« 2020年7月 | トップページ | 2020年9月 »

2020年8月

2020年8月31日 (月)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その218

 平沼論告の欺瞞性と大量処刑に向かってばく進する凶暴
な論断に対して修ははげしい怒りを覚えたにちがいない。
「都会」裁判における裁判長今村恭太郎や「ヰタ・セクス
アリス」を発禁にした岡田警視庁官房主事の官僚性にたい
して覚えたのと共通の怒りを修はこのとき覚えたであろう
(前述「発売禁止論」第Ⅱ・Ⅲ点参照)。いやはるかに激
しい怒りを覚えたにちがいない。今度は多くの無実の人の
命をうばおうとしているのだ。この超エリート官僚の論告
を聴きつつ修はメモしている、「悪脳可知」「愚ヤ不可知」 と。
 平沼の総論、平沼・板倉検事の各論、松室検事総長の死
刑求刑を聴き終えた修は検事論告、ことに平沼騏一郎との
真っ向からの対決を決意した。平沼こそ今度の裁判の権力
側における総指揮官であった。もはや修には躊躇も不安も
なかったのであろう。すばらしい気魄と堂々たる自信に裏
づけられた弁論がまず「思想変遷論」としてほとばしり出た

2020年8月30日 (日)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その217

 3つ目の不安を解決すべくおこなったのが12月14日夜の
森鷗外宅訪問であろう。そこで受けた当代最高の知識人の
一人からの示教は修をして自分たちの知識が十分に平沼に
対抗しうるものであることを確信せしめたと思われる 。
 しかし前述の弱腰つまり「遺憾」の立場そして残る二つ
の不安と躊躇はまだふっきれない。修の弱腰を反省させ、
不安と躊躇を大きく取り払ったのは幸徳秋水の三弁護士に
あてた書簡(いわゆる「陳弁書」。12月18日付)および秋水
の最終陳述(22日)であった 。
 これが修に大きな勇気をあたえた。啄木が啓発してくれ
たことは根本において秋水の「陳弁書」と陳述との当該部
分と合致していた。自己の「研学」は平沼らに対抗しうるし、
しなければならない、との確信を秋水書簡・陳述がもたら
した 。かくて「思想変遷論」に筋金がはいった。弁論の主
柱が今や確立した。この修のまえに平沼論告が立ちはだか
る(25日)。

2020年8月29日 (土)

 石川啄木伝東京編1910年(明治43)その216

 修の公判における弁論はこの思想変遷論を中心として堂
々たるものであったが、「手控」(12月21日~14日)の段
階ではまだそうではなかった。「手控」における修は今回
の事件は皇室に関する罪だから弁護人も被告も判官の同情
を得がたかろう、という「遺憾」の立場を前面におしたて
ている。そしてこの立場の中におしこむ形で「思想変遷論
を用意しようと試みているにすぎない。「思想変遷論」を用
いようという構想のみは明確だが、論全体の調子は哀訴で
ある。この段階の修は不安と躊躇につつまれていたようで
ある。天皇暗殺計画という犯行――天地開闢以来の、破天荒
の、破倫無道の、等々の悪名を冠せられたこの犯行――を
弁護することに伴う不安と躊躇、その彼らの背景にある思
想・無政府主義への「智識と同情」を啄木の啓発を活用し
て押し出すことへの不安と躊躇、洋行帰りの超エリート平
沼騏一郎を先頭とする検察陣の知識に対して自分の研学成
果で太刀打ちできるかという不安、がそれである。

2020年8月28日 (金)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その215

 では「思想変遷論」を骨子に沿って考察しよう。
 ①では、主任検事平沼騏一郎の総論の二大支柱の一つを
以下(②~⑥)に論じ、その誤謬を明らかにしようという。
修が平沼を批判する際に根拠としたのは傍線部分に関する
明確な認識であった。そしてこれは「所謂今度の事」の(四)
(五)で啄木が論じていることである。
 ②は前述のとおり修の持論の展開である。
 ③のエッセンスはやはり「所謂今度の事」の(五)に述
べられている。そして修の「発売禁止論」の第Ⅰ点にも通
底するものがある。
 ④の後半部分「只外来思想を圧抑しやうとしても、それは
結局徒労である」はすでに「都会」弁護のときの修の主張に
通じ「所謂今度の事」(三)における啄木の主張でもある 。
 ⑤では修が社会進化論を援用しているのであるが、傍線部は
「所謂今度の事」(四)と同じ見解を根底においている。
 ⑥は「所謂今度の事」(四)(五)と共通する認識をふまえ
た立論である。①と同じ認識をもちいてこんどは平沼の「
」を論破したのである。
 ⑦は①に呼応した修会心の結論である。
 こうして修弁論の最良の部分である「思想変遷論」の内実
は、主として「所謂今度の事」と共通する認識に拠っている
ことは明瞭である。啄木の修弁論への貢献を想定してよいで
あろう。

2020年8月27日 (木)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その214

 以上を骨子とする論は12月28日の公判において弁論の一
部として展開された。さいわい修の弁論の全貌は「刑法第
七十三条に関する被告事件弁護の手控」において知ること
ができる。(この「大逆事件意見書」を以下「意見書」と呼ぶ)
修はこの意見書を作成するまえに意見書全体の構想を「幸
徳事件弁論手控」のかたちにしている。12月12日から14日
までのあいだのメモと推定される。(これを以下「手控」と
呼ぶ。)
 「手控」のなかで別格にくわしくメモされているのは「意
見書」の変遷論に当たる部分である。修が自己の弁論の独
自性を変遷論に託したことを如実に示している。ただし「手
控」である程度展開されているのは、右の「思想変遷論」骨
子で言えば②に当たる論のみである。この論を修は持論で
あるという。変遷論に属するメモの残りは、「本件事実の
真相を探知するには」事件の被告に影響をあたえた「此思
想の流れ来つた源泉や流域に対する明確なる智識と同情と
がなくてはならぬ」という主張である。ただしこの主張は
なんら展開されていない。しかしこの部分の内容こそ「
想変遷論」の内実であり、啄木の「所謂今度の事」のテーマ
なのである。

2020年8月26日 (水)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その213

 (承前)

④ 「現代社会」に「欠陥あり、不満ありとするならば、
そこに何等かの思想が入り込む隙があるのである。其隙を
塞がずに、只外来思想を圧抑しやうとしても、それは結局
徒労である」。
⑤ そもそも新思想は旧思想にとってはいつでも危険で
あり破壊的なものである。両思想の勝ち負けは「何れの思
想が人間本然の性情に適合するか否や」によつて決まる。
(新思想がいかに旧思想にとっては危険であっても、人間
本然の性情に適合し、社会に受け入れられていくことにな
れば、それは旧思想にとっての危険を意味したのであって、
新思想はその本性が危険ということにはならない。)「さ
れば、思想自体から云へば危険といふものはない訳である。」
⑥ 「日本の社会主義、日本の無政府主義が」今回の件
で危険であることを証明したというならば、「それは原因
結果を顛倒して居る事になる」。「之は人間にある程度以
上の取締(私は敢て迫害とは云はぬ)を加へるときは、
斯の如き反抗心を起すものだ云ふ証明にはなるが、無政
府主義そのものが危険であると云ふ証明にはならない
⑦ とするならば、「平沼検事の」①のようにして「組立
られた総論の第一角は崩れてしまつた事になる」。

2020年8月24日 (月)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その212

 新村忠雄から堺利彦にあてた手紙(12月31日)「次に若い
人ですが平出修といふ人は感服しました 彼は近代人を解
し近代人の思想用語を解して居る人で私共の主義を解剖
しての弁論でした」。新村善兵衛の獄中日記(12月27・8・
9日の記)の「意外なりしは平出氏の弁論なりし。思想と
時代の関係・変遷等耳傾むく所多かりし」も「思想変遷論」
への賞賛である。また今村力三郎の平出あて書簡(1911年
1月11日)に「足下之弁論が被告人一同之満足を買ひ同僚
之感嘆を博したるは当時の公評なりしが」とあるがその眼
目も変遷論にあると考えられる。
 「思想変遷論」の骨子は以下のとおりである。(赤字
啄木「所謂今度の事」との共通部分)
 ① 無政府主義という思想は「時と処と人とにより」
多様なあらわれ方をする、という無政府主義の歴史を閑
」し、無政府主義はいついかなるときも危険である、と
いう仮定のうえに平沼検事は論を構築している。
 ② 新しい思想・輸入された思想が「日本のどこに根ざ
し、如何なる色で花咲き、如何なる味の果を結ぶかは、い
くらかの年月を貸さなくては、判定はつかぬ」。(仏教思
想・耶蘇教思想の例)
 ③ 「元来新思想と云ふものは、在来の思想で満足の出来
ぬ時に、其欠陥を補ふべく入り込んで来るのであるから、
其欠陥の度合如何によりて、其思想の寛猛の度が違つて来
るものである。」 (以下次回につづく)

2020年8月23日 (日)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その211

 さて啄木は7月26日(弓削田から「所謂今度の事」の掲
載不可能を伝えられたと推定される日)以降で、修に会った
とき「所謂今度の事」の論旨を熱心に語る機会があったと
思われる。この(一)~(五)からなる文書のうち修の「
想変遷論」(12月28日の公判における弁論)と共通するのは、
要約した(三)~(五)中の以下の赤字部分である。
 (三)事件の報道が差し押さえられていて、詳述できぬこ
とを伝えつつ、思想を権力で押さえ込むことの無理・不可能
を説く
 (四)無政府主義の根本理念とそれが「殆ど何等の危険な
要素を含んでゐない事」を知らせようとする。
 (五)無政府主義の理論が民族的、国民的特徴を持つこ
とにふれ、さらに無政府主義者が「其実行的方面」において
いかなる出方をするかは「其国の政治的、社会的状態」と関
係する(と述べたところで筆は止む)。
 修の「思想変遷論」(12月25日ころ執筆)を見よう。12月
28日の公判における修の弁論のなかでもっとも特徴があり
かつ卓越したこの論について管野須賀子は弁護人今村力三
郎あてに次のように書いた(12月30日)。「あのうら若き
人の口より如何なる御論の出づべきかと注意致し居候 
平出先生の思想変遷論?の中に私の日頃の感想の含み居り
誠に嬉しく存じ候……」 修弁論のこの部分がこれによって
思想変遷論」と呼ばれることとなる。「思想変遷論」は
被告たちに深い感銘をあたえた。

2020年8月22日 (土)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その210

 修は1908年(明41)2月27日生田葵山「都会」(「文芸倶楽
部」2月号)をめぐる裁判に弁護人として出廷、「周到な論
理と鋭い気迫で無罪論を展開し」小説「都会」は「現代思潮
であるから、法律の力で此の偉大なる思潮を圧する事は到
底不可能である」と主張した。修はこの裁判で「権力的法
曹と対決して思想や表現の自由などの基本的人権を守ろう
とした」。
 翌09年(明42)「スバル」7月号が鷗外の「ヰタ・セクス
アリス」によって発売禁止となった(7月28日)。修は「明
治評論」(11/25、12/20、12/30)に「発売禁止論」を
書いてふたたび権力的法曹と対決した。論旨のうち本稿に
必要な三点を次に掲げておこう。
 Ⅰ 「現代社会に不調和あり、現代道徳に欠陥あり、現代
人の道徳心に腐敗」があるならばこれを写す文芸があるのは
当然である。
 Ⅱ 時代思潮の赴くところを考察し、なぜその作品が産
出せられたのか、なぜその読者がいるのかがまず考察され
てのち初めて発禁のことが論ぜられるべきである。
 Ⅲ しかるに今の文芸取り締まりは、文芸に同情も理解
もない者が、いい加減な「判断基準」を設け、いい加減さ
の自覚もなく鑑定しているのである 。
 修がこの原稿を書いたのは8月下旬から10月中旬までの
間のどこかである。10月中旬、修はまた高知に向かう。
 翌10年(明43)7月半ばまではほとんど杓子山訴訟事件
にかかりきりであった。7月16日修は帰宅した。

2020年8月21日 (金)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その209

【補論】平出修の「思想変遷論」と啄木「所謂今度の事」

 前節で見た期間の修・啄木の関係をここでは「思想変遷論
・「所謂今度の事」の関係にしぼって考察しておこう。
 平出修と石川啄木がこの事件をめぐって意見を交わすの
は既述のように、7月16日以後の7月中であり、どんなに
おそくとも8月下旬である。ここでは7月下旬を想定して
考察することにしよう。ただし考察内容の骨子はふたりの
会見が7月であれ、8月下旬であれ、1回であれ数回であ
れ妥当するものでなければならない。
 幸徳事件は国家権力が思想・表現(言論・出版その他)・
集会と結社の自由を無体に抑圧したことに発し、無体に抑
圧することで終わった。したがってこの事件に理解と同情
をもってかかわる者はこの国家の抑圧に対する批判精神を
備えていなければならない。
 平出修は7月以前に国家権力との間にいかなる体験(思
想的体験も含む)をもっていたのであろうか。

2020年8月20日 (木)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その208

 11月24日、弁護士たちに訴訟記録が配布された。同じころ
啄木は「スバル」12月号への歌の原稿を届けている。また
おなじ「スバル」に『一握の砂』の広告を載せてもらっている。
啄木が修に広告を依頼するときの丁重な手紙の読めば 、
このときも啄木がじかに平出に会って頼んだことは確実で
あろう。『一握の砂』はすでに脱稿していたであろうから
心身にゆとりができた頃でもある。
 12月。上旬に『一握の砂』が出た。修に一本が献呈され
たことは当然である。返礼もあったであろう。上旬に「
徳等所謂無政府共産主義者の公判開始は近く四五日の後に
迫り来れり」ではじまる原稿を啄木は書きかける(『全集』
④-292)。14日、修は森鴎外宅を訪問。18日、幸徳秋水は
いわゆる「陳弁書」を担当弁護士に寄せる。22日、秋水法廷
で最終陳述。28日、修法廷にて弁論。
 以上によって啄木と修が1910年(明43)後半に会っていた
ことは確実であり、「会っていた」の前に「しばしば」を付
け加えてよいであろう。中村文雄のいうように、ふたりの間
には幸德事件をめぐる情報交換、議論、相互啓発があったので
ある 。

2020年8月18日 (火)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その207

 次に、同四十三年の秋、上野の図書館に於て、新刊の心
懐語を読み、共鳴禁じ難きものあつて、直ちに先生を茶屋
町の新居にお訪ねし、お話を伺ふところへ、石川啄木氏が
来訪し、〇〇事件の裁判の表裏について語り、平民新聞や
直言の綴込を借りて行かれたが、啄木の「はたらけどはた
らけどなほわがくらし楽にならざり、ぢつと手を見る」そ
の手の指の殆んど骨と皮ばかりであつたのが、今もまざま
ざと眼に浮んで来ます。その時ちようどお巡さんが来られ
たが、そのお巡さんの態度に対して、「君たちは人が弱つ
てると思つて、さう威張るものではないよ」と叱りつけた
声が、猶ほ耳に残つてゐます。
 この証言は啄木の「明治四十四年当用日記補遺」にある
予はこの年に於て、嘗て小樽に於て一度逢ひたる社会主
義者西川光次郎君と旧交を温め、同主義者藤田四郎君より
社会主義関係書類の貸付を受けたり」という記述と符合す
る。西川訪問後啄木は藤田を訪れ「社会主義関係書類
(西川のもっていなかった機関紙類であろう)を借りる。
この藤田と平出修とは、目と鼻の先に住んでいたのであ
る。 」歩いて一~二分の距離である。幸徳らの社会主義運動
に関して新しい情報を得つつある啄木は足をのばして「
」中の修を訪れ情報交換もおこなったであろう。

2020年8月17日 (月)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その206

 11月10日には「無政府主義者 公判開始決定」「空前絶
後の犯罪」の見出しのもと幸徳ら26名を特別刑事部の公
判に付する「決定書」全文を掲載。26名の本籍、職業、生年
月日が記されている。そのあと、「大陰謀の動機」「刑法
七十三条の罪」「公判と弁護人」「桑港に於ける幸徳 米国
の不平党に交る」「被告中の紅一点 管野すが子の経歴」
衝撃的なあるいは解説的な記事が並ぶ。他の新聞の記事
も合わせるとこの数日に一挙に大量の情報の奔出した感
がある。いよいよ事件の輪郭が姿を現した。しかも法律
用語のオンパレードである。このころ平出を必ず訪れて
いる 。
 6~7月には事件の思想的背景をさぐるため無政府主
義、社会主義の理論を研究した俊敏な啄木はこの報道直
後からは事件の歴史的背景をさぐるため、平民新聞等幸
徳らの社会主義・無政府主義運動の機関紙を研究しはじ
める。つぎの一文はその重要な証言である。筆者は吉田
庄七、文中の「先生」は西川光二郎、「四十三年の秋」は
明治43年11月中旬ころと推定される。

2020年8月16日 (日)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その205

 29日啄木長男の葬儀。「真一葬儀収支帳」によると香典
は7件のみ。朝日新聞社編輯局諸君、丸谷喜市、並木武雄、
与謝野寛、新井こう、宮崎大四郎そして平出修。
 11月。啄木の「秋のなかばに歌へる」110首が「スバル」
誌上を飾っている。傑作の寄稿によって平出の友情に最高
のかたちで応えたことになる。
 8日、東京朝日新聞に(幸德事件の公判は)「裁判所構成法
第五十条第二項に当るべき事件として大審院は第一審にし
て終審したるべき特別裁判所を構成し」云々の記事が載り、
9日には「刑事訴訟法第三百十四条同三百十五条の規定に基
き予審判事は其取調べたる訴訟記録に意見を附して大審院
に提出し、大審院長は検事総長の意見を聴きたる上其事件
を公判に附すべきや否やを決定するの規定なり、又本件に
関し弁護士は未だ正式に弁護届を差出さゞれども幸徳の弁
護人は花井卓蔵、今村力三郎、大石の弁護人は今村力三郎、
鵜澤総明、高木、崎久保二名の弁護人は平出修の諸氏依頼
を受け居る由」とある。

2020年8月15日 (土)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その204

 しかし幸德事件への関心はいささかも衰えていないのだ
から、平出を訪問したい気持ちも懐きつづけていたであろう。
したがって、10月20日すぎに「スバル」第11号(第三短歌号)
用の原稿ができたとき、啄木はかならずこれを持参して修
を訪れたはずである。原稿「秋のなかばに歌へる」110首は
『一握の砂』原稿の抜粋(それも最新作が主体)であり、
啄木が生前雑誌に掲載したすべての歌群中の最高傑作であ
る。平出の説得に応じて寄稿を承諾した啄木はこの会心の
作品原稿を直接見せに行かずにはいられなかったはずであ
る。「スバル」9月号に修は長文の評論「吉井君の歌」を載
せた。平出はそこで白秋・啄木らの才を高く評価しながらも
吉井の歌を比類なきもののように絶賛している。啄木は9月
23日の東京朝日に平出を明らかに意識して「吉井君の歌」
という『酒ほがひ』評をかいている。おなじタイトルを用
い、ちがう吉井評価を押し出しているところにこの時期の
啄木の、短歌における対平出意識が出ている。歌の問題で
も平出と大いに議論したいところである。幸德事件をめぐ
る情報交換の機会を待ち望む点では、平出のがわでも啄木
同様につよいものがあったであろう。「研学」してすでに
3週間、啄木の意見を徴してみたいいくつもの問題を抱え
ていたはずである。すでに電話、郵便などによる会談の打
ち合わせは可能なふたりなのだからせっかくの好機を逸し
たりはしなかったであろう。

 

2020年8月14日 (金)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その203

 10月。1日に修はつぎの内容の手紙を発信している。
小生儀研学の都合上左の通り執務時間相定め申し候……
執務時間毎日午前八時より午後三時まで……弁護士平出修
同一文面の広告が「スバル」10月号にも載る。修は幸德事件
の弁護のために本腰をいれたのである。修の公判(12月)で
の弁論の内容と「調査」といわず「研学(学問を研究するこ
と)」といっていること、訴訟記録の弁護士への配布が11月
24日であること等を考量すれば、この「研学」の第一の
内容は無政府主義・社会主義関係書の研究であろう。啄木は
これをまっさきに了解したであろう。ただし啄木は9月「中頃よ
りの勿忙殆んど言語に絶し、……殆ど不休の一ケ月を過して」
云々という忙しさの中にあった(10月22日吉野章三宛)。
 9月15日に設けられた朝日歌壇の選者の仕事(「歌壇は莫迦
に景気が可い」)、引き続く二葉亭全集の仕事、10月からは
3日に一晩の夜勤、10月4日妻節子長男真一を出産、同日よ
り『一握の砂』の編集開始(超人的な作歌・編集は16日ころ
まで)……さすがの啄木もこの1カ月は修を訪うひまはなか
ったかもしれない。 

2020年8月13日 (木)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その202

 中村のこの卓見を手がかりに啄木・修の幸徳事件をめぐ
る協同関係(9月~12月)を考察しよう。

 9月。8月29日ころから9月上旬にかけて啄木は「時代閉
塞の現状」を執筆した。これは自然主義論の上に展開され
る「時代閉塞の現状」批判なのであるから、修にとっても
興味深い評論である。原稿は新聞掲載不可のため啄木の手
許にあったのであるから、啄木はこれを修に見せたであろ
う(後述)。中村文雄の推定は的を射ているであろう。
 啄木は7月社会主義無政府主義関係書を大量に買い集め
た。9月に上京した恩師新渡戸仙岳に「先生、今なら社会
主義無政府主義に関した本はとても安く買へますよ。五六
百頁のものが五銭か十銭位です。何せ古本屋にあるのさへ
片つ端から没収されてゆくので値切れば値切つただけ安く
買へるんです」と啄木は語ったという 。
 平出に先行して文献の収集・研究をしていた啄木は平出
の収集・研究にとって大いに役立ったであろう 。

 

2020年8月11日 (火)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その201

  幸徳事件と啄木――9月~12月

 さて、ここであらためて、時間を9月上旬に遡る。幸徳
事件をめぐる平出修と石川啄木の協同(9月以降年末まで)
を考察するためである。この期間はほとんど石川啄木の『一
握の砂』創造の時期と重なる。啄木の二つの仕事は余りに
大きくて重く、ほぼ同時期を二重に論ずる以外に方法がな
いのである。

 二人の幸徳事件をめぐる関係はしばしば論ぜられてきたが、
実際のところ、その認識はパターン化していた。平出は1911年
(明44)1月に幸德事件の裁判関係の情報を極秘で啄木に伝
えた人、啄木はそれを記録に、詩に、思想形成に摂取した人
というパターンがこれである。中村文雄のつぎの叙述はそう
した状況にたいして大胆に切りこんだものであった。
 啄木の1910年7月の「所謂今度の事」、同年8月の「時代
閉塞の現状」などは当時公表されなかったが、二人の親密
な関係からばかりでなく、同じ問題をかかえていたので、
修も当然読んだであろう。社会主義関係書の貸し借り、裁判
記録や幸徳秋水をはじめ被告の手紙は勿論、幸徳が獄中で書
いた「陳弁書」を二人で読み、修が職務上得た知識と啄木が
持参する新聞社の最新情報とを忌博なく交換し、啓発し合い、
理解を深め、事件の実態を正確に捉え、その意味を深刻に把
握していったと考えられる。1910年12月に草稿、翌年1月に
加筆された修の「大逆事件意見書」と、同じ1月にまとめら
れた啄木の「日本無政府主義者隠謀事件経過及び附帯現象」
「A LETER FROM PRISON ‘NAROD’ SERIES」は、幸德事件
の真相を究明しようとした、共同の貴重な遺産である。そのた
め多くの一致点を見出すことができる。

2020年8月10日 (月)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その200

 第二歌集『悲しき玩具』では破壊と創造がいっそう進む。
行の中に読点が入る、行末に句点・感嘆符・疑問符・ダッシュ
を用いる、三行中の一行または二行に一字サゲを施す。
  古新聞!                   
  おや、此処におれの歌の事を賞めて書いてあり――  
  二三行なれど。                
 (この歌は「六!/二、十二、八――/八。」で短歌の
絶対条件とも言うべき五音も七音もない。短歌の範疇には
いるのだろうか。)
  友も、妻も、かなしと思ふらし――
   病みても猶、
   革命のこと口に絶たねば。
 (この歌は「三、三、九――/ 六、/ 七七。」なので
三行目の七七で歌の調子がようやく表出する。)
 百年前に啄木三行書きの意義が正確に認識されたなら『一
握の砂』の歌々でさえ短歌とは判定されなかったのではない
か。まして上の二首などは。(だから今日まで、啄木短歌は
「在来の格調」にもどして読まれてきたのである。)

2020年8月 9日 (日)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その199

 しかし啄木が作ったのは短歌であり、しかる後にその短
歌作品に内在する「短歌在来の格調」を三行書きに拠って
破ったのである。「在来の格調を破」られた短歌は短歌で
ありつつ、詩になったのである。こうして啄木は嘗て存在
しなかった三行歌=三行詩を創造した。
 その行分けは無造作のように見えるが『あこがれ』「呼子
と口笛」の詩人石川啄木のセンスと技巧が行き亘っている。
 このような作品は短歌と詩と双方において一家をなした
希有の天才(啄木の外に北原白秋がいるのみ)によってし
か生み出し得ないものらしい(白秋は歌を「詩」にしよう
とはしなかったが)。
 ここに、土岐の一定の成果を除くと、その後誰も三行歌
に成功しなかった原因があるのだと思われる。
 ついでに言う。啄木の父石川一禎は生涯に四千首近い歌
を作った歌人でもあった。父の影響で啄木は幼児期から少
年期にかけて和歌の韻律を摂取したと推定される。啄木三
行歌は「在来の格調」を自在化した上での「くずし」なの
である。在来の技法を若くして摂取した後「くずし」に入
ったピカソを私は連想する。

 

2020年8月 8日 (土)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その198

 髙叔玲(前掲)によると、三行書きによって啄木が生み
出した形式は基本的には6つ(五七/五七/七、五七五/
七/七等々)、そのうちの4形式では行末の七音を三音
と四音に分解し、次行に三音または四音を送ることでさら
に8形式を生み出した(たとえば五七五/四/三七など)。   
 後者の一例。
  真白なる大根の根の肥ゆる頃
  うまれて
  やがて死にし児のあり
 大室の研究(前掲)によると、『一握の砂』全551首
中字余りを含む歌は219首。実に約40%の高率である。
(そのうち33首は定型であった歌を『一握の砂』に三行歌
として編集するにあたり字余り歌へと推敲したのである。)
この219首を調べるといっそう多くの形式が派生してく
るであろう。が、未調査である。
 さて、吉田精一(前掲)はかつて竹内敏雄の説を引いて
こう言う。「短歌のリズムは、明確なセジュールによつて
区分されて断続しつつ進行するのではなく、むしろ不断に
うねりをうつて流動するやうな趣きを呈する」と。
 竹内・吉田説に従うなら、『一握の砂』の三行歌はもは
や短歌ではなく三行詩と言うことになるであろう。

2020年8月 7日 (金)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その197

 「歌の調子」というとき啄木は、いわゆる上の句、下の句
の間に多少の小休止をおく七五調が「」から短歌の支配
的な調子となっていたと言う。七五調は別の表現をすれば、
五七五/七七という二行歌だというのである。おそらく
五七調の歌は五七/五七七という二行歌と認識されていた
のであろう。
 それが明治になって、活字印刷の導入により一行書き表
記となった。しかし歌の内部では相変わらず七五調が支配
している(副次的には五七調が)。
 啄木は三行書きによってこうした「現在の歌の調子
短歌在来の格調」を破壊しようとする。「三」行で書く
と言うことは「二」行で書く調子(つまり五七五/七七と
五七/五七七)を全て壊してしまう(無くしてしまう)こ
とを意味する。
 なぜなら、啄木にとって一行目と二行目の行末は小休止
を意味するのだから。たとえば
  砂山の砂に腹這ひ
  初恋の
  いたみを遠く思ひ出づる日
は「腹這ひ」で切り、「初恋の」で切るのあるから、決して
七五調または五七調でつまり二行で、読むことは出来ない
のである。五七/五/七七と読め、これが読者に対する
啄木の要求である。
 こうして「現在の歌の調子」「短歌在来の格調」の「破壊」は
同時に新しい調子の「創造」でもある。

2020年8月 6日 (木)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その196

 1910年(明43)10月22日、吉野章三あて書簡のなかで啄木
はこう言っている。(今度の歌集は)
『一握の砂』と題して来月上旬東雲堂より発刊致すべく、一首
を三行に書くといふ小生一流のやり方にて(現在の歌の調子を
破るため)……」と。
 また、「明治四十四年当用日記補遺」の「前年(四十三)中
重要記事」の中にも以下の記述が見える。「十二月――初旬
『一握の砂』の製本成る。……一首を三行として短歌在来の
格調を破れり。」と。
 短歌の三行書きがなぜ「小生一流のやり方」なのか、土岐哀
果という先行者がいるではないか。またなぜ短歌を三行書きに
することが「現在の歌の調子を破る」こと・「短歌在来の格調
を破」ることなのか。
 土岐との関係の考察は前掲小論にゆずり「現在の歌の調子
短歌在来の格調」とは何を指すのか、これを調べてみよう。
石川啄木は最初の歌論「一利己主義者と友人との対話」でこう
述べる(その前に七五調や五七調のことも話題にのぼっている)。
 のみならず、五も七も更に二とか三とか四とかにまだまだ分
解することが出来る。歌の調子はまだまだ複雑になりうる余地
がある。昔は何時の間にか五七五、七七と二行に書くことにな
つてゐたのを、明治になつてから一本に書くことになつた。
 今度はあれを壊すんだね。歌には一首一首各異つた調子が 
ある筈だから、一首一首別なわけ方で何行かに書くことにするんだね。

 

2020年8月 5日 (水)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その195

      啄木三行書きの意義
         
 啄木は『一握の砂』(東雲堂書店、明治四十三年十二月一日
発行)においてなぜ全短歌551首を三行書きにしたのか。
 啄木三行書き短歌をめぐる論考は少なくない。管見に入
った文献だけでも47編ある。中には、折口信夫「この集の
すゑに」(『海やまのあひだ』跋)(1925)、土岐善麿「短歌
機構論」『短歌講座』第四巻(改造社、1932)、吉田精一
「短歌における造型と韻律」(「短歌研究」1953・1)、
大室精一「啄木短歌の形成(1)――『一握の砂』の音数律
について――」(「佐野国際情報短期大学研究紀要」第8号、
1997・3)、髙叔玲「啄木の三行書き短歌の形式とリズム」
(「安田女子大学大学院文学研究科紀要」第6集、2001・3?)
など卓論も少なくない。
 しかし、啄木自身の語る三行書きの意義に注目し考察した
人は誰もいない。小論「啄木短歌三行書き序論」(「新日本歌
人」2004・4)で初めてその考察が行われた。本稿は小論
主旨にその後の考察の若干を加えたものである。

2020年8月 4日 (火)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その194

 歌は必然的にロマンチシズムとセンチメンタリズムに向
かう。この時それは啄木自身の真実だから歌も真実となる。
ことに古典によって詩心は洗練され、調べは浄化された。
そのロマンチシズムとセンチメンタリズムは極上である。 
 青に透く
 かなしみの玉に枕して
 松のひびきを夜もすがら聴く

 神無月
 岩手の山の
 初雪の眉に迫りし朝を思ひぬ

 あめつちに
 わが悲しみと月光と
 あまねき秋の夜となれりけり

2020年8月 3日 (月)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その193

 1908年(明41)6月下旬の歌の奔流の時、「自然体の歌」
(頬に伝ふ、君が名を、などが)……偶然的にできた(三枝
昻之)のであった。さらに終わり近くで父母妻子を詠んだ時、
歌は真実の心の姿をも率直に詠むことの出来る詩形である
ことも知った。こうして「複雑なる近代的情緒の瞬間的刹
那的の影を歌ふに最も適当なる一詩形」であるとの認識も
得たのであった 。父母妻子の歌は意識・記憶の退行に伴って
できたのであったが、それは当時唯一の逃避先への退行で
もあった。
 さらにこの年8月8日~9月中旬の啄木は、生活の現実
(下宿追放の危機、無収入、家族への送金義務、小説が書け
ぬ不安等。そして金田一の助けもあったが)に追い詰められ、
歌に逃げ込んだのであった。逃避先は、幼児期・故郷の回想
であり、古典であった。万葉集・蕪村句集・唐詩選さらには
古今集・源氏物語・白楽天詩集・宋元明詩選等、そしてすでに
血肉化していた西行であった。

2020年8月 2日 (日)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その192

 第3番目の章「秋風のこころよさに」は「明治四十一年
秋の紀念なり」と『一握の砂』小引にあるごとく、全51首
中45首が1908年(明41)秋の作である。あとは09年の作が
2首、10年3、4月の作が2首であり、第一次『一握の砂』
編集時には49首がすでにできていた(10月10日以後の作が
2首)。
 1908年秋下宿を追放されそうになった啄木は金田一京助
の友情に救われ、秋と冬の食と住を確保できた。窮迫の秋
を安堵の秋としてくれた金田一への感謝をこめたタイトル
である。
 タイトルに案内されてこの章を読んで行くと全51首はす
べて秋の歌のように感じてしまう。実のところ秋の歌は半
分も無いのである。
 全51首は最初の18首、次の16首、第3の17首の3グループ
に分けることができる。その第1のグループと第3のグル
ープに秋の歌を多くいれることによって、章の全歌が秋色
に染まって見えるように編集されている。 
 篠弘は言う。
 「秋風のこころよさに」の作風は、……四三年のものとは
ちがって……「自分でもつかみきれない悲しみに浸り、そこ
をさまよいつづけるような世界である。悲しみの源泉が明
確になっていない点で、作者の思索的な表情が見えてこな
い点で、まだリアリティを欠いて」いる、と。

2020年8月 1日 (土)

石川啄木伝東京編1910年(明治43)その191

 AとBは回想歌(過去をうたう歌)。Cは現在をうたう歌。
現在の歌と過去の歌の配置・組み合わせは「煙」のイメージ
に合わせてあって絶妙である。 
 BとCのほとんどはⅠ系の歌である。
 AのほとんどはⅤ系の歌である。上の例歌のようにたと
え自己をうたっていても、Aは過去の額縁に入っており、す
でに完全に対象化された自己である 。
 なお「煙 一」47首中Ⅰ系の歌は15首(32%)、Ⅴ系の歌は
32首(68%)、「煙 二」54首中Ⅰ系の歌は31首(57%)、Ⅴ系
の歌は23首(43%)。

« 2020年7月 | トップページ | 2020年9月 »

無料ブログはココログ

最近のトラックバック