむと思ふ企てに遊蕩の名を与へられしかな D3
わが抱く思想はすべて金なきに因する如し秋の風吹く D4
秋の風われら明治の青年の危機をかなしむ顔なでゝ吹く D5
時代閉塞の現状をいかにせむ秋に入りてことにかく思ふかな D6

 

 

2020年5月30日 (土)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その140

  韓国併合批判の歌 
 九月九日夜、啄木は歌を作り始める。
 「九月九日夜」の歌三九首をすべて引こう。函館市中央図
書館所蔵の啄木歌稿ノート カラーコピーからの引用である 。
 インクの色・罫線(一本)挿入・行間スペース一箇所は歌
稿ノートカラーコピーに基づいている。用いられているイン
クはと黒である。以下に見るとおり赤インクの歌群二つ
(これをA歌群、C歌群としよう)、黒インクの歌群二つ
(B歌群D歌群)、計四つの歌群からなっている。(A1~D6
の記号は近藤が付した)
     
   九月九日夜 
何となく頭の中に水盛れる器ある如しぢつとしてゐる   A1
ふるさとの床屋の鏡わが顔と麦の畑をうつせし鏡     A2
       ―――――――――――
いらだてる心よ汝はかなしかりいざいざ少し欠伸などせむ A3
叱られてわつと泣き出す子供心その心にもなりてみたきかな  A4
顔あかめ怒りしことが翌日はさほどにもなきをさびしがるかな A5
何事も金々といひて笑ひけり不平のかぎりぶちまけし後  A6
誰そ我にピストルにても打てよかし伊藤の如く死にて見せなむ A7
地図の上朝鮮国に黒々と墨をぬりつつ秋風を聞く B1
明治四十三年の秋わが心ことに真面目になりて悲しも B2
売ることをさしとめられし本の著者に道にて会へる秋の朝かな B3
何となく顔が卑(さも)しき邦人の首府の大空を秋の風吹く B4
秋風の来るごとくに来りたる我の疑惑は人ししらなく B5
ふがひなき我が日の本の女らを秋雨の夜にのゝしりしかな B6
庭石に時計をはたと擲てる昔の我のなつかしきかな  B7
怒れども心の底の底になほ怒らぬところありてさびしき B8 
家に入りて我壁に対す壁語らずしづかに壁を撫でて悲しむ B9

 

2020年5月29日 (金)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その139

 『麵麭の略取』「第二章 万人の安楽 其二」の一節である。
今年2月以降の、そして6月以降の啄木の思想的動向を踏
まえ、また1911年(明44)1月9日瀬川あて書簡の「僕は……
将来の社会革命のために思考し準備してゐる男である」を
踏まえるならば「必要」は「社会(的)革命」の「必要」と
読んでまちがいないであろう。そうするとカツコ付き「『明
日』の必要」の意味も明らかとなる。
 啄木は思想的にもテロリストではないし、クロポトキンの
ように「暴力をもて其束縛を破却」すべし、とは考えてい
なかったと思われるが、すでにもっともラディカルな思想
家である。

 「時代閉塞の現状」を書き終えたのは9月上旬である。
 9月8日東京朝日新聞に広告が出る。「来る十五日の紙上
より 朝日歌壇 選者 石川啄木の一欄を設け、投稿を募る
云々と。啄木は選者となるにあたって「窓の内・窓の外」
を書く。未定稿におわる。歌論を書こうとしたと推定され
るが想は熟していなかったらしい。 
 あとで見るように『一握の砂』の編集が終わった直後に最
初の歌論「一利己主義者と友人との対話」が成る。

2020年5月28日 (木)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その138

(五)はこう始まる。
 明日の考察! これ実に我々が今日に於て為すべき唯一で
ある、さうして又総てゞある。
 その考察が、如何なる方面に如何にして始められるべきで
あるか。それは……
と。息もつかせぬ展開である。そしてここ10年間の青年の
三次の経験」つまり、樗牛時代・梁川時代・「純粋自然
主義との結合時代」を総括した後にこう提起する。
 一切の空想を峻拒して、其処に残る唯一つの真実――
「必要」!これ実に我々が未来に向つて求むべき一切であ
る。我々は今最も厳密に、大胆に、自由に「今日」を研究して、
其処に我々自身にとつての「明日」の必要を発見しなけれ
ばならぬ。必要は最も確実なる理想である。
 「必要」になぜカツコと感嘆符が付せられているのか?
次の文章の「必要」に注目し、「其財産階級」を「強権」と
読み替えてみよう。
 ……吾人の必要を感ずるのは実に一個の社会的革命であ
る。 此の革命の切迫せること、其遠からずして破裂すべき
ことは、是れ亦富者と貧民と共に均(ひと)しく認むる所である。
 思想上の一大変化は、既に19世紀の後半中に成就せるに
拘らず、其財産階級の為めに圧伏され、其自然の発達を杜絶
(とぜつ)さるゝこと、彼れが如くなりしが故に、今や此新精
神は暴力をもて其束縛を破却し、一個の革命に於て夫れ自
身を実現するの已(や)むなきに至つた。

2020年5月26日 (火)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その137

 しかし、以上のことがあからさまに読者につたわるよう 
であれば筆者は極度の危険に身をさらすことになる。掲載
する東京朝日新聞社も甚大な被害をこうむる。啄木はここ
で例のどんでん返しのレトリックを用いる。「今日の小説や
歌の……」とつづけるのである。このくだりに来るやここ
まで述べてきたことは多良学の読みのように一瞬にして染
め変えられる。
 こうしてこのパラグラフは二重に読むべきなのである。
 時代閉塞の現状において青年は性に逃避するのでなけれ
ば、過去(元禄)に逃避している。
 斯くて今や我々青年は、此の自滅の状態から脱出する為
に、遂に其「敵」の存在を意識しなければならぬ時期に到達
してゐるのである。それは我々の希望や乃至其他の理由に
よるのではない、実に必至である。我々は一斉に起(た)つて
先づ此時代閉塞の現状に宣戦しなければならぬ。自然主義
を捨て、盲目的反抗と元禄の回顧とを罷(や)めて全精神を
明日(みやうにち)の考察――我々自身の時代に対する組織的
考察に傾注しなければならぬのである。
 「怨敵」すなわち国家をめぐって折蘆ときびしく対立した
問題点が(一)から(四)までの論の展開を経て、ここで
鮮明に提起される。「我々青年は……遂に其『敵』の存在
を意識しなければならぬ時期に到達してゐるのである」と。
 しかも「」とは「天皇制の論理」をいただく国家なの
である。この最も困難な闘いの開始を啄木は呼びかける。
闘いは「我々自身の時代に対する組織的考察」から始める
べきだという。「組織的考察」とは「現在の社会組織、経済
組織、家族制度……」(前掲大島宛書簡)の総体的な研究を
意味するのであろう。手本としてはクロポトキン『麵麭の
略取』やエンゲルス「科学的社会主義」が念頭にあったで
あろう。それが「明日(みやうにち)の考察」なのだ。

2020年5月25日 (月)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その136

 こうして今井泰子の読みが成立しうることになる。
 その線に沿って読むと「自己」にカッコを付しているの
は「主義」と読ませるためとなろう。「如何なる方面に其
『自己』を主張してゐるかは既に読者の知る如くである」は
幸德事件という結果を示唆していることになる。ただし一
般読者は事件が天皇暗殺計画だとはまだ知らないのだから、
内容は読者の知識に任されているが。
 また「実に彼等は、抑へても抑へても抑へきれぬ自己其者
の圧迫に堪へかねて……全く盲目的に突進してゐる」は「所
謂今度の事」(三)で次のように書いたことと対応する。
 「日本の政府が其隷属する所の警察機関のあらゆる可能
力を利用して、過去の間、彼等を監視し、拘束し、啻(ただ)
其主義の宣伝乃至実行を防遏(ぼうあつ)したのみでなく、時
には其生活の方法にまで冷酷なる制限と迫害とを加へたに
拘はらず、彼等の一人と雖も其主義を捨てた者は無かつた。
主義を捨てなかつた許りでなく、却つて其覚悟を堅めて、遂
に今度の様な凶暴なる計画を企て、それを半ばまで遂行す
るに至つた」というくだりと。
 「彼等の入れられてゐる箱の最も板の薄い処、若くは空隙
(現代社会組織の欠陥)」はどうか。「」は閉塞状況にある
現代社会組織」の暗喩である。「彼等」がこのたび「盲目的
に突進し」た対象は天皇であった。このことを念頭に置けば
箱の最も板の薄い処、若くは空隙」とは強権が支配し維持
する「現代社会組織」のうちの攻撃しやすいところ、の意と
なろう。強大な国家権力を攻撃するのは至難であるが、その
頂点は生身の人間であるから、攻撃可能であることを「所謂
今度の事」は証明した。そしてこの場合、天皇は「現代社会組
」及び国家組織の頂点としての天皇であるから、天皇制の
体現者である。今井泰子のいうとおり当該箇所は「天皇制」を
さしている。しかもその天皇制は「現代社会組織の欠陥」で
あるという。この痛烈な批判!

2020年5月24日 (日)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その135

 事実多良学はこれを批判し、前者は「青年の中の、時代に
先んじ、急(せ)いて自らの理想を実現しようとする人達(こ
の場合は特に文学青年……)」をさし、後者は「当時国法で
公認されていた公娼、半公娼の状態にあった私娼その他
性的欲望を満たす社会的存在」をさす、と言った 。
 わたくしは多良の解釈も正しいと思う。しかし多良はこの
箇所をこの文脈の中でのみ読んでいるのである。その限り
では正しいのである。しかし幸德事件後の啄木の最大関心
事はまさにその幸德事件であり、最大の緊張下に事件が提
起した問題と取り組んでいる最中であることを忘れてはな
らない。この評論が中断した「所謂今度の事」の続きを別
な切り口から書きついだものであることも忘れてはならない。
 「所謂今度の事」(四)ではこう書いた。「社会主義者
にあつては、人間の現在の生活が頗(すこぶ)る其理想と遠きを
見て、因を社会組織の欠陥に帰し、主として其改革を計ら
うとする。而して彼の無政府主義者に至つては、実に、社
会組織の改革と人間各自の進歩とを一挙にして成し遂げよ
うとする者で有る。……無政府主義者とは畢竟『最も性急
(せつかち)なる理想家』の謂でなければならぬ」と。この
「無政府主義者」には幸德事件の被告たちも含まれており、
かれらこそまさに当代日本の「最も急進的な人達」である。
他方で啄木は青年が「理想を失ひ、方向を失ひ、出口を失
つた状態に於て、長い間鬱積して来た其自身の力を独りで
持余してゐる」と書き、またその三段階の「愛国心」を書
くが、青年の「急進的な」傾向などどこにも具体的に書い
ては来なかった。その啄木が「女郎買、淫売買、乃至野合、
姦通の記録」の著者たちをまともに「最も急進的な人達
と呼ぶであろうか。この「時代閉塞の現状」(二)で「
売屋から出て来る自然主義者の顔と女郎屋から出てくる芸
術至上主義者の顔と、其表れてゐる醜悪の表情に何等かの
高下が有るだらうか」と書いている啄木ではないか。また
これを書くひと月ほど前に近藤元の女郎買いの歌を痛烈に
批判して「次の時代と云ふものに就ての科学的、組織的考
察の自由を奪はれてゐる日本の社会に於ては斯(か)ういふ自
滅的、頽唐的なる不健全な傾向が日一日若い人達の心を侵
蝕しゝある……」と書いている。これを「急進的」と評す
る気配は微塵もない。かれらを本気で「最も急進的な人達
と呼ぶ啄木ではない。

2020年5月23日 (土)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その134

我々青年を囲繞する空気は、今やもう少しも流動しな
くなつた」は、青年をとりまく息苦しさを表現して絶妙であ
る。つづく二つのセンテンスは啄木が究明した時代閉塞の
現状の根因である。一つは「強権」一つは「現代社会組織」。
「強権」すなわち「天皇制の論理」を「最重要の武器とす
」国家権力の支配が国内の隅々にまで浸透し、青年に有
無を言わせない。
 「現代社会組織」すなわち資本家制度にもとづく社会組織
の発達はほぼ行き詰まり・閉塞状態である。社会組織の行
き詰まりはその基礎である経済制度・資本(家)制度のつ
ぎのような行き詰まりによって確認できる。「戦争」等に
よってしか「振興する見込の無い一般経済界の状態」、貧民
と売淫婦の激増とこれに連動する犯罪と売淫の激増。
 前者は強大すぎて、また「天皇制の論理」のせいで立ち
向かうのがむずかしい。後者は巨大な社会組織の問題なの
でいかんともしがたい。
 斯くの如き時代閉塞の現状に於て、我々の中最も急進的
な人達が、如何なる方面に其「自己」を主張してゐるかは
既に読者の知る如くである。実に彼等は、抑へても抑へて
も抑へきれぬ自己其者の圧迫に堪へかねて、彼等の入れら
れてゐる箱の最も板の薄い処、若くは空隙(現代社会組織
の欠陥)に向つて全く盲目的に突進してゐる。今日の小説
や詩や歌の殆どすべてが女郎買、淫売買、乃至野合、姦通
の記録であるのは決して偶然ではない。
 今井泰子は「我々の中最も急進的な人達」は「天皇暗殺計
画の発覚で逮捕された管野スガら数名の者たちおよび当局
に便乗逮捕された大量の無政府主義者」をさし「最も板の薄
い処、若くは空隙(現代社会組織の欠陥)」は「天皇制」を
さすと言った 。引用文中の終わりのセンテンスをみると今
井の読み違いのように見えるであろう。

2020年5月22日 (金)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その133

 啄木の閉塞感覚の形成に示唆をあたえた作品として平岡
敏夫の指摘した 漱石の『それから』そしてこの『平民主義』
の外に以下の二冊を挙げておきたい。
 H.Ibsen : John Gabriel Borkman (W.Archer訳)
 M.Gorky : Three of Them(A. Linden訳)
 このほか「国家」「強権」の概念、それへの反逆・革命の
思想を教えたものとして、特記すべきものに前掲『麵麭の
略取』がある。
 我々青年を囲繞する空気は、今やもう少しも流動しなく
なつた。強権の勢力は普く国内に行亘つてゐる。現代社会
組織は其隅々まで発達してゐる。――さうして其発達が最
早完成に近い程度まで進んでゐる事は、其制度の有する欠
陥の日一日明白になつてゐる事によつて知ることが出来る。
 啄木生誕(1886年)の頃はじまった日本の産業革命は日
露戦後の1907年(明40)ころに完了した。産業革命によっ
て江戸時代を引き継いでいた経済システムは機械制大工業
を中軸とする資本主義的システムに編制がえされた。1907
年以後その結果を基盤に資本主義の全面的展開が始まった。
こうした過程で発生した経済・社会体制の矛盾は日露戦争
を経て激化した。啄木はそれを正確に鋭敏に感知し誌して
いる。漱石が『三四郎』で広田先生に(日本は)「亡びるね
と言わしめ、『それから』で代助に(日本は)「あらゆる方面
にむかつて、奥行きをけずつて、一等国だけの間口を張つち
まつた。……牛と競争をする蛙と同じことで、もう君、腹が裂
けるよ」と言わしめた時代認識と共通する。

2020年5月21日 (木)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その132

 こうして(四)がつぎのように書き起こされる。
 斯くて今や我々には、自己主張の強烈な欲求が残つてゐ
るのみである。自然主義発生当時と同じく、今猶理想を失ひ、
方向を失ひ、出口を失つた状態に於て、長い間鬱積して来た
(それ)自身の力を独りで持余してゐるのである。
 既に断絶してゐる純粋自然主義との結合を今猶意識しか
ねてゐる事や、其他すべて今日の我々青年が有(も)つてゐ
る内訌(ないこう)的、自滅的傾向は、この理想喪失の悲しむ
べき状態を極めて明瞭に語つてゐる。――さうしてこれは
実に「時代閉塞」の結果なのである。
 ついで「見よ、我々は今何処に我々の進むべき路を見出
し得るか」と書きつぎ、時代閉塞の現状を例示してゆく。
 つぎの例示箇所と『平民主義』の一節とを比較してみよう。
毎年何百といふ官私大学卒業生が、其半分は職を得かね
て下宿屋にごろごろしてゐるではないか。
 今度は『平民主義』の一節。「見よ、彼の光輝ある希望
を抱いて、官私の各大学各専門学校を出るの青年、年々幾
千人ぞ、而して年々幾千の新たなる職業は決して彼等の為
めに供給せられざる也。」(「凄惨の声」) 
 啄木は秋水の一文を下敷きにして書いたのであろう。
そもそも『平民主義』のなかで幸徳秋水が全身全霊をかた
むけて闘っているのは、まさに時代閉塞の現状そのものな
のである。『平民主義』のエッセンスが大量に評論「時代
閉塞の現状」に(とくにこの四に)流れ込んでいる。

 

2020年5月20日 (水)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その131

 こうして自然主義の現実を検覈してみると収攬(しゆうらん)
困難な混乱状態を呈している。魚住氏はこの混乱状態の内
容を自己主張的傾向と自己否定的傾向のどちらかに分類し
ておいてその「奇なる結合の……名が自然主義である」と
いう。もしそんなことをしてよいのなら、「人間の思想は
……必ず何等かの意味に於て自己主張的、自己否定的の二
者を出づることが出来ない」のだから「一切の人間の思想
は二者の結合であり、したがって「自然主義」の名が冠せ
られるということになる。
 氏の誤りは自然主義の発生過程を考えるとよりはっきりする。
 自然主義は日露戦後(約5年前)に徐々に起こってきたが、
浪漫主義は10年以前からあった。5年ほど前に浪漫主義
(自己主張的傾向)の中から「純粋自然主義」(自己否定
的傾向)が分化したが、両者ははじめは結合していた。(自
然主義の名は後者に与えられるべきか、両者の結合に与え
られるべきか?)ただし前者は敵を持っていなかったし、
後者は(自己否定的なのだから)敵を持つ性質のものでは
なかった。
 両者は初めは仲良くしていたが、「実行と観照」をめぐっ
て断絶に至る喧嘩をしてしまった。純粋自然主義が1908年
(明41)9月「芸術と実生活の界(さかひ)に横たはる一線
(島村抱月)を著して理論上は完全に分化したのである。
と同時に自然主義は青年の自己主張を代表する要素をなん
ら持たないものとなり、青年は自己を託するに足る思想を
喪失した。

2020年5月19日 (火)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その130

(三)に行こう。
 自然主義の現実を検覈するなら、つぎのようである。
 花袋、藤村、天渓、抱月、泡鳴、白鳥、風葉、青果その
他、これら自然主義者の間には「其肩書以外には殆ど全く
共通した点が見出し難い」。
 「科学的、運命論的、静止的、自己否定的」傾向を代表
するのが「純粋自然主義」であるはずなのに、「第一義欲
(抱月)だの「人生批評」(天絃)だの「主観の権威」「
然主義中の浪漫分子」(天絃、御風)だの言い始める。
 耽美派の代表のような荷風に抱月一派の自然主義者が推
讃の辞を送る。魚住氏が「自己主張としての自然主義」な
るものを説く。「かくて今や『自然主義』といふ言葉は、
刻一刻に身体も顔も変つて来て、全く一箇のスフインクス
に成つてゐる。
 さらにこの混雑は自然主義者の間のみにとどまらない。
近き過去に於て自然主義者から攻撃を享(う)けた享楽主義
と観照論当時の自然主義との間に」「新浪漫主義を唱へる人
と主観の苦悶を説く自然主義者との心境に」どれほどの違い
があるか。泡鳴の「肉霊合致の全我的活動なるもの」と樗牛
流の本能満足主義も似たようなものである。

2020年5月18日 (月)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その129

 啄木はつづける。
 さうして此の結論は、特に実業界などに志す一部の青年
の間には、更に一層明晰になつてゐる。曰く、「国家は帝国
主義で以て日に増し強大になつて行く。誠に結構な事だ。
だから我々もよろしくその真似をしなければならぬ。正義だ
の人道だのといふ事にはお構ひなしに一生懸命儲けなければ
ならぬ。国の為なんて考へる暇があるものか!
 こういう青年の意識を「愛国心」とは、なんというアイロニー!
 啄木は「愛国心」の第三段階つまりさらに「一歩だけ進
歩したもの」として「哲学的虚無主義」をもってくる。こ
の段階の「愛国心」は「一見彼の強権を敵としてゐるやう
であるけれども、さうではない。寧ろ当然敵とすべき者に
服従した結果なのである」。ましてそれ以前の「愛国心」に
おいてをや。
 「日本人特有の或論理」を前にして「比較的教養ある殆
ど総ての青年」「実業界などに志す一部の青年」はこれとよ
そよそしい関係に入り、「哲学的虚無主義」の青年は屈従の
結果没交渉となる。かの「天皇制の論理」に敵対する以前の
段階に青年はいるのである。これが啄木のいいたいことの
核心である。
 「かくて魚住氏の所謂共通の怨敵が実際に於て存在しな
い事は明らかになつた。
 このあとは前述のように、折蘆の自然主義にたいする検覈
(けんかく)不足を指摘し、(三)における啄木自身の検覈を準備する。

2020年5月17日 (日)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その128

 Bとこの論理の関係は明白である。「最重要の」というキ
ーワードをわざわざ置いてくれているのを正確に読みとり
たい。われわれの「父兄」の国家(大日本帝国)はこの「論理
によって日清日露の両戦争で勝利し、「一等国」にもなった。
 Cとこの論理の関係を見よう。一文の骨格は「其論理は
……結論に到達してゐる」である。途中の「最重要の武器
なるに拘らず」まではすっきりする主述関係が「一度我々
青年の手に移されるに及んで」をはさんで急にぼやけてく
る。「其論理」は父兄にあっては「武器である」は言える
が、「其論理」が「結論に到達する」は言えない。文脈上
結論に到達する」の主語は「青年」でなければならない。
明噺さの権化のような啄木がこうした一見不明瞭な文を書
くのは天皇制にかかわるときである。「所謂今度の事」の
例の箇所と通底する手法である。啄木のぼかした筋道を復
元するとつぎのようになる。
 国家機構の枢要部分を構成する「天皇制の論理」が青年
の手に渡る。
 青年は国家と他人同志の関係にある。
 したがって青年は国家のこの部分=「天皇制の論理」と
も他人同志の関係にある。
 その関係の表れが青年の「愛国心」である。と。
 「天皇制の論理」とも他人同志の関係にある日本の青年!
なんと危険なことを言うのだろう。幸徳事件を媒介にして
この認識に達したのである。

2020年5月16日 (土)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その127

 以上の条件を満たす「日本人特有の或論理」として考え
られるのは大日本帝国憲法とくにその「第一章 天皇」であ
る。啄木が第一章の全一七箇条を思い浮かべていたという
のではない。しかし日本の国家機構の枢要部分を形作るた
とえば次のような条項を思い浮かべていたと思われる。
 第一条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
 第三条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
 第四条 天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法
    ノ条規二依り之ヲ行フ
 第十一条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
 第十二条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
 第十三条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
第二十条 日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ兵役ノ義務
     ヲ有ス
 これらを以下では「天皇制の論理」と呼ぶことにする。
 Aとこの論理との関係を考えてみよう。「我々青年は誰し
も其或時期に於て徴兵検査の為に非常な危惧を感じてゐる。
……国民の最大多数の食事を制限してゐる高率の租税の費
途なども目撃してゐる」のであった。
 にもかかわらず「自由討究」ができないのであった。
兵役は大日本帝国憲法第二章第二十条で「臣民」の義務と
規定されている。「自由討究」においてこれに異を唱える
ことは即「天皇制の論理」と抵触してくることは明らかで
ある。「高率の租税の費途」は軍事費の間接的表現と推定
される。これを「自由討究」することは第十一条十二条を
ふくむ「天皇制の論理」とぶつかる。だから青年は「自由
討究」ができないでいる(「怨敵」とするはるか以前の状
態に青年はいる)、と啄木は言うのである。

2020年5月15日 (金)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その126

 ③ 二段落目の「歴史」は「特殊なる歴史」をうけてい
るが、権力がこれを尊重しようとすると時代の進展ととも
に発生する新事態・新思想はすべてかれらにとっては「
くべき事」として現われ(たとえば自然主義・社会主義・
無政府主義の思想と運動、幸德事件など)、「国体に牴触
する」として弾圧する(「手を以て蓋をする」)と啄木は
言う。「国体」はもちろん「万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」る
国体である。
 こうして「特殊なる歴史」も天皇・天皇制にかかわる言
葉である。
 ④「この島国の子供騙しの迷信……」は小著『石川啄木
と明治の日本』(154~156ページ)で論証したとおり、
啄木のもっとも直接的かつ痛烈な天皇制批判である。
以上をふまえて「時代閉塞の現状」にもどると文中の「
本人特有の」もまた天皇・天皇制を暗示する表現であるこ
とは確実である。

 つづいて「或論理」の考察に移ろう。「論理」は天皇制
にかかわる「論理」である。その「論理」は文脈に沿うな
ら、次の3条件を満たすものでなければならない。
 A その「論理」は「(すで)に業(すで)」やっていなけ
ればならない「自由討究」を今になってもまだやっていな
いという青年の現状を生み出す上に作用している。
 B その「論理」は父兄が国家を保護し発達させる上での
最重要の武器」である。
 C その「論理」は国家と他人の関係にある青年の手に移
されると意想外の「愛国心」に行き着いている。

2020年5月14日 (木)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その125

 ③「我々日本人は特殊なる歴史を過去に有してゐるだけに、
今正(まさ)に殆(ほとん)どすべての新しい出来事に対して驚か
ねばならぬ境遇に在る。さうして驚いてゐる。然し日に百回
『こん畜生』を連呼したとて、時計の針は一秒でも止まつて
くれるだらうか。
 歴史を尊重するは好い。然しその尊重を逆に将来に向つて
まで維持しようとして一切の『驚くべき事』に手を以(もつ)
(ふた)をする時、其保守的な概念を厳密に究明して来たなら
ば、日本が嘗(かつ)て議会を開いた事からが先づ国体に牴触
(ていしよく)する訳になりはしないだらうか。
 (「歌のいろいろ)」「東京朝日新聞」1910年12月18日)
 ④「この島国の子供騙しの迷信と、底の見え透いた偽善……
      (「平信」1911年11月稿)
 
 ①について。「何れの国にも優つてゐる」「何れの国の人
よりも深く……」は日本という国が特殊であることを強調す
る文言である。強調された特殊性は天皇制をさすとしか考え
られない。したがって「其国家組織」は天皇制国家組織(い
わゆる「国体」)の意味なのである。傍線箇所は「日本人特
有の」という文言ではないが、啄木が「日本」および「日本
」に「特有の」の特徴を述べた最初の箇所である。
 ②は先に読みを示した「所謂今度の事(一)」の原文から
の引用である。四つの傍線部「我々日本人の或性情」「或特
殊の性情」「此性情……」「此日本人の特殊なる性情」が四
つとも天皇・天皇制にまつわる記述であること、再説を要し
まい。
 もう一点、先に述べた「どんでん返しのレトリック」であ
るが、かれは天皇・天皇制に関して記述する際、このレトリ
ックを幾度も用いている。「時代閉塞の現状」の中でもあと
で2度それを見るであろう。

2020年5月13日 (水)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その124

 今井泰子は「日本人特有の或論理」が天皇制にかかわる
論理だと看破した 。このキーワードを「日本人特有の」と
或論理」とに分けて考察することにしよう。

 「日本人特有の」の考察。まず啄木の四作品から引用し
よう。
①「……日本は其国家組織の根底の堅く、且つ深い点に
於て、何(いづ)れの国にも優つてゐる国である。従つて、
若しも此処(ここ)に真に国家と個人との関係に就いて真面
(しんめんぼく)に疑惑を懐いた人があるとするならば、
其人の疑惑乃至反抗は、同じ疑惑を懐いた何れの国の人よ
りも深く、強く、痛切でなければならぬ筈である。
     (「性急(せつかち)な思想」1910年2月14日)
② 「そして今彼(か)の三人の紳士が、日本開闢(かいびゃく)
以来の新事実たる意味深き事件を、たゞ単に『今度の事』と
言つた。これも亦等しく言語活用の妙で無ければならぬ。
『何と巧い言方だらう!』私は快く冷々(ひやひや)する玻璃
(コツプ)を握つた儘、一人幽かに微笑んで見た。
 間もなく私も其処を出た。さうして両側の街灯の美しく
輝き始めた街に静かな歩みを運びながら、私はまた第二の興
味に襲はれた。それは我々日本人の或性情、二千六百年の長
き歴史に養はれて来た或特殊の性情に就てゞ有つた。――此
性情は蓋し我々が今日迄に考へたよりも、猶一層深く、且つ
広いもので有る。……そして、千九百余年前の猶太(ユダヤ)
が耶蘇(ヤソ)基督(キリスト)の名を白地(あからさま)に言ふを避け 
て唯『ナザレ人(びと)』と言つた様に、恰度それと同じ様に、
彼の三人の紳士をして、無政府主義といふ言葉を口にするを
躊躇して唯『今度の事』と言はしめた。それも亦恐らくは
此日本人の特殊なる性情の一つでなければならなかつた。
     (「所謂今度の事」1910年7月稿)

2020年5月12日 (火)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その123

 つづいて(二)は折蘆文(下)冒頭の「兵隊には取られる、
重い税はかゝる」云々を足場にして論じはじめる。そして
共同の怨敵が実際に於て存在しない」ことを論証し、折蘆
の自然主義にたいする検覈(けんかく)不足を指摘し、(三)に
おける啄木自身の検覈を準備する。この章の中心である
共同の怨敵」の存在にかんする論証はさほど重要には見
えない。(一)の末尾を敷衍(ふえん)しているだけのようで
ある。しかし一つの語句の解明がこの章の重要さを他の章
に劣らぬものにする。「日本人特有の或論理」および同一
内容の「其論理」が何をさすか、以下の長い引用のなかに
読みとりたい。
 啄木は言う。
 我々青年は誰しも其或時期に於て徴兵検査の為に非常な
危惧を感じてゐる。……国民の最大多数の食事を制限して
ゐる高率の租税の費途なども目撃してゐる。凡そ此等の極
く普通な現象も、我々をして彼の強権に対する自由討究を
始めしむる動機たる性質は有つてゐるに違ひない。然り、
寧ろ本来に於ては我々は已(すで)に業(すで)に其自由討究を
始めてゐるべき筈なのである。にも拘(かかは)らず実際に於
ては、幸か不幸か我々の理解はまだ其処まで進んでゐない。
さうして其処には日本人特有の或論理が常に働いてゐる。
 しかも今日我々が父兄に対して注意せねばならぬ点が其
処に存するのである。蓋し其論理は我々の父兄の手に在る
間は其国家を保護し、発達さする最重要の武器なるに拘ら
ず、一度我々青年の手に移されるに及んで、全く何人も予
期しなかつた結論に到達してゐるのである。「国家は強大
でなければならぬ。我々は夫(それ)を阻害すべき何等の理由
も有つてゐない。但し我々だけはそれにお手伝するのは御
免だ!」これ実に今日比較的教養ある殆ど総ての青年が国
家と他人たる境遇に於て有ち得る愛国心の全体ではないか。
(以下略)

2020年5月11日 (月)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その122

 「時代閉塞の現状」をその(一)から見てゆこう。
 5年前に自然主義が姿を現したとき以来ある時(後述)ま
では、「自己主張的傾向」が「科学的、運命論的、自己否定
的傾向(純粋自然主義)と結合してゐた事は事実である」。
(そしてこの「自己主張的傾向」はとりもなおさず青年の
ものでもあった。)これはよい、しかし魚住は一つの虚偽を
捏造(ねつぞう)して自説の展開をはかっている。自然主義の二傾
向が「共通の怨敵たるオオソリテイ――国家」に対抗するた
めに結合したというのは虚偽である。この明白な虚偽につい
ては論ずる必要もない。この10年間を考えても「我々日本の
青年は未だ嘗て彼の強権に対して何等の確執を醸した事が無
いのである。従つて国家が我々に取つて怨敵となるべき機会
も嘗て無かつたのである 」。
 では国家・強権と「我々日本の青年」とはいかなる関係に
あるのか。疎隔の関係にある。我々青年は「総て国家に就い
ての問題に於ては……全く父兄の手に一任してゐるのであ
る。」「国家てふ問題が我々の脳裡に入って来るのは、たゞ
それが我々の個人的利害に関係する時だけである。さうし
てそれが過ぎてしまへば、再び他人同志になるのである。

2020年5月10日 (日)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その121

 自然主義は本来「極めて科学的デテルミニステイツクで、
従つて自暴的廃頽的であるに拘らず、一面に自己主張の強
烈なる意志を混じて居るが故に、或時には自暴的な意気地
のない泣言や愚痴を云つて居るかと思へば、或時には其愚
痴な意志薄弱な自己を居丈高に主張する事もある。是畢竟
近世思想が現実的と云ふ事を超現実的な中世に反抗して主
張し来つた結果である」。こうして今も反抗の精神(自己
拡充の精神)と現実的精神(現実的科学的従つて平凡且フ
エータリスティツクな思想)が離れられないのは、「共同の
怨敵」すなわち「オーソリテイ」を前にしているからであ
る。青年の前に立ちふさがる「オーソリテイ」とは「早く
も十七世紀に於てレビアタンに比せられた国家である、社会
である」そしてもうひとつ「家族」である。
 「国家」について切実な思索をめぐらしてきた啄木はこ
れに鋭く応じた。

2020年5月 9日 (土)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その120

 21日ころ(?)「知己の娘」を執筆。
(「ムラサキ」九月号に載る)
 22日、23日東京朝日新聞に魚住折蘆「自己主張の思想と
しての自然主義(上)(下)」が載る。「女郎買の歌」への
反論の意も読み取った啄木は、これを奇貨としたのであろう。 
 数日後(おそらく8月29日に)「時代閉塞の現状」を書き
はじめる。
 8月29日、韓国併合詔書が官報号外で公布された。啄木は
1903年(明36)2月末の敗残の帰郷以来、弱い者・虐げられ
た者に対して強烈な同情を寄せる人間となっている。その
同情は、亡国のポーランドと植民地下インド人民への、近くは
第二次日韓協約後の韓国民への同情として表明されていたの
だった。啄木が韓国併合に非常に心を痛めたことは数首の歌
で表現される(後述)。
 さて「時代閉塞の現状」を読んで行こう。
 折蘆文の(上)は次のような内容である。
 桑木厳翼が「新仏教」7月号で述べたように、10年ほど前に
高山樗牛が唱えた「本能主義、ニイチエー主義」ついで綱島
梁川によって引き起こされた「宗教的自覚」そしてここ5年
来の「自然主義唱道」は「何れも自己拡充の精神の発現」で
ある。そしてこうした「自己拡充の精神」の主たる担い手は
青年であった。

2020年5月 8日 (金)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その119

 8月7日にもどろう。東京毎日に「紙上の塵(文壇の人
気沈滞の事)」。朝日に短歌5首。「紙上の塵」には権力
批判が読みとれる。「文壇の人気沈滞」は発禁また発禁に
よって生じたのである。抑圧によって「周囲が静かになる
のもいい。考え事ができるじゃないか。たとえば「ナシヨ
ナル・ライフ」について考えるのはどうか、という。「ナシ
ヨナル・ライフ(国民生活)」は幸德事件の暗喩である。
短歌にはつぎの一首もある。「赤紙の表紙」の「国禁の書」
は秋水の『平民主義』を表象している。
 赤紙の表紙手擦れし国禁の書(ふみ)読みふけり夏の夜を寝ず
 8日2日2首。
 11日東京朝日に5首。うち1首。
 霧深き好摩の原の停車場の朝の虫こそすずろなりけれ
 14日東京毎日新聞に「紙上の塵(日本人の性格の事)」。
朝日に短歌5首。「日本人の性格」が「平民」をはじめとして
今変わろうとしている、という。「我等の一団と彼」で「時
代の推移」云々と彦太郎にしゃべらせていたことが照応する。
「所謂今度の事」で言えなかったことの一部を薄めてでも
言おうとする。短歌のうち1首。
 その昔小学校の柾屋根に我が投げし鞠いかにかなりけむ
 15日東京朝日に5首。うち1首。
 新しき背広など着て旅をせむしかく今年も思ひ過ごせる
 16日また5首。うち1首。
 ダイナモの重き唸りの心地よさよあはれこの如く物を言はまし

2020年5月 7日 (木)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その118

 「淫靡な歌」はまず当の「女郎買の歌」そして発禁になっ
たという近藤元の第一歌集『驕楽』(10年3月刊) などが
念頭にあると思われる。「絶望的な疲労を描いた小説」に
ついては(短歌の場合も同様だが)、桑木→魚住の文脈か
ら推すと、青年作家であること・その作品は自暴的頽廃的
憂鬱的……であること・またそれが発禁処分を受けている
こと、等の条件を備えなくてはならない。これを勘案する
と水野葉舟とその作品『おみよ』あたりが浮かんでくる。
水野は10年2月「旅舎」(「中央公論」)で発禁、6月『お
みよ』(光華書房)で発禁、「陰」(「中学世界」臨時増刊)
でも発禁の処分を受けている。
 今は小説の方は措く。折蘆は啄木のきびしい近藤元批判
に反発して、これを擁護し、あろうことか「女郎買の歌」に
自己拡充の結果」を見、さらに「オーソリテイ(自然主
義作品に発禁処分を繰り返す国家)に戦ひを挑んで居る青
年の血気」を見ているのである。
 「次の時代と云ふものに就いての科学的、組織的考察の
自由を奪はれてゐる日本の社会に於ては斯ういふ自滅的、
頽唐的なる不健全なる傾向が日一日若い人達の心を侵蝕し
つゝあるといふ事」つまり時代閉塞の現状を告発した啄木
に対して、折蘆はなんというとんちんかんな反発をしたこ
とか。
 折蘆文は一部の人たちの言うような卓論ではない。

 

2020年5月 6日 (水)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その117

 折蘆の一高時代に若い哲学の教師がいた。桑木厳翼とい
い、折蘆の一高卒業の年に教授として京都帝国大学に赴任
した。その桑木が「新仏教」の1910年7月号に過去10年間
の思想界を振り返る短い文章を書いた。これに触発されて
思うところのあった折蘆は啄木の8月6日の「女郎買の歌」
に刺激され9日には「自己主張の思想としての自然主義(上)
(下)」を書き上げて、東京朝日新聞に寄稿した。
 1910年8月22日、23日東京朝日新聞に魚住折蘆「自己主
張の思想としての自然主義(上)(下)」が載る。
 この評論は読みにくい文章である。1910年当時の自然主義
のしかも青年文学者のどのような作品に「自己主張の思想」
それも「オーソリテイ」 への反抗が表れているというのか、
分からないのである(現実にはそんな作品は無かったのだから)。
 しかし「女郎買の歌」を媒介にすると、折蘆の浅薄な言い
分が見えてくる。同論(下)の結論部分を引用しよう。
 淫靡な歌や、絶望的な疲労を描いた小説を生み出した社
会は結構な社会でないに違ひない。けれども此の歌此小説
によつて自己拡充の結果を発表し、或は反発的にオーソリ
テイに戦ひを挑んで居る青年の血気は自分の深く頼母(たのも)
しとする処である。(八月九日)

2020年5月 5日 (火)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その116

(承前)

……同じ雑誌を読んでゐて記者は驚いて了つた、六十八、
九頁に『黄と赤と青の影画(えいぐわ)』と題して三十四首
の短歌が載つてゐる、作者は近藤元
 潮なりの満ちし遊廓(くるわ)にかろがろと
         われ投げ入れしゴム輪の車
 潮なりにいたくおびゆる神経をしづめかねつゝ女をば待つ                 
 新内の遠く流してゆきしあと涙ながして女をおこす 
といふやうな歌がある、潮鳴りの満ちし遊廓といふと先づ
洲崎(すざき)あたりだらう、洲崎! 洲崎! 実にこの歌
は洲崎遊廓へ女郎買ひに行つた歌だつたのだ。  
 寝入りたる女の身をば今一度思へば夏の夜は白みけり
といふのがある
 やはらかきこの心持明け方を女にそむき一しきり寝る
といふのがある、若し夫れ
 空黄色にぽうつと燃ゆる翌朝のたゆき瞼をとぢてたゝずむ
に至つては何(ど)うだ。聞く所によると作者近藤元といふ
歌人はまだ下宿住ひをしてゐる廿一二の少年なさうだ、
さうして同じ雑誌には又この人の第二歌集『凡ての呼吸』の
予告が出てゐる、其広告文の中に次のやうな一節がある。     

 狂ほへる酒に夢みる情緒と、あたゝかき抱擁に微睡(まど)
 む官能とは、時来(きた)るや突如として眼覚め、振蕩(しんたう)
 して微妙なる音楽を節奏し、閃めき来つて恍惚たる絵画を点
 綴す。著者は糜爛せる文明が生める不幸児なり。本書は現実
 に浮かび出でんと藻掻きながらも底深くいや沈みゆく著者の
 苦しき呼吸なり、凡ての呼吸なり。
 最も新しき短歌を知らんと欲する人々にこの集を薦む。

糜爛(びらん)せる文明の不幸児! 最も新らしき短歌!
プウ!『現代人の疲労』といふべらんめえ君の一文を読ん
だ人は此処に最もよい例を見出したであらう、記者はたヽ
記者の驚きを読者に伝へるまでヾある、次の時代と云ふも
のに就いての科学的、組織的考察の自由を奪はれてゐる日
本の社会に於ては斯(か)ういふ自滅的、頽唐的なる不健全
な傾向が日一日若い人達の心を侵蝕しつヽあるといふ事を
指摘したまでヾある。(△△△
 
 この記事はかなりの反響を呼んだらしい 。記事に反応し
た一人に東大の哲学科を出た青年論客がいた。魚住折蘆で
ある。

2020年5月 4日 (月)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その115

 7月26日夜啄木は10首の秀歌を書きつけ、翌27日朝さらに
5首詠んだ。
 28日東京朝日にそのうちの5首が載る(5月26日以来である)。
うち3首。
故もなく海が見たくて海に来ぬ心傷みて堪へがたき日に
忘られぬ顔なりしかな今日街に
           捕吏(ほり)曳かれて笑(ゑ)める男は
人ありて電車の中に唾(つば)吐きぬそれにも心傷まむとしき

 8月3日東京朝日に土岐哀果の歌集「NAKHWARAI」評を書く。
 4日東京毎日新聞に随想「紙上の塵(芝居道近頃の景気の 
事)」を書く。東京朝日に短歌5首。うち2首。
はたらけど働けど猶我が生活(くらし)楽にならざりぢつと手を見る
耳掻けばいと心地よし耳を掻くクロポトキンの書(ふみ)を読みつゝ
 8月3日夜14日夜24首がノートに追加される。そして末尾に
以下仕事の後に採録せず」のメモがある。この二晩かけて歌
集「仕事の後」の第二次編集をおこなったのである。

  「女郎買の歌」と魚住折蘆 
 8月6日啄木の「女郎買の歌」が東京朝日新聞に載った 。
 近藤元という歌人が「創作」1910年8月号に載せた「黄と赤
と青の影画(えいぐわ)」と題する女郎買いの歌を痛烈に批判し
たものである。
 後半を引いておこう。

2020年5月 3日 (日)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その114

 啄木が(五)の途中までの原稿(18字×10行・38枚)を
楚人冠に見せ、弓削田精一に提出したのは7月26日以前の
ことと考えられる(当時佐藤真一編集長は外遊中で7月31日
午後2時半に神戸上陸)。啄木起稿が前述のように16日ころ
だとすると啄木の評論執筆は非常にはやいから21日過ぎ26日
以前に書き上げていたであろう。 弓削田はこの原稿を非
常に高く買ったが、掲載は不可能と判断した。(しかし弓
削田はこれを1937年〈昭12〉68歳で没する直前まで
筐底深く秘し、死の直前にいつか世に出ること願って知人
に託した)。そして26日に掲載不能を啄木に告げたのだと
思われる。その日をなぜ26日と推定するのか。この夜突然
啄木が作歌を再開したからである。啄木は思想上または行
動上の行き詰まりを感ずると歌を作り始める、というはっき
りした性向を持つ。苦心の企てを権力の言論統制の壁には
ばまれ、作歌に向かったという構図である。以後啄木の文
学活動は歌を中心にふたたび展開して行く。
 「所謂今度の事」は弓削田の筐底に秘蔵されたが、この
文章の威力は平出修の力となって発現することになる。
 修との会談で啄木は「所謂今度の事」の内容を話して聞
かせたと推定されるのである。修の幸德事件公判廷におけ
る弁論をなみいる大物弁護士の弁論をこえて、卓越せしめ
たのは「思想変遷論」であった(後述)。
 あとで見るように「思想変遷論」の骨子は「所謂今度の事」
の論旨とあまりに符合する。修は崎久保誓一の弁護を承諾
する(8月3日以前)が、承諾前すでに貴重な知識を啄木
から受け取っていたのかもしれない。

2020年5月 2日 (土)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その113

(四)無政府主義の理念を紹介するのである。まず無政府
主義は「集産的」「個人的」「共産的」無政府主義に類別
できることにふれ、ついでどの無政府主義も「其理論に於
ては」「殆んど何等の危険な要素を含んでゐない」のだと
言う。無政府主義者の「或者にあつては、無政府主義とい
ふのは詰り、凡ての人間が私慾を絶滅して完全なる個人に
まで発達した状態に対する、熱烈なる憧憬に過ぎない。又
或者にあつては、相互扶助の感情の円満なる発現を遂げる
状態を呼んで無政府の状態と言つてるに過ぎない」。この
理想は「洋の東西、時の古今」を問わず一致するものであ
ろう。ただ実現の方法において「一般教育者及び倫理学者
個人主義者」「社会主義者」「無政府主義者」は意見を異
にする。無政府主義者は「最も性急(せつかち)なる理想家」で
ある。そこで彼らは「無謀の挙」に出ることがある。
(五)無政府主義の理論は民族的、国民的性格を有する。
たとえば、ドイツのスチルネルのそれは哲学的個人主義的で、
フランスのプルウドンのそれは鋭敏な直感的傾向を有して
時に感情に走ろうとし、ロシアのクロポトキンのそれは道
義的(モオラル)な色彩を有する、という風に(と言って代表
的な思想家の紹介もいっしょにやっている)。
 無政府主義が「其実行的方面」においていかなる出方を
するかは「其国の政治的、社会的状態」と関係する、と述
べたところで筆は止まる。このあとつづけて日本の無政府
主義者が「今度の事」(=幸徳事件)のような出方をしたのは
(日本という)「国の政治的、社会的状態」と関係していると
いうことを説き、韜晦しつつも強権を告発しようとしたの
であろう。このテーマこそ「時代閉塞の現状」で展開される。

 

2020年5月 1日 (金)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その112

 (三)つづいて幸徳事件そのものに移る。事件について
自分は新聞で報道されたこと以外は何も知らないと言う。
(一)で見たように天皇暗殺の隠謀だったことを知ってい
るのだから、韜晦である。彼等をつかまえてくれた警察に
感謝すると言う。警察の大手柄だったと持ち上げる。
 「然しながら」で攻勢に転じる。平民社の旗揚げ以来の
過去数年間」「日本政府」とその警察機関は彼等をあまりに
圧迫しすぎた。「時には其生活の方法にまで冷酷なる制限と
迫害とを加へた」と言う。「冷酷なる」の一句には権力へ
の批判と被告らへの同情がはしなくも表れている。どんな
に迫害しても「彼等の一人と雖も其主義を捨てた者は無か
つた」「却つて……遂に今度の様な凶暴なる計画を企て、それ
を半ばまで遂行するに至つた」。この節冒頭では自分は事
件の核心については何も知らないと言っておきながらここ
では「凶暴なる計画」云々という。これは事件の核心を知
っていると漏らしているに等しい。筆者にとって危険な箇
所である。
 つぎの結びの文章がこの章の眼目である。「今度の事件は、
一面警察の成功で有ると共に、又一面、警察乃至法律とい
ふ様なものゝ力は、如何に人間の思想的行為に対(むか)つて
無能なもので有るかを語つてゐるでは無いか。政府並に世
の識者の先づ第一に考へねばならぬ問題は、蓋し此処に有
るであらう。」権力への批判であり、警告であり、これから
自分が思想について語ることへの予防線でもある。しかし
筆者はもう十分危険な事を書いている。しかしもっとも言
いたいことは(五)で述べるのである。その前に(三)より
もはるかに危険なことを(四)で語ろうとする。

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