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2020年6月

2020年6月29日 (月)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その165

 この記憶を参考にすると、東雲堂に「一握の砂」の完成
原稿を届けたのは16日(日)の午前または昼ということに
なる。東雲堂は東京朝日新聞社に近い。通勤途中において
行ける。啄木は13日夜に作った歌20首を『一握の砂』の3
つの章に編み込んでいる。13日夜はまだ清書の段階ではな
いであろう。「原稿の控へ」の作成と原稿の清書に14日、15
日の2日は当然要るであろう。どんなにはやく想定しても
15日である。15日ないし16日の線は別の根拠による藤沢全
の推定とも一致する 。わたくしは丸谷の言があるのでまた
13日夜以後に要するであろう時間のことも勘案して、16日
をその日と推定する。
 この時の原稿の内容は吉野章三あて書簡(10月22日)に
よってわかる。
 『一握の砂』と題して来月上旬東雲堂より発刊致すべく、
一首を三行に書くといふ小生一流のやり方にて(現在の歌
の調子を破るため)歌数五百四十三首(三分の二は今年に
入りての作)頁数は二百八十六頁にて恰も『あこがれ』と
同じになり候も一奇と申さば申すべきか……
   ……目次は次の如し
    我を愛する歌
    煙(一及二)(これは故郷と少年時代の回顧)
    秋風の心よさに(一昨年の秋の紀念)
    忘れがたき人々(一は函館より釧路まで、
              二は智恵子を思ふ歌)
     手套を脱ぐ時(これは右以外のうた)
……新詩社趣味の歌は一切捨てゝしまひ候、呵呵、
猶来月の雑誌『創作』に「一利己主義者と友人との対話」 
といふ奇妙なものを書き……  
歌集の内容は、真一挽歌追加関連の件を捨象すると基本的に完成している、ととらえてよいだろう。

2020年6月27日 (土)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その164

 私はどんなに驚きの眼を瞠(みは)りながらこれらの歌を聞
いたことか。啄木も読んで行くうちにだんだん興に乗つた
のであらう、たうとう『一握の砂』の殆んど全部を朗読して
しまつた。
 啄木の朗読は何らの節もつけぬ、淡々たるもので、もと
より謂ゆる『朗詠』ではない。だが爽かな声、明晰な発音(僅
かに東北の色調を帯びてゐる)適度の――必要にして十分な
だけの――抑揚ある読み方は全く彼の歌と其の内容とにふ
さはしいものであつた。それでよい、いや其れがよいのだと、
私は今でも思つてゐる。 
 丸谷の約45年後の記憶である。当然記憶ちがいがある。
たとえば丸谷がはじめて弓町の啄木宅を訪ねたのは1910年
4月12日であって、「十月初旬」ではない。今回の訪問も
十月初旬」ではなく10月「十六日晩」である。このよ
うな脈絡での時間に関する記憶は変容しやすい。その他の
点でも細部にはいろいろ記憶ちがいがあろう。しかしその
日が「ちやうど啄木が『一握の砂』の原稿を東雲堂に渡し
たといふ日であ」ったこと、それゆえ啄木が「別に原稿の
控へをもつてゐた」こと、「其の原稿は」これこれの特徴を
もっていたこと、それを啄木がこれこれのようすで朗読し
たこと、という記憶は記憶内容が相互に補強しあう関係に
あるのでかなり正確に事実を伝えていると思われる。

2020年6月26日 (金)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その163

 編集・清書が完了したのは15日か16日午前である。
そして東雲堂にその「一握の砂」完成原稿が手渡されたの
は16日の午前または昼であろう。根拠は以下のとおり。
丸谷喜市に「回想の啄木―著者みづからの『一握の砂』の
朗読―」という文章がある 。
 啄木といへば、東京、本郷弓町の喜之床の二階を思ひ出
す。殊に彼が居間、兼書斎、兼応接間として用ひてゐた八
畳の間を思ひ出す。……
 私が同郷の友人の並木君に案内されて初対面ではない
が初めてそこを訪ねたのは、明治四十三年十月初旬、ちや
うど啄木が『一握の砂』の原稿を東雲堂に渡したといふ日
であつた。啄木は別に原稿の控へをもつてゐた。並木君が
手に取らうとすると、『おつと其れは僕でなければ読めない、
かう云ふ歌だ』と言つて啄木が読み始める。と云ふのは、
其の原稿は、『東海の』とか、『頬につたふ』とか、『ふる
さとのそら遠みかも』とか言つたふうに、一首一首の歌の、
はじめの五字ないし、五、七字を走り書きしたメモに外な
らなかつたからである。
 ほかげなき室に我あり父と母かべのなかより杖つきて出づ
 たはむれに母を背負ひてそのあまり軽きに泣きて三歩あゆまず
 よる寝ても口笛ふきぬ口笛は十五の我の歌にしありけり
 はな散れば先づ人さきに白の服着ていへ出づる我にてありしか
 盛岡の中学校のバルコンのてすりにも一度われを倚らしめ
 そのむかし小学校の柾屋根に我が投げし鞠いかにかなりけむ
 石をもて追はるるごとくふるさとを出でしかなしみ消ゆる時なし
 やはらかに柳あをめる北上の岸べ目に見ゆ泣けとごとくに

2020年6月25日 (木)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その162

 こうして「煙」という章は「忘れがたき人人」のあとに
構想され、その歌々もあとに作られたという事情が見えて
くる。この時にも日記が創作の源泉となったであろう。日
記文学の傑作として名高いかれの日記は『一握の砂』の源
泉の一つとしてあらためて考量されるべきであろう。
 さて「煙」の構想がふくらみそれを実現しているうちに
別系統の歌々も大量に湧いてきたらしい。11日の休日は
約束の清書の日ではなく創作と再再編集の日になっていった
のだと思われる。そうして10月10日~13日夜の間に五章
仕立ては確定し、「我を愛する歌」に55首を「秋風のここ
ろよさに」に2首を「手套を脱ぐ時」に20首(10月4日~
13日 夜の作)を創作しかつ編集・割付した。「忘れがた
き人人」の橘智恵子相聞歌をその「二」として独立させる
ことを構想したのもこの時である。11首を作り22首とした。
「忘れがたき人人」はあわせて133首であるから、約30首
が補充され そして編集されたことになる。

2020年6月24日 (水)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その161

 この段階でこんどできる「一握の砂」は五(?)章仕立て、
歌数四百余首の内容であることが窺える。さらに「体裁は
四六版背角にて表紙の色及び紙質は土岐氏の“Nakiwarai”
と同じにしたし」と指定、さらに「表紙に赤及び黒二色刷
の画(書名入)を一枚貼りつけたく」その画家には名取春
仙(僊)がよい、とまで指定している。
 翌10日午前、啄木は郁雨あての手紙で「(この歌集を)
真一の生れた日(10月4日)二十円で東雲堂に売つた、今
原稿書替中、来月中頃までに出る」と報じている。さらに
北海回顧の歌(百余首)は『忘れがたき人々』といふ題
で一まとめにして入れる」という。
 ここは注目に値する。第三次「仕事の後」のなかにある
歌でのちに「忘れがたき人人」(一、二)に収められる歌
は計29首であるが、10月10日の段階ではそれが「百余首」に
なっている。 仮にこれを105首とすると、
105首-29首≒76首(七五首前後)で、この数字は「新たに
七八十首を加へ候」(前掲書簡)の「七八十首」にほぼ相
等しい。つまり10月の4日から10日までの間に創り出した
歌はほとんどすべてが「忘れがたき人人 一」に収められる
歌だったということになる 。しかも前述のごとく章立ての
なされている事も分かる。啄木はおそらく北海道時代の日
記などを繰りながら回想歌を作っていったのであるとおも
われる。とすれば、つぎにおのずから渋民村思郷・回想歌、
盛岡時代の回想歌を大補強しようと考えたにちがいない。
10月4日段階ではのちに「煙 一」に入ることになる歌はま
だ9首、「」のそれは13首しかない。あと79首が10日以後
に作られるであろう。「煙」の歌は計101首なのだから。
その過程で「煙」は一(盛岡中学校時代の回想歌群)と二
(渋民村懐郷・回想の歌群)の二節に分けられることになる。

2020年6月23日 (火)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その160

 「先日」は10月4日。原稿(第三次「仕事の後」 )を東雲
堂に持ち込んで契約が成立。20円で売り渡したのである。
その半金をうけとって来たことも分かる。売り渡した原稿
は改良するために持ち帰った。そして書名を「一握の砂」に
変更することにした。「目下原稿整理中」が問題である。
これをめぐる記述から持ち込んだ第三次「仕事の後」の大き
さなどが推定されうる。
 まず9日午前には形をなしたらしい新原稿(第一次「
握の砂」)を考えよう。「一首三行一頁二首」というから12月
刊の『一握の砂』と同じスタイルである。
 「頁数は二百二十頁位」というから2首×220(ページ)
=440首。すでに「百余首」からなる「忘れがたき人々」の
章ができているから(後述)、章立てがなされていること
はたしかである。ここでは五章仕立て、五章とも節はない
と仮定しよう。『一握の砂』では各章の扉に1ページ、そ
の裏に1ページあてている(すなわち白のまま)。同じス
タイルと考えると五章分で計10ページに歌は刷られていな
いことになる。また『一握の砂』では各章の最後のページ
は2首ではなく1首である。2首×5(章)×2(ページ)=
20首および1首×5(ページ)=5首の計25首を440首から
引いた数、約415首が第一次「一握の砂」の歌数となる。
 この数は「お目にかけし原稿より三四十首けづり新たに
七八十首を加へ」たものだった。ふえた分を約40首と考え
ると「お目にかけし原稿」のすなわち第三次「仕事の後」の
歌数は375首前後となる。あまりはずれていない数値であろう。

2020年6月22日 (月)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その159

 10月1日「九月の夜の不平」34首掲載の「創作」10月号刊。
 1910年4月11日に歌集「仕事の後」の編集(第1次)を終え、
8月3-4日にあたらしい「仕事の後」(第2次)の編集を
終えたことには先ほどふれた。
 ここでは東雲堂との問に出版契約が成立した10月4日以後
の過程を考察の対象とする。西村辰五郎あて10月9日付け書
簡の分析から始めよう。辰五郎は東雲堂書店の若い経営者
(当時18歳)で、翌年から西村陽吉を名のることになる。
 先日は失礼、お蔭にて男子安産、乍他事御休神被下度候
 書名は『一握(イチアク)の砂(スナ)』とする事にいたし候、
目下原稿整理中、お目にかけし原稿より三四十首けづり新
たに七八十首を加へ候、頁数は二百二十頁位、但し一首三
行一頁二首に候、心ありての試みに御座候、原稿は明後十
一日の休みに全部清書してお渡し致すべく候、
 体裁は四六版背角にて表紙の色及び紙質は土岐氏の
“Nakiwarai”と同じにしたしと存候、そして表紙に赤及び
黒二色刷の画(書名入)を一枚貼りつけたく候が、それは
名取君にたのみたく、それに対し多少のお礼出して頂ける
や否や、至急御返事被下度候、中の紙はやはり「泣き笑ひ」
と同じにしたけれど、これは君の方の御都合もあらん、製
本は二十部頂きたし、それから原稿引きかへに頂くはずの
残りの金、明日産婦病院よりかへる筈にて入用につき、恐
れ入り候へども、今日午後四時半までに社まで小僧さんに
お届け被下間敷や、この件、情状酌量何卒お聞届け被下度
願上候、以上、
  九日午前十一時  本郷弓町二の十八  石川啄木

2020年6月21日 (日)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その158

 

9月26日節子は函館の宮崎ふき子に久しぶりの手紙を書く。
下の妹たか子からふき子が出産間近と聞いて書いたもので
ある。抄出する。 
  ……私も十月はじめには子供が二人になるのでせわしい事
だらうと今からいやな心地がしますよ。……あなたはもう赤
ちやんのお召や何かが皆お出来になつたんでせうが、私等は
まだ何も用意してありません、……二階ではし方ありません
から大学病院に行つて生むつもりで居ります、はじめ京子の
時のやうではなく兎角健康がすぐれないのでこまりました。
……ふきさん、すまない事ですが、何でもいゝから平常(ふだん)
(ぎ)の綿入一枚送つてくれませんか。それから病院に行く
に帯がなくてこまります。片かは外(ほか)からもらつたのが
ありますから、どうか片皮につけるものがあつたらおめぐみ
下さい。可愛相な姉さんの為にねー。…… 
啄木一家の夫婦関係、経済事情(引用はしていないが改善の
兆しの無い嫁姑関係)等が垣間見える。
 10月1日「九月の夜の不平」34首掲載の「創作」10月号刊。

 

 

2020年6月20日 (土)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その157

 9月15日(木)「朝日歌壇 啄木選」がはじまる。24歳の
若き選者の歌壇欄はまもなくたいへんな活況を呈するように
なる。9月15日以後の16日間で「朝日歌壇」が載った日は12回
もある。時代が啄木の短歌を求めていたのである。のちにす
こし立ち入って見るが、ここでは岡邦雄(1890~1971)の
一文を挙げておこう。
 ……私は文字通りに野良犬みたいに街を歩いて、図書館に、
雑誌屋の店頭に、或は新聞取次所の掲示板に啄木のにほひを
嗅いで廻つた。新聞の学芸欄の隅つこだらうが、詩歌同人雑
誌(例へば若山牧水主宰の『創作』)だらうが、啄木の歌なら
一首ものがさず嗅ぎ当てゝ舌なめずりをした。歌はもとより
独創的であつた。だがあのやうな独自な歌の歌ひ方をした啄
木は、自分と同じ貧乏暮らしだつたのである。それが自分の
魂を完全に掴んだのだ。最初の歌集『一握の砂』が名取春仙
の見事な装幀で街に出たときの興奮は未だに忘れ難い。

2020年6月19日 (金)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その156

 こうしてこの歌もまた韓国併合批判の歌である。改作では
あるが、表現上の変更は大きい。これも先の4首に加えて第
5首目と考えてよいであろう。
 整理すると。
 1910年(明43)九月九日夜につくったのが5首である(B1,
B2,B4,B5,B13)。
 この5首のうちから「創作」に載せたのは4首(B1,B2,B4,B13)。
 『一握の砂』に収めたのはB4を元にした新作1首とB13(と
もに三行書き)。
 こうして石川啄木の韓国併合批判の歌は「九月九日夜」の
五首と『一握の砂』の新作一首の合計六首あったことになる。
 また韓国併合に誰も抗議の声をあげない(ごく少数のみが
あげえない)当時の日本にあって、ひとり啄木のみが歌に拠
って抗議し、さらにそれらを「創作」と『一握の砂』二つの
出版物に5首も遺して不滅の抗議をなしたのである。とくに
名歌「地図の上朝鮮国に」の歌を活字にして発表させたのは
「創作」の主宰者若山牧水の不滅の功績である。

2020年6月17日 (水)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その155

 Bの歌だけが5箇所に散らされている。わたくしが韓国
併合批判の歌と認定したものでここに入ったのは太字の4
首(B13、B4、B1、B2)である。
 B歌群のみなぜ散らしたか。韓国併合批判の歌を雑誌に
載せること自体が天皇の決断(詔書)を批判するきわめて
危険な行為なので、歌意を強権に嗅ぎ取られてはならない
からであろう(あまりに危険なB5「秋風の来るごとくに来
りたる我の疑惑は人ししらなく」は雑誌掲載を断念した)。
 こう理解するとこの配列もまたBが韓国併合批判を含む
歌群であったことの傍証となる。
 では誰が見ても併合批判の歌とみなすであろうB1をなぜ
入れたのか。啄木はこの歌を入れない限り、自分の韓国併
合批判は伝わらないと判断したからであろう。そこで巧妙
きわまりない策を用いた。つぎの2首を並べたのである。
 地図の上朝鮮国にくろぐろと墨をぬりつゝ秋風を聴く
                 (歌稿ではB1)
 誰そ我にピストルにても撃てよかし
           伊藤の如く死にて見せなむ 
                 (歌稿ではA7
 韓国併合を事実上強力に推し進めた伊藤の死を賛美する
かのようにも読めるA7を配置することによって、B1の韓
国併合批判を韜晦(とうかい)したのである。
 そのためにB1の歌の真意もこの100年近く十全には理会
されなかった。
 こうして「創作」10月号「九月の夜の不平」の分析もま
たわたくしの一連の考証の有力な傍証となる

2020年6月16日 (火)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その154

 2つ目の赤インク歌群は
 その昔秀才の名の高かりし友牢にあり秋の風吹く  C1
ではじまる。
 全9首は最初の赤インク歌群と同様「生活詩」群なので
解釈は省く。
 実務にはやくにたゝざるうた人と我見る人に金かりにけり C9
でこの歌群は終わる。
 そしてふたたび黒インクをペンにつける。2つ目の黒イ
ンク歌群である。
 今おもへばげに彼もまた秋水の一味なりしと思ふふしもあり D1
 当時としては物騒きわまる2文字が出て来た。「秋水」
である。
 D2、D4、D5、D6も合わせ読むと、2つ目の黒インク歌群
のテーマは「幸德事件と時代閉塞」である。
 ここまで分析してくることによって逆に1つ目の黒イン
ク歌群のテーマが「韓国併合と時代閉塞」であったことが
改めて確認される。そしてわたくしが新しく選び出した4
首が韓国併合批判の歌であることも。(「地図の上」の歌
と合わせると計5首である。)
 
 「創作」10月号の「九月の夜の不平」を見よう。
 啄木は九月九日夜の歌稿39首から28首を抜き、別に
作ってあった6首を組みこんで34首とし「創作」10月
号に寄稿した。(別の6首は*1~*6の記号で表す。)
「九月の夜の不平」の34首を順番に記号でならべよう
太字は韓国併合批判の歌々)。
 B16・B13・B14・B16・B17・C1・C2・C3・C4・
C5・C6・C7・C9・B10・B6・*1・*2・*3・B3・
B4・D2・D1・D3・D4・D5・D6・*4・*5・*6・
B1A7・A3・A6B2
 ご覧のとおり歌群から取られた8首は歌群での順番ど
おりにしかもまとめて並べられている。D歌群からの6首
も1と2の順番を入れ替えただけでまとめて並べられてい
る。歌群からは3首が7-3-6の順で、しかしまとめ
て並べられている。

2020年6月14日 (日)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その153

 ところで、「東海の小島の磯の」と言えば「東海」は西
側から見て東にある海である。しかしこの歌の場合は「
海のその片隅に」であるから東側から見ている。したがって
その片隅」は「大海(太平洋)」の西の片隅ということに
なる。そこに大陸に寄り添うように「つらなれる島々」が
日本列島である。当時の日本列島の概念には千島列島、琉
球列島が当然含まれる。
 日本列島をこの歌のように表現する時、日本という国は
ちっぽけで頼りなげなイメージを帯びてくる。
 ところが地図は、そのちっぽけな日本が日清戦争で台湾
を、日露戦争で南樺太を、そしてつい先日隣国を併呑したば
かりであることを、黒々と示している。
 その日本の「島々の上に」「明治四十三年の秋」(第二首
目)の風が吹きわたる、という。
 こうしてこの歌は、内には時代閉塞の現状をもたらし外
では韓国併合を強行した極東の小帝国を批判する歌なので
ある。
 <解釈>太平洋の西の片隅に大陸に寄り添うように列な
る島々。島々を支配している大日本帝国は、台湾・南樺太
を植民地にしつい先日には韓国を併合した。この極東の小
帝国の上に「明治四十三年」秋の風が吹きわたる。
 こうして最初の黒インク歌群はテーマをもって詠まれた
歌群であることが明らかとなった。テーマは「韓国併合と
時代閉塞の現状」である。

2020年6月13日 (土)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その152

 そして8月30日の国民新聞第一面真ん中の写真と記事は
(啄木がこれらを見ていたのは確実である)、「強権」の頂
点としての天皇が視覚的に露わである。生後まもなくから
天皇への絶対的な信仰を植え付けられて育ち 、最近に至った
啄木だが、六月以来の彼には充分に衝撃的なイメージであっ
たとおもわれる。この写真によって掲出歌ができたと言お
うとするのではないが、作歌に至る啄木の思索の流れの中
にこの写真も置いてよいであろう。
 「時代閉塞の現状」執筆にあたって人先に懐いた「疑惑」、
他人に言えない「疑惑」、それは天皇という神格に対する
「疑惑」に外なるまい。
 〈解釈〉これまで自分は天皇を尊崇してきたが、時代閉
塞の現状と幸徳事件と韓国併合とをもたらした強権の頂点
にあるのは、山県有朋や桂太郎ではなくてこの人自身では
ないのか。秋風のようにいつのまにかわたしの中に生じた
疑惑を人は知らない。
 これで新たに加わった韓国併合批判の歌は3首になった。
 Bの第13首目。
 大海のその片隅につらなれる島々の上に秋の風吹く B13
 啄木は明らかに「大海」と「島々」を俯瞰している。当時
この歌のように高いところから見下ろすいかなる技術もなか
った。したがって歌のようなイメージは地図に拠ってしか創
り出しえなかった。そしてその地図こそ先に見た「大日本帝
国の全版図」であろう。地図に戻って参照されたい。

<今回も図像が無くてすみません。近いうちに時間を

見つけて挿入を試みるつもりです>

 

 

2020年6月11日 (木)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その151

 この黒インクグループの歌を作っている啄木は8月30日
の東京朝日新聞を必要に応じて参照していたと考えると「
図の上朝鮮国」の歌もこの歌も、そしてこれから論ずるいく
つかの歌も大変理解しやすい。
 この歌が韓国併合批判の歌であること、まちがいない。
 〈解釈〉植民地地獄に落とされた韓国千数百万人の悲嘆
悲痛を思う気持ちなど微塵もない、ただ奪いまくり掠(かす)
めまくることしか考えていない顔のさもしい日本人、その
日本人の首府(天皇の住む都市)の大空を朝鮮半島でも吹
いているであろう秋風が吹く。
 B5の歌に行こう。
 秋風の来るごとくに来りたる我の疑惑は人ししらなく  B5
 この歌の「疑惑」は「明治四十三(しじふさん)年の秋」に、
秋風とともに、自分の心にやって来たのである。啄木はど
こからともなく吹いてくる秋風を「まづいち早く」知る人
だった(秋の声まづいち早く耳に入る/かかる性持つ/か
なしむべかり)。ここでは一体何を知ったのか。「人ししら
なく」は「人は誰一人知らないことだ」の意。人が知らな
いのは啄木が軽々しく口にできない事柄なのであろう。
 「詔書」の形式と「御名御璽」によって強行された韓国
併合は「天皇の論理」を露骨に示した事件であった。

2020年6月10日 (水)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その150

 つぎに30日の提灯(ちょうちん)行列を見よう。31日の東京
朝日新聞に記事が載っている。
 (日比谷公園に集合した約2万の群衆は)午後七時半三発
の号砲と共に俄(にわか)に起る音楽、馬鹿囃(ばかばやし)に連れ
て紅白様々の提灯を持つたる幾万の人は吐き出さるゝ如く
正門を繰出した……二列の大行列は……軍歌と万歳を一斉
に唱へながら山下橋より銀座四丁目 に出(いで)たり(以下略) 
 振り返って8月30日東京朝日新聞7面にあるゼム(口中清
涼剤)の広告(ここにコピーできません)を見よ
 このような日本人の顔を思い浮かべて啄木は掲出歌を詠
んだのだとわたくしは推考する。
 「首府」はここでは「元首(天皇)の居住する都市」の
意味である。「顔が卑(さも)しき」日本人、その日本人の元
首の住む東京、とは何と痛烈な批判であることか。
 その「大空を秋の風吹く」というのである。大空の秋風
が日本の首府を俯瞰しつつ吹いている趣がある。先に見た
地図「大日本帝国の全版図」を見ながらうたったとすると
この俯瞰性の説明がつく。

2020年6月 9日 (火)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その149


 第2首目
 明治四十三(しじふさん)年の秋わが心
        ことに真面目になりて悲しも  B2
 「四十三年の秋」は「心がことに真面目にな」っていると
言う。なぜ「ことに真面目(=とりわけ真剣)」になっている
のか。「韓国併合と時代閉塞」二重の悲劇的状況の中で迎
えた秋だからである。
 〈解釈〉明治四三年(1910年)の秋は韓国併合・時代閉
塞という二重の悲劇的状況の中で迎えた。わたしの心はとり
わけ真剣になっているが、情況はいかんともしがたい。切な
いことだ。
 第4首目。
 何となく顔が卑(さも)しき邦人(くにびと)
         首府の大空を秋の風吹く  B4
 ほかならぬ「邦人=日本人」の顔がなぜ「(さも)」く
見えるのか。啄木はつぎの歌を8月7日の東京朝日新聞に
載せている。
邦人の心あまりに明るきを思ふ時我のなどか楽まず
 これは幸德事件に無関心の日本人に対する違和感をうたっ
たものである。したがって今度の歌が逆に幸德事件関係の
歌ではないことの傍証にもなる。
 先の地図と同じ東京朝日新聞8月30日一面トップに下
の広告が載っている。どうだろう、この「(さも)」さは!
地獄に落とされた千数百万人の悲嘆悲痛を思う気持ちなど
微塵もない。ただ奪いまくり掠(かす)めまくることしか考
えていない。

<その146と同じ理由で「広告」を掲載できません>

2020年6月 8日 (月)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その148

 こうして次の歌を作ったのだと思う。
  地図の上朝鮮国に黒々と墨をぬりつつ秋風を聞く B1
 かつてこの歌をわたくしはこう読んだ 。 
 韓国という固有の国、固有の地名、そこに「黒々と墨を
ぬ」るということは国そのものもそれらの地名も抹殺され、
すべて日本の国、日本の地名(たとえ字面は同じであって
も)の一部となってしまうことを悼む象徴的行為である。
弱者への、亡国の人民への篤い同情をもつ啄木は、しかも
見えない事実をもほうふつとして想像できる詩人・啄木は
そこに住む人々の今とこれからの苦しみや悲しみを生なま
しく思い描いたにちがいない。黒い墨の下にぬりこめられ
てあるのは「大日本帝国」の暴圧の下に生じた植民地とい
う地獄である。これを心の目で見つつ啄木は「秋風を聞」い
たのである。
 
〈解釈〉併合された韓国は「大日本帝国の全版図」という
黒刷り地図の一部にされた。その隣には「新版図朝鮮」の
地図がある。亡国の地獄に落とされた人々の怒りと悲しみ
を思い、わたしはその朝鮮「国」の地図に黒々と墨を塗り
ながら、秋風を聞く。

2020年6月 7日 (日)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その147

同盟休校煽動 六日京城特派員発 何者の悪戯にや光化門
局の消印にて各官公立学校生徒に宛て不穏なる檄文を郵送
し大韓国は滅べり汝等日本人の統治に甘んずるが如きは男
子の本分にあらず潔く同盟休校せよと煽動したれば官立師
範学校の生徒等に早くも動揺を来し尚他校生徒にも及ぼさ
んとする形跡有り其筋にては非常警戒を為すと共に師範学
校生徒二十余名を検挙し厳探中なり (以下略)
 1901年(明34)2月、盛岡中学校の四年生と三年生は何人
かの教師の罷免を要求して「ストライキ」をやったのだっ
た。他愛のない抗議集会やある教師の授業をボイコットし
たに過ぎないが、啄木たち中学生は血湧き肉躍る日々を送
った。今「朝鮮」で生徒たちが行っている抗議行動は死を
も賭した行動である。相手は世界屈指の強大な陸海軍を率
いて軍政を布く朝鮮総督府である。学生たちはすでに残酷
な拷問を受けているであろう。
 「朝に四種、夕方に郵便で来る三種の新聞だけは真面目
に読んでゐる。毎日々々同じやうで変つた記事や論説の間
から、時々時代進展の隠微なる消息が針のやうに頭を刺す
と記したのは1年後の1911年8月末のことであるが、啄木
はこのように新聞を読む人である。これらの記事を読み落
とすはずがないし、これらの記事の黒い背景が「針のやう
に頭を刺」してこないはずがない。

2020年6月 5日 (金)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その146

 地図の現物は「新版図朝鮮」がほぼ14.9センチ×8.6
センチ、「大日本帝国の全版図」はほぼ17.7センチ×14.3 
センチ。 以下に推考する啄木の動きにちょうど見合う大きさである。
 おそらく8月29日、右の「大日本帝国の全版図」に黒々と取
り込まれた韓国の地図を見ているうちに啄木はやおら筆を取
り上げた。そして左の「新版図朝鮮」を墨で黒々と塗りつぶし
ていった。一つ一つの地名が塗り込められて行く。韓国は日
本の黒い版図に繰り込まれて行く。
 九月九日夜啄木はこの時の事を思い出した、おそらく「新版
図朝鮮」を塗りつぶした第三面を眺めながら。
 これから連作しようと思う歌々のテーマは「韓国併合と時
代閉塞」。
 歌を作る前のことだが、啄木は九月九日付けの東京朝日新
聞の二面で以下の記事を読み心を揺すぶられたに違いない。

<地図を移動表示できないので、今回は地図を載せません> 

 

2020年6月 4日 (木)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その145

 啄木がA6A7の歌をセットと考えていることは確実であ
る。『一握の砂』においても両歌をセットにしている。『一
握の砂』ではA6 は「何事も金金とわらひ/すこし経て/
またも俄に不平つのり来」と推敲しA7の歌の前に置いてい
る。集中の位置は「我を愛する歌」の最後から三番目と二
番目。最後は「桂首相」の歌である。この歌は強権のトップ
としての桂首相を明確に意識した歌である。
 こうしたことを踏まえてA7の歌を読まれたい。
 誰そ我にピストルにても打てよかし
         伊藤の如く死にて見せなむ   A7
 さて、ここで啄木は突然ペンの赤インクを拭き取った
(あるいはペン先を取り替えた)。そして黒のインクをつ
けた。伊藤博文から韓国併合を連想し、この関係の歌を詠
もうとしたのである。かくてBグループの一七首が詠まれ
ることになる。
 このとき啄木は8月30日の東京朝日新聞を取り出すか、
その第三面を思い浮かべるかした。取り出したとすれば第
三面を開いた。(後掲図版参照)
 そこには2つの地図が載っている。「大日本帝国の全版図」
と「新版図朝鮮」と。「新版図」は「朝鮮」であって「朝鮮国」
ではない。「併合」に際し韓国側は「韓国」の国号を残す
ことを強く要望したが、日本は「国」のイメージの残る
「韓国」を拒否し「国」のつかない「朝鮮」としたのである。
つまり「樺太」「台湾」と同じく「外地」として「大日本帝
国の版図」の一部に繰り入れたのである。

2020年6月 3日 (水)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その144

 手近にはスクラップ用の最近の新聞が積まれていたであ
ろう。それらはのちに「無政府主義者隠謀事件経過及附帯
現象」に用いられるものである。
 どうしてかこの夜啄木はペンに赤インクをつけて「九月
九日夜」とまず記した。赤インクで歌を記したいのである。
この夜の作歌にはなにか特別の動機が潜んでいるらしい。
 以下に推理を交えつつ「九月九日夜」の歌々の核心を探
って行こう。

 最初の二首ではまだ調子がでなかったらしい。一本罫線
を引く。そして「きれぎれに頭に浮んで来る感じを後(あと)
から後からとぎれとぎれに」うたう歌、猪野謙二の言うい
つもの「生活詩」をあらためて作り始める 。
 そしてA6何事も金々といひて笑ひけり不平のかぎりぶ
ちまけし後」に至った時、その基底にある自分の反逆思想
を思ったらしい。この思想を主張して、はては幕末の志士
やロシアの革命家のように国事に奔走するようにでもなれ
ば、わが命だって危ういなどと空想した(空想は啄木の特
技の一つである)。空想は飛躍した。国事に奔走し、暗殺
された伊藤博文へと。そしてA7の歌が成った。
 こうした推理はわたくしの恣意的な空想に基づくかのよ
うに思われよう。しかし六月以来の思想上の飛躍、明けて
翌年一月から六月にかけての思想上の重厚な歩みと達成を、
詩歌作品への刮目すべき反映を念頭にしながらの推理である。

2020年6月 2日 (火)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その143

 啄木は前途に強い閉塞感を覚えると、歌を作り始めると
いう性向がある。この詔書は30日に各新聞が報道するので
あるが、啄木は(月曜日が非番でない限り)29日のうちに
30日 の新聞を読み、併合の詔書をも読んでしまったはず
である。
 そして同じ29日の夜すでに見たように、啄木は「時代閉
塞の現状」を書き始めた(推定)。座右には社から持ち帰 
った翌30日の東京朝日新聞があったに違いない。これか
ら、自然主義論の体裁をとって告発しようと思っている「強
権」の面々が詔書に名を連ねている。後藤逓相を除くと元
老・陸軍の大本締め山県有朋-現役陸軍大将桂太郎系の
軍人と官僚である。
 桂が「強権」の代表であることは今の啄木にあっては当
然の認識であり、すでにもっともきびしい批判の対象である。
 「時代閉塞の現状」はわたくしの推定では8月29日に起
稿し、9月8日の何日か前に脱稿した。つまり、韓国併合
詔書公布の日に起稿し数日かけて書き上げられたことになる。
 韓国併合を強行した者と時代閉塞の現状をもたらした者
は一つであり、それは「強権」であることを石川啄木は明
確に認識していた、と結論してよいだろう。
 「時代閉塞の現状」の東京朝日新聞掲載の不可能を(お
そらく佐藤真一編集長から)告げられた日がこの9月9日
ではないかと思われる。

2020年6月 1日 (月)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その142

 啄木はどんな意図でこのグループ分けを行ったのか、こ
れを探る必要がある。
 「九月九日夜」は啄木にとって何を意味する夜であった
のか。いったん考察の対象をこの側面に移そう。
 
 八月二九日韓国併合詔書が官報号外で公布される。  

 韓国併合詔書
 朕(ちん)東洋の平和を永遠に維持し帝国の安全を将来に保
障するの必要なるを念(おも)ひ又常に韓国が禍乱の淵源たる
に顧み……韓国を帝国の保護の下に置き以て禍源を杜絶し平
和を確保せむことを期せり
 ……韓国の現制は尚未だ治安の保持を完するに足らず疑懼
(ぎく)の念毎(つね)に国内に充溢(じゆういつ)し民其の堵(と)に安
んぜず……  
 朕は……玆(ここ)に永久に韓国を帝国に併合することとなせり
 朕は特に朝鮮総督を置き之をして朕の命を承けて陸海軍を
統率し諸般の政務を総括せしむ……
    御 名 御 璽
      明治四十三年八月二十九日
(この後に、内閣総理大臣兼大蔵大臣桂太郎以下の各大臣、
寺内正毅・小村寿太郎・斎藤 実・平田東助・後藤新平・小松
原英太郎・岡部長職、の副書がある)

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