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2020年7月

2020年7月30日 (木)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その190

A 過去の体験の中へ現在の自分が入って行き、そこで
かたどる歌。        〔過去という額縁に入れる〕
   例  不来方のお城の草に寝ころびて
      空に吸はれし
      十五の心

      宗次郎に
      おかねが泣きて口説き居り
      大根の花白きゆふぐれ
 B 過去を具体的な事柄をもとに回想し、現在に戻って今の
自分または現時点を詠む歌。 〔現在という額縁に入れる〕
   例  学校の図書庫(としょぐら)の裏の秋の草
      黄なる花咲きし
      今も名知らず

      石をもて追はるるごとく
      ふるさとを出でしかなしみ
      消ゆる時なし
 C 今または近接過去の出来事、感じを詠む歌。
                〔現在という額縁に入れる〕
   例  ふるさとの訛なつかし
      停車場の人ごみの中に
      そを聴きにゆく

      やはらかに柳あをめる
      北上の岸辺目に見ゆ
      泣けとごとくに

2020年7月29日 (水)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その189

 10月10日朝までに「忘れがたき人人」の約8割を作り終
えていた啄木は残り2割を作り出すとともに「煙」の章の
創出にとりかかる。10日朝の段階では「煙」は計101首のう
ち、まだ22首しか存在しない。章立てはされていなかった
と推定される。この日の夜から13日の朝にかけて(11日は
非番)79首が作られ、「煙 一」「煙 二」が生まれ出る。
 タイトルの「煙」は夏目漱石から借りたツルゲーネフの
小説、『Smoke』(英書)に由来する。
 汽車の煙突から吐き出される煙は変幻自在で捉えどころ
がない。想念もまた数限りなく浮かぶが捉えどころがない。
「煙」にはこうしたイメージが托されている。
 「煙 一」は盛岡中学校時代の思い出の青春をうたう。
 「煙 二」はふるさと渋民村の恋しさと思い出をうたう。
 全歌は三つのタイプに分類できる。

2020年7月28日 (火)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その188

 この章のⅠ系の歌とⅤ系の歌の比率はほぼ等しい(Ⅰ系
約56首、Ⅴ系約55首)。北海道とその各地つまり「天の一方
地の一角」を漂泊する啄木と、そこで出会った「此等の人々
を見た時の周囲の光景の裡に立つ此等の人々」が、Ⅰ系と
Ⅴ系の歌々の渾然一体の中にあますところなく描かれる。
 なお、橘智恵子への慕情をうたう「忘れがたき人人 二」
の22首はすべてⅠ系の歌である。
 20世紀初めの北海道とそこで暮らす人々は近代詩歌の対象
にはならなかった。北海道は近代文学の見地からすれば、詩歌
以前の大地であった。この大地に行って3年の後に、啄木は
目の覚めるような北海道文学(詩歌の部)を創り出したのである。

2020年7月27日 (月)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その187

   Ⅴ系の歌の例

  かなしめば高く笑ひき
  酒をもて
    (もん)を解(げ)すといふ年上の友

  真夜中の
  倶知安駅に下りゆきし
  女の鬢の古き痍あと

  子を負ひて
  雪の吹き入る停車場に
  われ見送りし妻の眉かな

  水蒸気
  列車の窓に花のごと凍てしを染むる
  あかつきの色

  空知川雪に埋れて
  鳥も見えず
  岸辺の林に人ひとりゐき 

2020年7月26日 (日)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その186

 原始の自然を至る所に残す20世紀初めの北海道。「内地」
では食えなくなって、生活のたつきを求め、吹き寄せられ
るようにやってきた人々。誰も誰も必死で生きている人々
である。北海道で漂泊とも言うべき1年間を過ごした啄木が、
北海道という「天の一方」の、函館や小樽や釧路をはじめ
汽車の窓から見た土地、つまり「地の一角」に孜々として
生きる人たち。「忘れがたき人人」とは北海道漂泊時の
光景の裡に立つ此等の人々」なのである。
 意識の歌化のノウハウは3月中旬以来7ヶ月間の作歌に
よってすでに自家薬籠中にある。
 「忘れがたき人人 一」の歌は二つの系統に分類できる。
啄木自身の感じ・心理・行為等がうたわれている歌と、
かの大地で生きる人々や光景がうたわれている歌と。
 前者をⅠ系の歌、後者をⅤ系の歌と呼ぶことにする。
   Ⅰ系の歌の例。
  潮かをる北の浜辺の
  砂山のかの浜薔薇よ
  今年も咲けるや (3行目は作者自身の思いなので、Ⅰ系
 
  函館の青柳町こそかなしけれ
  友の恋歌
  矢ぐるまの花

  殴らむといふに
  殴れとつめよせし
  昔の我のいとほしきかな

  さいはての駅に下り立ち
  雪あかり
  さびしき町にあゆみ入りにき

  こほりたるインクの壜を
  火に翳し
  涙ながれぬともしびの下

2020年7月25日 (土)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その185

 自分を「生活者」と認識するようになり、世の中の無数
の「生活者」が自分と同じ立場の人間たちであると理会し
て、すでに1年経っている。
 1910年10月の今、北海道時代の人々はみななつかしい生
活者として立ち顕れた。歌は日記の中から湧くように生ま
れてきた。歌を作りながら啄木は国木田独歩の名作「忘れ
えぬ人々」を思い浮かべたのであろう。
 「忘れえぬ人々」とは無名の文学者大津弁二郎が、旅先で
出会った人々である。それも「本来をいふと忘れて了つた
ところで人情をも義理をも欠かないで、而も終に忘れて了
ふことの出来ない」人々である。
 たとえば、瀬戸内海を汽船で行くとき、一キロほど向こ
うの小さな島の磯で唯一人海のものを二三歩毎に拾っては
籠に入れていた人。また阿蘇山の噴火口の宿駅・宮地で夕
方出会った若い馬子である。かれは馬子唄をうたいつつ、
空車をつけた馬を牽いて行き過ぎた。さらに四国の三津が
浜魚市場の雑踏付近の街で見かけた四五、六の琵琶僧、など。
 大津は「生の孤立を感じて堪え難いほどの哀情を催ふし
て来る」時、「油然として」心に浮んで来るのが「此等の人
々を見た時の周囲の光景の裡に立つ此等の人々である」と
いう。「皆な是れ此生を天の一方地の一角に享けて悠々た
る行路を辿り、相携へて無窮の天に帰る者ではないか」と。

2020年7月24日 (金)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その184

 さて、残り三章の成立を見て行こう。

 「忘れがたき人人」の歌々はすでに見たように10月4日午
前の段階では、29首しか無く、章をなしてはいなかったら
しい。4日から10日までの間に啄木は77首ほどの歌を詠ん
だ。そのうちの75首に既成の29首を加えた「北海回顧の歌
(百余首)」を「『忘れがたき人々』といふ題で一まとめ
にして入れる」ことにした 。ここに突然「忘れがたき人人」の
章が成立したのである。さらに10月10日夜から13日朝にか
けて作った歌の中から約28首が追加され「忘れがたき人人 
一」「忘れがたき人人 二」の二節仕立ての章が完成する。
 この章の歌々の源泉は、渋民出郷ころから北海道漂泊の
終わりころまでの日記であると推定される。すなわち「丁
未日誌(明治四十年)」「明治四十一年戊申日誌」「明治
四十一年日誌」を読み返しつつ、つぎつぎに作歌していった
のであろう。
 北海道函館に行ったときの啄木は半高踏的・半現実的で
あったが、小樽で釧路で次第に世の中の現実を思い知らされ、
現実的人間関係を体験したのであった。しかしその天才意
識ゆえに、自身が生活者であったにもかかわらず、そのこ
とを認めることができなかった。したがって北海道で出会
った人々を生活者として理解することもできなかった。

2020年7月23日 (木)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その184

 後者の初出は東京朝日新聞(3月18日)「曇れる日の歌
(一)」である。啄木調誕生を告げるそのときの5首のう
ちの最初と2番目が以下の2首であった。
 よごれたる煉瓦の壁に降りて溶け
        降りては溶くる春の雪かな (Ⅴの歌)
 手にためし雪の溶くるが心地よく
        我が寝飽きたる心には沁む (Ⅰの歌)
 そしてのこり3首はⅠの歌である。啄木調は誕生の時か
ら、Ⅰの歌が主役であり、Ⅴの歌は脇役である。18日以後
の3月中にもⅤの歌を作っている。たとえば、
 朝朝のうがひの料(しろ)の水薬の瓶が
        冷たき秋となりにけり
 何時見ても毛糸の玉をころがして
        靴下を編む女なるかな
 何処やらに肺病患者の死ぬ如き
        悩しさもて春の霙降る
 田舎めく旅の姿を三日ばかり
        都に曝し友の帰りぬ
 涼しげに飾りたてたる硝子屋の
        前に眺めし夏の夜の月
など。「田舎めく」以外の4首は「手套を脱ぐ時」に収められる。

 

2020年7月22日 (水)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その183

 啄木がⅠの歌を二つの章に振り分けるにあたって用いた
のはつぎの方針であったと思われる。
 方針その一。「一ページ二首見開き四首」に編集できる
共通の心理を内蔵した歌は「我を愛する歌」へ。その他の独
立した一首は「手套を脱ぐ時」へ。
 方針その二。「手套を脱ぐ時」にも魅力のある歌を配置す
るために、傑作をある程度こちらの章にもまわした。たと
えばつぎのような歌を。
  手套を脱ぐ手ふと休む
  何やらむ
  こころかすめし思ひ出のあり

  手にためし雪の融くるが
  ここちよく
  わが寐飽きたる心には沁む

2020年7月21日 (火)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その183

 さてⅠの歌は第五の章「手套を脱ぐ時」にも多くが配さ
れているのだが、第五章を特徴づけるのは第一章には無い
タイプの歌々である。
  よごれたる煉瓦の壁に
  降りて融け降りては融くる
  春の雪かな
 この歌では啄木の外界の事物が詠まれ、かれ自身の意識
や行動は歌の奥に潜んでいて姿をみせない。
 もう一例あげると、
  大海の
  その片隅につらなれる島島の上に
  秋の風吹く
 歌の奥には韓国併合批判が潜むのだが、表には一切見えない。
 こうした外界の事物が詠まれた歌々を、第五の章に特徴的 
な歌ということで「Ⅴの歌」と呼ぼう。
 「手套を脱ぐ時」に特徴的であるといっても、真一挽歌を除
く107首中のⅤの歌は37首(35%)にすぎない。残りの
70首(65%)はⅠの歌である。二つの章の計258首(真一
挽歌を除く)中 のⅠの歌は221首(86%)であり『一握の
砂』の根幹・精髄は Ⅰの歌であること、一目瞭然である。

 

2020年7月20日 (月)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その182

 この啄木短歌の真髄は、「近代日本の生活者・我」の心
に浮かんだ「感じ」をうたうことである。「生活の間に心に
浮んでは消えてゆく刹那々々の感じ」(=意識)」をその
時々の「自己=我」と見、その時々の自分のいのちの表れ
ととらえた。そして、これを歌にすることを歌作の核心に
すえた。「意識歌」である。啄木は千数百年の和歌の歴史
で初めてこれを創出したのである。
 したがって「意識歌」こそ『一握の砂』の根幹である。
これらは第一番目の章「我を愛する歌」に主として編集さ
れた。残りは第五の章「手套を脱ぐ時」に編集される。
 したがって「我を愛する歌」こそ啄木短歌の根幹となる
歌々が編集された章である。 どの歌も、啄木自身の心理・
行動(行動を通した心理)がうたわれている。
 典型的な一首をあげておこう。
  友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
  花を買ひ来て
  妻としたしむ
 自己の意識そして行動(行動の元にある意識)が複雑に
立体的にうたわれている。
 第一章の歌であることにちなんで、こうした歌々を「Ⅰの歌」
と呼ぶことにする。

2020年7月19日 (日)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その181

 鹿野政直の「″天才″の視点から ″生活者″の視点へ
の転回」(「啄木における国家の問題」) をめぐってわたくし
はかつてこう書いた。 
 それはとりもなおさず「生活」の発見であった。そしてその
「生活」は「国民生活」と有機的に結合した概念で あった。
自然派や耽美派のような私的個人的生活への埋没などは論
外だった。
 「生活」の発見は、世の中に無数にいる「生活者」の発見で
もあった。世の中の「生活者」は孜々として働き、金を得、
自らと家族をやしなっているではないか。天才主義の啄木に
とって世の中の人々は「教化」の対象であった。自分を
「生活者」と規定するやいなや、世の中の無数の「生活者」
が自分と同じ立場の人間たちとして立ち現れた。「生活者」
の発見は「民衆」の発見でもあった。この啄木の歌について鹿野政直はこう述べる(前掲「啄木における国家の問題」)。  

 かれの短歌にふくまれている怒りと悲しみの総量をみよ。
そうして日本の民衆の心では、怒りはつねに悲しみと併存
していた。
 歌=生活という岩盤をほりあてたとき、啄木はもはやい
かなる錯誤からも解放された。自己と国家をみつめる目は、
『一握の砂』『悲しき玩具』のすべての作品をつうじてさ
えわたっている。

2020年7月18日 (土)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その180

  <承前>

「時代に対する組織的考察」の欲求は、一九一〇年前後の
文壇でさかんに書いていた「自然主義」の小説家たちから、
啄木を鋭く区別する。藤村(『春』一九〇八)や花袋
(『田舎教師』、一九〇九)や秋声(『足迹』、一九一〇)
や白鳥(「泥人形」、一九一一)には、鷗外や漱石の場合とは
異なり、明治国家と自己を同定する傾向がなかった。しか
し彼らには、国家、あるいは時代の社会の全体に対する「組
織的考察」も批判も、なかった。いわゆる「自然主義」の小説
家たちは、彼らの世代の知識人を代表していたのではなく、
その世代の知的活動からの脱落者であったにすぎない。し
かるに啄木は、脱落者であるどころか、同時代の青年の二
面――彼のいわゆる「内訌的」傾向と、時代に対する「宣戦」
の態度――を、典型的に代表していたのである。
 これが『一握の砂』の著者である。その諸作品が自然主義
短歌であろうはずがない。それらは啄木調短歌である。

2020年7月17日 (金)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その179


 「明治四十四年当用日記補遺」の「前年(四十三)中重要記
事」の中に以下のような記述が見える。 
 十二月――初旬『一握の砂』の製本成る。序は薮野椋十氏
(渋川氏)表紙画は名取春僊君。一首を三行として短歌在来
の格調を破れり。定価六十銭。

   『一握の砂』の成立と構造

 啄木の短歌を自然主義の系列に入れるのが、文学史の常識
であるらしい。しかしそれは間違いである。
 啄木が自然主義の歌人(とくに前田夕暮)に学んで、啄木
調短歌を開拓したのは1910年(明43)3月~4月である
ことはすでに見た。この時の啄木はすでに田中王堂を克服し、
自然主義を超えて、さらに高い思想を求めてクロポトキン等
を読み始めていた。
 そして『一握の砂』を創造する頃には、すで見てきたような
石川啄木になっていた。
 加藤周一は言う。
 啄木は一九一〇年八月に、「官私大学卒業生が、其半分は
職を得かねて」いて、「学生のすべてが其在学時代から奉職口
の心配をしなければならなくなつた」状況を指摘して、「理想
を失ひ、方向を失ひ、出口を失つた」青年たちの、「内訌的、
自滅的傾向」について書いた。そのとき、明治寡頭制権力は、
勝ち誇っていた。「強権の勢力は普く国内に行亘つてゐる。
現代社会組織は其隅々まで発達してゐる。――さうして其発
達が最早完成に近い程度にまで進んでゐる…」という状況を、
啄木は「時代閉塞」と称んだのである。「我々は一斉に起(た)
つて先づ此時代閉塞の現状に宣戦しなければならぬ。我々自
身の時代に対する組織的考察に〔全精神を〕傾注しなければ
ならぬ」(「時代閉塞の現状」) 次回につづく>

2020年7月16日 (木)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その178


 この8例の傍線部はすべて『一握の砂』において字余り
句へと推敲されている。大室によるこの推敲の発見は一連
の研究成果のうえになるものである。しかし大室はこれを
定型からの離脱」の意識によるものであると言う 。わた
くしは違うと思う。三行書に伴う推敲であると思う(後述
の「啄木三行書きの意義」参照)。
 大室はその研究の発展上に『悲しき玩具』の歌々がある
という。卓見である。
 さて、先に見たように『一握の砂』の原稿を東雲堂に入
れたのが10月16日、その後通例なら20日前後のある日「ス
バル」11月号に110首を寄稿した。「スバル」の歌の原稿が
あとで執筆されているのである。しかし今見たように11月
20日ころまでに『一握の砂』の歌を推敲する機会はあった
のである。さらに「スバル」12月号の場合も同様のことが
言える。12月号の送稿も11月20日前後であろうから、送稿
後に『一握の砂』の推敲はあり得るのである。
 「放たれし女のごときかなしみを/弱き男も/この日今
知る」(「スバル」12月号)と「放たれし女のごときかな
しみを/よわき男の/感ずる日なり」(『一握の砂』)を
くらべると、前者が推敲されて後者になったことは明らか
である。
 大室の研究はこうした考察までも可能にしたのである。

2020年7月15日 (水)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その177

 この次の休日(やすみ)に一日(ひとひ)寝てみむと
           思ひすごしぬ三年(みとせ)このかた
     →  この次の休日に一日(いちにち)寝てみむと
        思ひすごしぬ
        三年このかた

 こころざし得ぬ人々のあつまりて
          酒のむ場所がわが家(や)なりしかな
     →  こころざし得ぬ人人の
        あつまりて酒のむ場所が
        わが家(いへ)なりしかな

 邦人(くにびと)の顔たへがたくいやしげに
          目にうつる日ぞ家にこもらむ
     →  邦人(くにびと)の顔たへがたく卑しげに
        目にうつる日なり
        家にこもらむ

 あはれかの我の教へし子等もまた
          やがてふるさとを棄てて出づらむ
     →  あはれかの我の教へし
        子等もまた
        やがてふるさとを棄てて出づるらむ

 あはれかの眉の秀でし少年よ
          おとうとと呼べばちらと笑みにき
     →  あはれかの眉の秀でし少年よ
        弟と呼べば
        はつかに笑(ゑ)みしが

2020年7月14日 (火)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その176

 どのような推敲が行われたのであろうか。これには斎藤
三郎の先駆的な仕事があるが 、大室精一の考察「啄木短歌の
形成(1)――『一握の砂』の音数律について――」が傑出し
ている 。大室はこの論文の中で、『一握の砂』551首中の
実に4割・219首が字余りの歌であることを指摘し、その
型および意義を精細に分析している。その分析のうちに本
文初校の出た11月3日ころから再校ゲラを東雲堂に届けた
日までのあいだに、啄木がいかなる推敲をなしたかを探る
資料も示されている。「スバル」1910年(明43)11月号に
寄せた短歌のうちの8首に啄木がつぎのような推敲をほどこ
したことを指摘しているのである。上の歌が「スバル」所載、
下の歌が『一握の砂』所収。

 ある日のこと室(へや)の障子をはりかえぬ
             その日はそれに心なごみき 
     →   ある日のこと
         室(へや)の障子をはりかえぬ
         その日はそれにて心なごみき

 誰が見てもわれなつかしくなるごとき
             長き手紙を書きたき夕(ゆふべ)  
     →   誰が見ても
         われをなつかしくなるごとき
         長き手紙を書きたき夕

 わが行きて手とれば泣きてしづまりき
             酔ひて荒れけるそのかみの友 
     →   わが行きて手をとれば
         泣きてしづまりき
         酔ひて荒(あば)れしそのかみの友

 

2020年7月12日 (日)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その175

 これらすべてが東雲堂側に完全に整ったのは11月20目す
ぎではなかろうか。
 11月29日の加藤孫平あての手紙で「『一握の砂』は二三日
中に出来る筈に候……」と書いているので『一握の砂』は
奥付とさほどずれずに出版されたと考えられる。奥付には
  明治四十三年十一月廿八日印刷
  明治四十三年十二月一日発行
とある。
 ここで再校ゲラでの推敲を考察するために「その校正と
共に順序送るべく候」という文言にもどる。「順序送るべ
き本文(551首分)のゲラには再校であるにもかかわら
ず随分時間をかけているようである。啄木はきわめてすぐ
れた校正のプロであるから、単なる再校であれば1日あれ
ば十分であろう。それなのにゲラを受け取って5日くらい
もたっているのにまだ「順序送るべく候」といっている。
これは再校段階でも歌の推敲をおこなっていることを示唆
している。それなら初校段階でも当然推敲をしていたとい
うことであろう。ここに『一握の砂』の成立にとって注目すべ
き、11月に入ってからの推敲というテーマが姿を現す。

 

2020年7月11日 (土)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その174

 さて問題の一文である。「序文及び本文終りの方再校」と
あったのだった。こういう事情が見えてくる。(仮定上の)
九日、初校ゲラを東雲堂に届けたおり、「序文及び本文終り
の方再校」ゲラを至急出すことになった。が、遅い。これを
至急(啄木に)送る様」活版所に電話で催促してほしい、
というのである。届きしだいそれを校正しその「校正(ゲラ)
と共に」いま手許にある再校ゲラ全体に手を入れつつ、で
きた順番につまり「順序」送り届けることにする、という
のである。したがってこの手紙を書いた日は9日から2~
3日たっているであろう。現行『石川啄木全集』第七巻では
この手紙を10月29日の手紙のつぎ11月1日付手紙の前に入
れている。事実上10月末の場所に入れたのである。しかし
11月10日すぎの手紙と推定されるのである(表は略)。
 このつまり11月10日すぎの段階ではまだ以下の諸作業が
のこっている。
 「序文及び本文終りの方」の再校ゲラがきたら再校し東雲
堂にもどす。
 「表紙画」の色の校正を名取春仙にしてもらう。再校も
あったかも知れない。
 椋十の序文は要望とかけはなれていたらしい。これから
あらためて書いてもらうことになる。そしてその初校・再
校ゲラが往復するであろう。
 そして本文(541首分)の再校・推敲。

2020年7月10日 (金)

 石川啄木伝東京編1910年(明治43)その173

 その11月3日以後のある日啄木は初校ゲラの校正および
推敲を終えるとともに、真一挽歌8首を本文終わりに加え
ることにし、その原稿を書いた。そして既述のように本文に
若干の変更を加えた。さらに「序文」を書きかえ新原稿に
した。これらに2日かかったとしよう。
 とすると11月5日に、こうして校正のおわった初校ゲラ
と真一挽歌・序文の原稿とが東雲堂に届けられたであろう。
 西村は再校ゲラを作らせ、同時に真一挽歌と序文の初校
ゲラも作らせて、これらを啄木に届けた。これに2日かかっ
たとすればその日は11月7日ということになる。
 啄木は校正をおえた真一挽歌と序文の初校ゲラを東雲堂
に9日に届けたと考えておこう(8日は啄木の休日)。
本文の再校ゲラとその原稿とは手もとにおいて推敲をつづ
けていたのであろう。
 このような経緯を仮定してはじめてさきの日付不明書簡
の「それから」以下の一文が理解できるのである。当の書
簡に行こう。まず「校正刷」の3文字に着目しておきたい。
校正刷」はやはり「校正刷」と呼んでいる。

 

2020年7月 9日 (木)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その172

 啄木のいう「あの一枚」は四百字詰原稿用紙1枚の意で
あろうから、わたくしは前者(献辞)の書き換えられる以
前の文章のみが啄木のいう「序文」であると推測する。ち
なみに右の書き換えられた「序文」の全体は四百字詰原
稿用紙の12行に収まる。
 啄木はこういうのである。西村のいうとおり「序文」は
東雲堂にある原稿のままでは「都合=ぐあい」がわるくな
った、なんとかするので「序文」の原稿1枚だけ送り返し
てほしい、と。おそらく「序文」には真一誕生のよろこび
のようなことも記されていたのであろう。しかし真一の死
去によって「都合をかしく」なったのである。そのことを
西村は見本組にそえて遠慮がちに指摘したのであろう。
 さて、30日(日)早朝に啄木はこれを投函したであろう。
当時の郵便制度にうといので、しかとしたことは言えぬが
この日が日曜日であっても即日西村に届いたのではなかろ
うか。西村はさっそく「あの一枚」の「序文」原稿を啄木
に届けたであろう。さらに見本組についての啄木の了承を
得た西村は初校ゲラを作らせ、これに「あの一枚」分をの
ぞく全原稿をそえて啄木に届けたであろう。その日は啄木
の休日11月1日(火)のおそらく後であろう(届けられた
日を11月3日としておこう)。

2020年7月 7日 (火)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その171

 大室は椋十序文のつぎにある二つの文章(さきにわたく
しが「献辞」と呼んだもの、および「小引」とでも呼ぶべ
きもの)を「序文」と呼ぶ。一つは
  函館なる郁雨宮崎大四郎君
  同国の友文学士花明金田一京助君
  この集を両君に捧ぐ。予はすでに予のすべてを両君の
  前に示しつくしたるものの如し。従つて両君はここに
  歌はれたる歌の一一につきて最も多く知るの人なるを
  信ずればなり。
  また一本をとりて亡児真一に手向く。この集の稿本を
  書肆の手に渡したるは汝の生れたる朝なりき。この集
  の稿料は汝の薬餌となりたり。而してこの集の見本刷
  を予の閲したるは汝の火葬の夜なりき。  著者
 もう一つは
  明治四十一年夏以後の作一千余首中より五百五十一首
  を抜きてこの集に収む。集中五章、感興の来由するとこ
  ろ相邇きをたづねて仮にわかてるのみ。「秋風のこころ
  よさに」は明治四十一年秋の紀念なり。

2020年7月 5日 (日)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その170

 こうして「見本組」はあきらかに「校正刷り」とはちが
うものである。当時の製版工程にあっては活字の組み替え
作業は現代よりもずっと手間取ったであろうから、「見本組
が確定してはじめて活版所は原稿全体を組み上げた(→校
正刷りを作った)はずなのである。
 では献辞のなかの「見本刷」をどう解釈すればよいか。
これからの論の展開であきらかになるが、これは校正刷り
ではありえない。啄木は同じ印刷物を、活字の組み方の面
から見て「見本組」と呼び、刷り物としての面から見て「見
本刷」と呼んだと考えるべきである。見本刷を予の閲し
たるは」とは、印刷物の中で組み方が指定どおりになって
いるか、実際に印刷した結果はイメージどおりであるか等
を「したる=調べてみたのは、の意である。
 つぎに仰せの如く序文は書きかへねば都合をかしく候
に付、あの一枚だけ一寸お送り戻し下され度願上候」の部
分である。東雲堂にたいして原稿のうちの「あの一枚だけ
送り返してくれというのである。したがって一六日に届け
た原稿の全体は東雲堂にまだある、ということになる。初
校ゲラは原稿と一緒に届けられるものであるから、今届け
られている「見本刷」はやはり「校正刷り」ではないので
ある。つまり「見本組」のことなのである。
 ところで文中の「序文」のことである。これは薮野椋十
の「序文」であるとだれもが信じて疑わなかった。大室精
一がはじめてこれに疑義を呈した。これは啄木自身の「
」をさしていると言ったのである。卓見である。

 

2020年7月 4日 (土)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その169

 たとえば岩城之徳『啄木歌集全歌評釈』(筑摩書房、1985
年)の「歌集解題」を引いてみよう。岩城はこの「見本刷」
を校正刷りと解している。
 歌集『一握の砂』の校正刷が出始めたのは、それよりま
もない十月二十九日の夜のことであったが、この日は生後
わずか二十四日でこの世を去った長男真一の葬儀の日であ
った。啄木はこの夭折した愛児の死を悼んで、挽歌八首を
追加して五百五十一首とした。
 こうしてこれまでだれもが29日に校正が始まりその時に
挽歌8首が追加されたと思いこんできた。しかし手紙の文
脈をあらためてたどると「見本組」は歌集本文ページにお
ける歌の組み方見本の意味である。この歌集は従来の歌集
とはおもむきを異にし、詩集に近い。啄木は書簡のここでは
前述のごとく、ページの紙の質から表紙の紙質・色、製本上
の注意、表紙絵、カバーにいたるまで詳細に指示を出して
いる。わけても神経をつかったのが一ページ二首の組み方
であろう。どの大きさのページのどの位置に1首目を組み、
2首目はどこに組むか、活字の大きさ・書体はなにがいい
か。字間・行間はどの組み方がベストか。こうしたことは
この歌集編集上の眼目の内である。そしてこれらについて
はすでに具体的に指定してあったことも文中にうかがいう
る。ところが西村はこの組み方をしながらも、四六判とは
ちがう判型を提案してきたらしい。啄木はそれにたいし、
やはり「四六版ニテ竪五分許り短カキ」にすると言い、
その判型にすれば歌の組み方はこの見本どおりでよい、
としている。

2020年7月 3日 (金)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その168

 表紙画同封いたし候、これは木版でも石版でもよろしく、
色の校正刷は必ず一応名取氏(南品川海妟寺前)へお廻し
被下度候
 背は貼りつけるよりも表紙の紙へ黒で印刷した方よから
んとの名取氏の意見に候、
 二号ゴシック一握の砂 4号石川啄木著
と下の方をあけて印刷させ被下度候 
 それから序文及び本文終りの方再校至急送る様活版所へ
電話おかけ被下度、その校正と共に順序送るべく候、                                 
                  石川啄木
   西村兄 侍史

 尚薮野椋十氏の序文は変更又は除くかも知れず、今夜逢
ふ筈になり居り候
 文中に「序文及び本文終りの方再校至急送る様」云々と
ある。したがってこの手紙の時点は「序文及び本文終りの
」の原稿ができて、初校ゲラが出て、その初校の校正は
終わっているが、まだ再校ゲラは出ていない段階というこ
とになる。以下に10月29日付書簡からこの書簡までの間に
何があり得たかその経緯をさぐってみよう。まず29日の書
簡から見てゆく。
 従来の研究ではこの書簡中の「見本組」は校正刷り(初校)
と理解されてきた。それは郁雨あて書簡の先のくだり、そし
て『一握の砂』の献辞のつぎのようなくだりなどとも関係
している。
また一本をとりて亡児真一に手向く。この集の稿本を書
肆の手に渡したるは汝の生れたる朝なりき。この集の稿料
は汝の薬餌となりたり。而してこの集の見本刷を予の閲し
たるは汝の火葬の夜なりき。」ここにはたしかに「見本刷」
とある。

2020年7月 2日 (木)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その167

 しかし実際には29日になって「見本組」が届いた。この
日づけの西村辰五郎あて書簡がある。冒頭は28日午前0時
すぎに死んだ長男真一への西村の弔辞にたいする謝辞、火
葬の報告などが記される。以下はそのつづきである。
 お送り下され候ふ見本組、矢張四六版に願ひたく、体裁
の儀は朱書いたし置候、仰せの如く序文は書きかへねば都
合をかしく候に付、あの一枚だけ一寸お送り戻し下され度
願上候、それからこの組方は土岐氏の“NAKIWARAI”と同じ
大いさ(四六版ニテ竪五分許り短カキ)でなければ少々変
なるべしと存候に付、……それから表紙に貼りつける絵は
名取氏の方にて出来次第お送り致すべく、……
 この書簡以後12月1日(『一握の砂』刊行の日付)まで
の約1カ月間について立ち入った分析を加えたものはいな
かった。2003年になって大室精一がはじめてこの問題に踏
み込み精力的に論考を発表した。以下の考察はそれらの論
考から刺激と示唆とを受けてなったことをまず記しておき
たい。
 この10月29日付書簡はつぎの日付不明の書簡と照合しつ
つ読むことでこれまで闇の底に沈んでいた過程の一部に光
をあてることが可能となる。 

2020年7月 1日 (水)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その166

 また16日以後まもなく最初の歌論「一利己主義者と友人
との対話」を執筆・寄稿していることもわかる。啄木は9月
朝日歌壇を設けるに先立ち歌論を書こうと試みた。が短歌
に関する自身の見解を整理できぬままに中断した。
『一握の砂』の完成原稿を仕上げた今かれの短歌観は熟成
していた。「創作」10月号に載った尾上柴舟の「短歌滅亡
論」という執筆上の足がかりもあった。啄木調と三行書き
の天機が記されることとなった。これも牧水の「創作」と
いう媒体の賜である。
 「一利己主義者」とは一人の自分がかわいくてならぬ男、
つまり「我を愛する歌」の作者石川啄木、「友人」は並木
武雄。函館時代の親友達(岩崎正・宮崎郁雨・吉野省三)
は『一握の砂』で各三首の歌によって記念しているが、
並木武雄には最初の歌論に相棒役として登場させ、記念す
る。啄木の友情はいつも篤い。
 16日~25日にはさらに「スバル」11月号に110首、
「文章世界」11月号に16首、「ムラサキ」11月号に詩一編
を寄せたとみられる。そのあとに「田園」一巻一号にエッセ
イ「田園の思慕」 を、「曠野」9号に歌16首を寄稿した
のであろう。
 吉野章三に書いたとおなじ22日啄木は郁雨あてにも手紙
を書いている。そこで「もう二三日にて歌集の校正」がは
じまると言っている。

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